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潜み住むモノ

作者: ひやニキ

大昔に、実際に体験したことを基に書いた短編のお話です。

世の中不思議なことは早々ないと思って生きていましたが、この時ばかりは友人ともども青ざめたことを覚えています。


そんな不思議体験を皆様にもぜひ、どうぞ。

 2015年、春。

その日、"私"はワインと酒のつまみの材料を片手に、O線S駅に降り立った。


と、言うのも高校時代の友人であるDが、実家である茨城県から東京へ転職のため引っ越してきたのだ。

その入居祝いのため無類の酒好き同士でパーティーとしゃれ込むためだ。

同じ線沿いに、嘗て同じ学び舎で仲良く過ごした友人が越してきた。

そんな出来事に心が弾まないわけがない。


向かう電車の中、青空を眺めながら思い出が蘇る。

空の教室で先生の目を盗んでカードゲームに興じたこと。

互いに苦手な科目を試行錯誤して教えあって結局テストがボロボロだったこと。

センター試験の高得点祈願のため、寒い体を震わせながら一緒に神社に行ったこと。

そんな過去の日々に口元が微かにほほ笑む。


 駅について10分ほど、12時を少し過ぎる頃。

改札前に、Dと再会した。

少し小柄な体躯、真っ直ぐでさっぱりとした黒髪、細く切れ長の目に高い鼻。

筋肉付きの良いシルエットと浅黒い肌は、昔野外スポーツをしていたことを如実に表している。

ずっとメールと通話アプリで連絡はとっていたものの、実際に何年ぶりにも会ってみると心が弾むものだ。


 「よう、久しぶりだな。

卒業式以来だから7年ぶり位か。

だいぶ瘦せたんじゃないか?

こちらに来て食うも苦労する生活を送ってはいるのか。

人間体が資本、きちんと体を鍛えておかないと直ぐに倒れてしまうぞ」

そう言いながら力こぶを作る。


「その意見には大いに納得だけど、僕は生憎Dのようにスポーツや筋トレに取り立てて興味のある人間ではなくてね。

いつも大縄で1人引っかかったり、バスケットボールを顔面で受け止める運動音痴だから」

「あ、その言葉。高校の卒業式でも同じこと言ってたぞ。

この数年間で全く何も変わっていないんだな」

「変わってない?変わったさ。」

「何が?」

「体が経年劣化した」

「それはお互い様だろう。

なんにせよ久々に会ったんだ、先ずは飯にでもしよう」

笑顔で明るく話すDの姿に、高校の頃の姿を重ねる。

あれから年月が経ったのだなぁ、としみじみと私は感じていた。


「昼間から酒をガツガツ入れたいところだがな、家に行く途中旨いラーメン屋があるんだ。

それをどうしても食わせたくてな」

こんなにもワクワクとしているのは、互いに昔のようなやり取りが出来て郷愁と歓喜で胸中を膨らんでいるからだろう。

それを体で表現するかの如く、私もDもどこか足取りは軽くて空気が穏やかである。

『喜怒哀楽が、ハッキリしている故非常に付き合いやすい』

それは出会った頃から感じている。


 何故ガリ勉でどこか暗くて人付き合いの苦手な私と、明るくスポーツマンなDが友人となったのか。

正反対という言葉が似つかわしい私達が仲良くなった経緯は未だ私の中で混沌としてている。

Dとの出会いは高校1年まで遡る。

大学で獣医学を専攻したかった私は高校の生徒の中でも取り立てて勉強と小説以外興味はなかったし、それ以外に興じなかった。

加えてコミュニケーション能力も絶望的で人と断絶していたので正に根暗なガリ勉の典型のような人間であった。

だから、クラスメイトも積極的に声をかけてこようとはしなかった。


 しかし、入学から3ヶ月経ったある日、当時野球部にいたDがなんの前触れもなく、声をかけてくる。

「俺らと一緒に飯食わないか?

弁当の中身見せろよ、俺のはのり弁!

見ろよこのおかず、母さんの作る卵焼きは甘くて美味いんだぜぇ」

私からすれば毎日通る交通量がゼロに等しい交差点で、ある日急にトラックに突っ込まれた、そんな感じの唐突さと衝撃をクッション無しに食らった気分であった。


そんなものだから、私は口を開けてポカンとしていた。

きっと非常に滑稽な顔をしていたに違いない。

「答えないってことはイエスだな。おーい、O!M君!コイツも一緒に飯食うって!」

その言葉とともに抵抗する暇もなく、弁当と水筒を無意識に握りしめたまま引っ張られて行った。

そこにはクラス一の身長と体重を誇る、穏やかさを絵に描いたようなMと、日焼けた肌に髪をワックスでツンツンにした威勢のいい男、Oがいた。


どうやらよく小説を読んでる姿を見られていたらしい。

彼らも同じ小説が好きだったらしい。

他にも漫画やアニメの好きな傾向が非常に似通っているらしく、常々声をかけたかったらしい。


 それ以来、高校卒業までクラスが別になってもどこかに集まってはお昼を共にした。

互いの趣味をゲーム・小説・アニメ漫画、果てはスポーツでも共有する仲になっていった。

たった一度お昼に誘われたことから、仲良くなり其れがこんなにも続くとは当時思ってもいなかった。

 以上が私たちの仲良くなった流れである。

そんな私たちは時と場所を移して今こうしてやはりランチタイムを共に過ごしている。


 「再会してもお昼一緒に食う辺りホンット腐れ縁だな。

今昔両方、お前に飯誘われて振り回されてる気がする」

と、意地の悪いからかいを内角角度低めから投球する。

「まーそう言うけどな、あの時声かけてやらなかったらお前ずっとボッチだったろ。

救ってやった恩人に感謝しろよ、あっ、そっちの胡椒とって」

からかいは見事打たれた、というところか。


 30分ほどでラーメンを食べ終え、Dの新居に向かうことにした。

そこから歩いて10分もしないうちにDの越してきたマンションに着く。

マンションの外観は比較的新しい。

茶色のタイル状の壁を持つその立派な4階建ては、モダンな雰囲気を醸し出し、付近の住宅街にごく自然に溶け込む自然さも兼ね備えていた。

中々広い駐車場も裏にあり、車持ちの入居者にも優しい。

だだっ広い駐車場には少しお値段高そうな銀色の大型車が目を引く。

その奥には廃車なのだろうか、錆が生え始めた赤い普通車があり、私はどことなく不気味に感じた。


不気味と言えば、車のみならず建物全体がどことなく薄気味悪いと既に感じていた。

昼間もまだ14時にもなっていない晴れの日なのに、まるで曇り空のようなどんよりとした空気が周囲に立ち込めている。

まるで建物の周囲だけ一足先に梅雨の季節が到来し、降りしきる雨の中湿気に耐えながらじわりじわりと汗をかきつつ1か月過ごしたかのような、そんな独特の「重さ」があった。


同時に何故か生臭いような臭いがする。

どこかの部屋で豚肉を炎天下の軒先に吊るしては、触れるだけで肉汁が溢れ崩れゆくほど腐敗させているのではないか。

「なぁ、D。ここ何だか気持ちが沈む、というか空気が重いというか・・・何かしら暗い感じしないか?とてもヒヤリとしてて悲しい感じというか」

耐えられなくなり、私は今私の肌と心臓が直に感じている青く重い感情のようなものを、Dの背中へやんわり投げかけた。


「そうかぁ?別になんも変わらんと思うぞ。

それどころかゴミ捨て場も綺麗ならエレベーターもあるし、隣はコインランドリーで向かいは本屋さん。

設備は整ってるし不満になる点がない。

加えて同じ階の人に若い夫婦さんがいてだな、その奥さんの胸が中々たわわで・・・へへへ」

Dの顔が話してるうちにみるみるだらしなく締まりがなくなっていった。


胸がたわわなのは確かに気になるポイントではあるものの、私の感じている変な空気をDは感じていないようであった。

私もきっと気のせいだと、その場に於いては割り切ることにした。


否、その時点で違和感があったことに、正直言ってしまえば気づいていながらも、そこにある其の事実を心に仕舞って見ぬふりをしたに過ぎなかった。

思えばもっと確りとこの時私自身が五感で感受した出来事をDに言葉で形容してぶつけるべきだった。



 「俺の部屋は2階、左右に二部屋づつあるんだが、右側の奥が俺んちだ」

エレベータで2階に上がると、そこは真ん中に通路が通り左右に二部屋づつ部屋があった。

一部屋づつの入り口の離れ具合を見る限り、全部屋そこまで狭くはなさそうだ。

ドアもグレーで比較的新しく、無機質で綺麗である。

白色の壁、ベージュの廊下と、見渡してみればフロア全体が感情的な温かみのある色ではない鉄面皮である。

南の方角の突き当りは窓があり、外階段があるであろうドアがその横にちょこんと存在した。

丁度南中した太陽の光が上方から鋭角で差し込み、フロア全体の空気を春の陽気らしく暖めている。


はずなのだが。


私の肌は、ひたりひたりとどこからか来る冷たい"ナニカ"を確り感受していた。

 Dは鍵を取り出すと鍵穴にそれを差し込み、ゆっくりと回した。

カチッと乾いた音を立て鍵は開けられた。


 「さぁ、どうぞ稀人よ。

広々とした空間を使ってゆっくり休んでいきたまへ」

馬鹿げているほど芝居がかっている。

長年の友人を、初めての来訪として家にあげるのが、愉しいのだろう。


Dは仰々しいセリフと作られた恭しい態度を取りながら私を中へ入るよう促す。

1DKの広い部屋だ。

壁は磨かれたばかりの白、雑多なインテリアは木目の棚に飾ってあり、部屋の真ん中には炬燵が置いてある。

はさんで南側にテレビが台の上に綺麗にこさえられており、北側の壁際にはまだ配置を考えあぐねているのだろうか、布団が置いてあった。


 その他にも本棚があり、週刊連載されてる海賊・トリコロールカラーのロボット・かつて流行った魔法少女ものの漫画を筆頭にそれなりに知名度の知れた面々が顔を連ねて鎮座している。

全体の印象を一言で言うなら「生活感のある、個人事業主始めたてのオフィス」だろうか。

どこか知的でお洒落でありながら雑然とした雰囲気がその部屋の持つ性格であり、映し出される部屋主の側面なのかもしれない。

記憶を掘り起こしてみれば、Dはお洒落な私服を着てる男だった。


 「ワインを持ってきたよ。そこそこ良質な渋めの赤。冷やして夜に飲むために冷蔵庫に入れておくよ。」

私はDの冷蔵庫に食材やと一緒にワインを冷蔵庫に収納した。

「おっ、サンキュウ。

早速だけど、ゲームでもやろうぜ。この手の好きだろ。」


 ゆっくりと談笑しているうちに、日は落ちはじめ、夕暮れが下りてくる。

月が暗闇をバックに太陽の光を反射するころまで、私たちは久々に会う旧友との他愛のない子供じみた遊びに興じた。

それは新しいカードプールを存分に使ったカードゲームであったり、或いは巨大な生物や円盤を落とすゲームであったり、また或いは新しく出た漫画のシリーズの話を延々するだけであったりした。

ただ、その間声以外の物音が空間を震わせない状況が私にはひどく不気味で仕方がなく、頼み込んでパソコンでミュージックを起動してもらっていた。


パソコンが単調に再生する懐かしいアニメの音楽や、少し古い子供のころの邦楽。

あぁ、まだ此方の方が落ち着く。

無音であるとどうしてだろうか、まるでナニカが背後から忍び寄るような背筋に感じる寒さであったり、縦横無尽上下左右どこかを何かが通過する足音が聞こえるような感覚を覚えていた。


極め付けに私がトイレを借りた時である。

この部屋のトイレは入り口入って左側にあるため、人が出入りしたり扉の開く音が分かる。

私はその時トイレに入ってすぐにインターホンと「コンコンコン」と丁寧に礼儀正しくも3回、玄関を叩く音が聞こえた。

しかし直ぐDが来客に対応するかと思いきや、応じる気配もない。

トイレを出てDに尋ねる。

「さっきインターホンとノックがあったみたいだけど、来訪の方は対応したの?」

しかしDは目を丸くするばかりであった。

「インターホン?ノック?

そんなの無かったぞ。なにか聞き間違えをしたのでは。」

目の前のこの男にはなにも聞こえなかったらしい。

成程聞こえなかったのならば仕方がない・・・否そんなことがあるだろうか?

少なくとも眼前に座りながら部屋のど真ん中で呑気にゲームをプレイし、ポテトチップとコーラを頬張る男は本当に何も聞こえなかったらしい。


結局それを聞いたか否か詰問をしてもまともには取り合ってもらえなかった。

私は別の部屋の音が聞こえたのではないかと、己を無理むり納得させることにした。


 そうこうしているうちに、夜中になった。

私達はワインを空けながら、チーズとトマトでつくったおつまみや、明太子パスタを頬張っていた。

「他の部屋の住人へ挨拶は回ったのか?」

「あぁ、行ったぞ。

まず向かいは若い夫婦だ、ほら例の胸のボインな奥さんの。

対角線にあたる部屋はちょっと年齢のいったおじ様だな。くらーい顔して活気のない顔した人だったな」

なるほど、それぞれの部屋に住人は住んでいるのか。


「そして隣の部屋。

隣の部屋は何度も挨拶に行ったんだがなぁ。

直に会ったことないんだわこれが!

でも人は住んでるらしくてさ、いつもギターの音がしてて練習してるみたいだぞ。

ただいつ出かけていつ帰ってくるのか全然見当がつかなくてさ、いつか会いたいと思ってるんだがな」

キチンと挨拶周りに行く辺りはまめな男だ。


それは置いても話を聞くに、その隣の部屋の住人が若干不気味に思わないわけがなかった。

もしかしてそのギターの音は、Dの妄想で実際に人なんていないのでは…と余計な思索すら膨らむ。


が、その思索も瞬間聞こえてきたギターの音がかき消す。

まるで己の存在を誇示するかの如く、アルコールで鈍る大脳へ規則正しい音の羅列が滑るように流れ込む。

「おっ、今日も聞こえてきたな。

いつも何の音楽弾いてるのか分からないんだよなぁ。

お前この曲聞いたことあるか?俺は無い!」

いくら耳を傾けても曲までは判然としない。

私自身が、洋楽以外で音楽にあまり興味を示さない人間なのもあるが、もしかしたらマイナーな曲なのかもしれない。

確りと言えることはまだ稚拙なのかゆっくりと弾き、またその音はどこか暗く海底の泥に沈む込むかのような旋律であったことだ。


にしても。

隣の部屋から物音一つ聞こえぬ無音だったのに、急にギターの音だけ聞こえるだろうか。

否、まさかもしかして。頭をよぎる一つの思考が喉から流れ出る。


 「なぁ、疑問に思ったんだが。ここの家賃いくらだったんだ」

「ここか、ここな。実は4万円位なんだよ。

立地と部屋の広さの割に安いだろ?

特に部屋に問題があるわけでもなければ、他の人だって普通に住んでいる。

不動産会社もこの部屋で人が死んだことはないって言うし、なに心配することはないさ」

真っ赤に酔った顔で口角をあげながらへらへらと笑うD。

コイツは本当に何も疑問に思わず、此処に入ったのか!

頭が痛くなってきた、勿論ワインのせいではない。


 「おっ、一瓶空いたぞ!お前酒買ってきてくれ!

コンビニは駅と反対に行くとすぐにあるから」

人の不安を他所に気楽に人をパシリに出来るこの精神を見習いたい。

そう、私は判然としない視界の中思った。


 酒とつまみを買い足して、マンションへと戻る。

ここは1階。エレベータは3階に止まっているので、上行きボタン押す。

すると、何故か4階に向かったではないか。

そのまま降りてくるかと思えば2階に止まり、こちらへ降りてくる。


なんだか、まずい。やばい気がする。

何故そう思ったか分からないが、私はダッシュで奥の階段に向かい、2階まで駆け上った。

 「どうしたーそんな急いで。

急がんでもつまみは食い切らないぞ」

その場は『何でもない』の一言で切り抜けて買ってきた酒を投げ渡す。

その間も隣部屋のギターは悲しく聞こえていた。


 ・・・・。遠くから聞こえるギターの音色で目が覚める。

いつの間にか二人して寝てしまったらしい。

Dは炬燵に入ったまま寝息を立てている。

時計を見ると1時半、無論終電なぞ無いので泊っていくしかない。

幸い明日は日曜だ。

二度寝しようと(勝手に)布団を借りて寝ようとする、のだが。

先ほどよりギターの音が大きく、うねる様に響くように耳に入ってくる。

そこにはまるで無理にでも聞かせるかのような、強く湿った意思すら感じられた。

鬱陶しくなった私は隣部屋の壁を軽く蹴った。シン、と音が鳴り止む。


 (物分かりがよくて良かった)

そう思ったのも束の間、より大きい音をかき鳴らす隣人。

短気な私は今日の出来事を総て忘れて今度は思い切り、それは壁に穴が空くのではないかと思わんばかり蹴った。

再び、音が鳴り止む。その瞬間

ガチャ、バタン。―――ピンポン、コンコンコン。

来た、来てしまった。

隣の人がこちらに訪ねてきた。

相手を怒らせたか、と思い私は背筋が凍ったと同時にDも会ったことのない隣人がどんな人物なのか、という好奇心が私の心身を突き動かした。

 ドアの前に立ち、のぞき穴を覗く。

しかし、不思議なことにそこには誰もいなかった。

もしかしたら背丈が低くてのぞき穴に映ってないのかもしれない。


そう思った私は

 「どちら様ですか」

判り切ったことではある。

それでも人がいることを確認するため、その言葉を扉の向こうの誰かに向けて投げかけた。

一寸の無音の時間。返答がない。

再びコンコンコンと戸を叩く音がするまでの数十秒間、まるで時が止まったかのようであった。

 「どのようなご用件ですか」

痺れを切らし、チェーンロックのみかけてドアを開ける。


開けると当時に。

取っ手にかけた私の腕は。冷たく、骨ばった、黒ずみ、血の滲んだ手に思い切り掴まれた。

ドアの隙間から、見えるうねって茶色く濁った長髪、窪んだ眼窩には白く濁った眼、歯は何本か抜け落ち、頬はこけている。

そして、あのアパートに入る前に嗅いだ、酷く腐った肉の臭い。

 「アアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!」

まるでずっと水にありつけず、喉が枯れ果てたようなガラガラの声で「それ」は叫ぶ。

 「離して、いたいいたい!」

腕を掴む力はその細さに反し異様に強く、段々と私の腕がうっ血し、爪が食い込んでくる。

 「アアアァァァァ!!!」

男か女かも判然としないそれは変わらず同じことを繰り返しながら、隙間から段々と中へ入ろうとする様はおぞましく卑しく、そして何より穢く私の網膜に投影された。

身の毛もよだつ忌避感から私は両手で思い切りドアを閉めようとする。

その度私の腕を掴む手は挟まれては徐々に力が緩む。


バタン!とうとう痛みに耐えられなくなったのか、その手は私を離し、ドアが閉まる。

不思議なことに締まるとと同時に呻き声は聞こえなくなった。

滝のような冷汗が頭から滴り、酷く寒かった。

掴まれた腕を見る。手の形が真っ赤に残り、食い込んだ爪痕から血が出ていた。


 浴室を借りてシャワーをひねる。

鏡には酷く青ざめた私自身が立っていた。

部屋に流れる空気が寒いのか、それとも私の心が冷え切っていたのかは判らない。

だが、その時のお湯はとても温かくて柔らかく感じられた。

早鐘を打っていた心の臓が正常な脈拍を打ち始めるまでお湯を浴び、再び鏡を見ようとした。

否、見ようとしただけで見ることはできなかった。


――いる。無意識だが私はそう確信した。

勝手にそう思い込んだだけかもしれない。

あの臭いと暗く冷たい腕の存在を感じる。

しかし、振り返らなくては風呂を出られない。

私は下を向いたまま、振り向く。

だが、そこには何もいなかった。

考えすぎだったのかもしれない。そう解釈することにした。


あの隣人は何者なのか、狂人なのか何なのか。

そもそも「ヒト」なのか。

酷く疲れてしまったのか、私はそんなことを深く考える余裕もなく、布団に倒れると眠りへと落ちていった。



 「起きろー昼だぜぇー」

気の抜けたDの声で起きる。既に12時のようだ。

普段からあまり機敏に動かない頭は、眠気と未だ残る酒気で更にも増して低スペックだ。


「おい、右腕どしたん?俺が寝た後何かあったの?」

その言葉に右腕を見る。なんだ、昨夜の手の跡か。


・・・そうだ!昨晩の出来事をDに伝えなくては!

先ほどまで低スペックだった脳みそが急に高稼働する。


「おい、D!隣の部屋の人に会ったぞ。

あれは普通の人じゃない、夜中にジャラジャラギター鳴らすだけならまだしも、きったない身なりに酷い臭いはするし、危害まで加えてくる狂人だぞ。

早く管理人に苦情言いに行ったほうがいい」

そう口から言の葉が滑り出るなり、深夜にあった出来事を一通り話した。


「うっわー、マジかよ・・・。

俺も時々あまりにも音が大きくて眠りづらい時あったけどまさかのモンスター入居者っつーのかな。飛んでもないやつだったわけだ。

ん?待てよ。

お前鍵閉めたんだよな、本当にいたとしたら、どうやってその人風呂場まで入ってきたんだ?」

確かに言われればその通りである。


昨夜は気にも留めなかったが、どうやって部屋に上がり込んできたのか。

それを一寸考える間に、何故かひやりと部屋の温度が下がったような感覚を私達二人の触覚が感じ取った。

「D、きっと考えすぎだ。

気のせいだろうし、あがりこんだ確証はない。

おそらく感覚と記憶がフラッシュバックしてその場に『いる』ように脳が勝手に再生しただけだ。

とにかく、まず大家に相談しよう」

それらしいことを言ってDを落ち着かせる。


「あー、それなんだけどな。

連絡するなら管理会社に問い合わせる方がベストかもしれねえな。

ここを教えてくれた店舗に近いうちに行くことにするわ。ありがとな」

やや青ざめた顔をしながらDは礼の言葉を述べた。

その顔はどこか生気を失ったような不健康そうな顔に様変わりしていた。


 その日は夕方になる前に帰ることにした。

言うまでもなくもうあのギターの音を聞きたくなかったからだ。

例の夫婦の旦那さんだろうか、痩せた男が音もなく向かいの部屋に入っていくのを尻目に部屋の鍵を閉めそそくさと階段を降りていく。

駅前で二人でレストランで夕飯を済ませるとそのまま解散した。

久しぶりの旧友との時間は一つの『しこり』を私達の心のうちに作る結果になった。



 後日、一週間もした頃だろうか。Dから連絡がきた。

この前のことを話したいし、飯でも行かないかと言うのだ。

特段断る理由もない私は、土日を使って再びS駅まで行くことにした。


着いて早々Dにレストランに連れ込まれる。

この前と同じ南中した春の陽気が差す窓際の席でDは話を始めた。

「あの後管理会社に行って話つけてきたよ」

行動が早い男だ、感心してしまう。


「結論、俺はあそこから引っ越して、駅を挟んで逆側に住むことにした」

「引っ越した、ってことはやはりあのマンションおかしいのか」

「ん、まぁ・・・な。

俺な、管理会社の人と膝突き合わせて相談したんだ。

『隣の部屋の人が何度か警告しても音楽を大音量で演奏するし、どうも変な人らしい。管理会社さんからも注意してくれないか』

って」

ひそひそとした声を発声しながら、まるで誰かに聞かれることへ気を払うかのような態度である。

顔色も優れた色ではない。

なにか聞かれたらいけないことでもあるのだろうか。

余計なことを考える間にもDは話をサクサクと続ける。


「そうしたら担当の人。

怪訝な顔してさ、『少々お待ちください』つって奥に引っ込んだの。

なんだか長く待たされてさ」


私はマンションの冷気を感じた時から、ずっと厭な予感はしていた。


「数十分して戻ってきた担当が顔真っ青にしながら言うんだよ」


やはり隣の人は…


「『申し訳ありません、Dさんの階は。あなた以外誰も入居しておりません』」


いま、何と言った?

想像の斜め上を行く答えに、一瞬至高が停止する。

もし。それが本当ならば。


若夫婦も

初老のサラリーマンも

私が腕掴まれた隣人もギターの音も


一体、いったい誰だったというのだ。

確かに、Dは挨拶回りをして喋っている。

私も演奏音を聞き、腕を掴まれている。

そして帰る際に向かいの部屋に帰っていく若い男性も目撃している。


全て。総て。凡て。すべて。それは誰なのか、いや生きている人だったのか。

Dが越してしまった今となっては、全ては確かめようのないことである。


「俺はその時、何を言われたか一瞬判らなかったよ。

続けて本当に誰も入居者いないのか確認してもさ

『1階は3部屋、2階がお客様、3階が2部屋の入居者で、その他の入居者はおりません。

駐車場利用もお一人のみです。近隣の住民からも、音楽演奏での苦情は一切来ておりません』

って言うんだよ。

俺たち、夢でも見てたっていうのかなぁ」


語るごとにみるみる白くなっていくDの顔は、まるで死んで血色を失っていくかのようだった。

と、同時に私はおかしなことに気付く。

「一寸待ってくれ、4階は誰も住んでないのか。

それに車は駐車場に2台あったぞ、綺麗な車の後ろに赤の古い車が」

「4階?誰もいないってよ。

赤の古い車だってあの日はおろか、入居してた時一度も見かけてないぞ」


あぁ、やはり。

錆びた車も、あの深夜のエレベータも…。


もし。

隣人が訪ねてきたときにチェーンロックをしていなかったら。

エレベータの前で「ナニカ」が下りてくるのを待っていたら。

私が訪ねずにDが異変に気付かないまま住み続けていたなら。


私やDはどうなっていたのだろうか。

今もそこにマンションは建っているらしい。

今も誰かがそこに入居し、あのギターの演奏を耳にしているのだろうか。

【ライナーノーツ】

結局、あのギターは何だったんでしょうか。

実際に今でも思い出しますが、何年も経った今も正体はわかりません。


D君は最近連絡が取れなくなってしまいましたが、今何してるのかなあ…なんてこの出来事を思い出すたび考えてしまいます。


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