竜と魔女の戦い
「……やっと出れた」
結界中央の建物の廊下に積まれた泥の山。
その先端である結晶化した部分から、ノアとモカはくたびれた様子で砕いた結晶部分から出てきた。
「疲れた……。すっごい硬かった……」
「窒息死する前に出口を作れてよかった――――ちょっと待って」
振り返ったノアにつられて、モカも視線を後ろへ移す。
そこには盛り上がった泥があるだけだったが、その泥の奥から、何かが崩れるような音がした。
つい先ほど、自分たちが結晶を砕いたときの音と、似た音が。
「……なんか、揺れ始めたね」
「そうだね」
ノレアたちのいる建物は徐々に揺れはじめ、壁に亀裂が走る。
揺れは次第に大きくなっており、天井から埃が舞い落ちる中、二人の頬を汗が伝う。
「……もしかしなくても……ヤバい?」
「口閉じてな、飛び降りる!」
言うが早いか、ノアはラマの服を掴むと窓ガラスを蹴破り、ためらうことなく飛び降りた。
着地手段がなければ確実に死ぬだろう高さにラマの悲鳴が下降しながら響き渡るが、その視線を横にずらした瞬間口を閉じピタリと叫ぶのを止める。
「……まさか、もうお目覚めだとは。どうしたもんか……」
同じ方向を見ながら冷静に呟くノアの視線の先にあるのは、崩壊していく建物の中から現れる巨大な泥の竜の姿。
溢れ出す泥で自らの体積を増やしているその流派、今でこそ小さな山ほどの大きさだが、いずれは手出しの仕様がないほど大きくなるのは目に見えて明らかだった。
なぜなら、泥が溢れかえっているのは竜の体からだけではなく、結界の中の地面がにじみ出た泥で覆われているのだから。
「よっと」
ノアは自身の少し下の空中に箒を出現させると、ラマをわきに抱えながらその上へ着地する。
「……ねぇ、君太った?」
「いきなり何!? 太ってないよ! ……たぶん」
「(そういえば、最近ウェンディにつられて何か食べるっていうのが多かったな)」
「え、もしかして下ろそうとか考えてる? やめてよ!?」
「どうしよっかな」
「ごめんなさい! ちゃんと痩せるから!」
そんなやり取りをしている間にも竜は巨大化を続けており、妙案の浮かばないノアはどうしたものかとため息を吐く。
「いや、ちゃんと痩せるってば……本当に」
脇下でさえずる声を無視して眺めていた視界へと入り込む、小さな二つの影。
それが何か分かった瞬間、ノアは可笑しそうに口の端を吊り上げた。
「いやーだってさー、あんなに美味しそうに隣で食べてたらこっちもお腹がすいてきちゃうっていうか……」
「ラマ」
「はいっ!」
「ちょっと放すね」
「……はい?」
ラマが言葉の意味を理解するのを待たず、ノアは抱えていた腕を開いて手を離した。
「ちょ――――ッ!?」
悲鳴を無視し、前へ構えた左手に現れるは黒一色の弓。
空いた片手で矢を番え、その鏃を遠方の敵へと向ける。
体は動かず、瞳は揺れず、口は静かに息を吐き出す。
射るべき的を、捉えるために。
「『急げ』と言われても、この足場、じゃッ!?」
ノアたちとは反対側から竜へと迫っていたのは、小さな光を連れたアズだ。
泥に呑まれていない瓦礫の上を渡っているが、近付くにつれてその数は少なくなっていく。
そして、問題は他にもあった。
『!』
泥が渦を巻き、その中から小さな魚が無数に湧き出でる。
魚は光に近づくと形を保てず溶け落ちてしまうが、アズに向かう個体は影響を受けていない。
「…………」
なんとか魚を蹴散らそうと辺りを飛び回る光を、アズはがっしりと掴んだ。
何事かと慌てふためく光は形を変形させるが、強くつかまれたその手の中から逃げ出すことは出来ない。
そして、アズのしようとしていることに気付き逃げ出すのに必死になるには、理解が遅すぎた。
「フンッ!」
大きく振りかぶり、大きく振られた右手から光が空へと射出される。
魚の壁はぶつかるよりも速く溶けて消え、光は球となって天高く一直線を描いていく。
浮遊の力を越える力で投げ飛ばした光の姿を見送ると、アズは周囲を囲む魚の大群へと目を向けた。
泥から生まれた魚が景色を埋め尽くす様はまるで蝗害。
生き物によって作り出される悪夢がそこにはあった。
「気持ちわる……」
率直な感想を口に出すと、アズは足元の己が影へと手を伸ばす。
触れた指先から水面のように波紋が広がると、影は泥の海を侵食し始める。
「カガミノヒトミ」
ぼそりと呟かれた一言は、魚の大群を消し去る合図となった。
大群を全て内に収めるように広がった影。
その内から出でた無数の腕が魚を掴み、そのまま握り潰した。
一本、また一本と伸びた腕が魚を掴み、その体を泥へと変えていく。
高速で動こうが、空高く泳ごうが、腕は必ず狙った個体を掴み上げ、もてあそぶこともせずに握り潰す。
逃げることも食らうことも出来ずにただ潰される魚の悲鳴が、泥の雨の中を絶えることなく新たにまた生まれては消えていく。
悪夢が別の悪夢に塗りつぶされる景色の中で、アズは変化の無い顔で遠くを見つめた。
「その子たちのことは任せたよ、ウェンディ」