4 近衛騎士の事情 1
俺、ジェフ・ラルディは騎士であり、近衛の隊に所属している。
先日、我が国の王女殿下が他国へお輿入れし、それに伴う配置転換があった。この際とばかりに大きな新編成が行われ、自分が一つ昇進したのは喜ばしいが、物質的な移動もあり大変な忙しさだった。準備していた事とはいえ、部隊に平静さが戻ってくるまでかなりの時間を要した。
ようやく自分の周りが落ち着いた時、先日思いを互いに確認し合った、シェリル・ゲイトはどうしているだろう、とようやく考える余裕が出来た。だが最近近衛の詰め所でも顔を見ないし、何しろ唯一と決めていた王女殿下がいなくなったのだ、もしかしたら別の部隊に移ったのかもしれない。
俺もなんとか落ち着いたし、この時期になれば、彼女も忙しくてもある程度予定を組めるだろうと思っていたのに……。
なぜだか、どこにもいないのだ。
シェリルがいない。
どうして。
忙しくて顔を合わせないのはしょっちゅうだったし、同じ職場にいるから用があればいつでも会えるという安心感があったから、その瞬間まで、気づかなかったのだ。
「シェリル? 辞めたわよ」
シェリルは王女殿下の護衛班の中心であり、確実に所属替えがあったと思っていた。それで通りかかったシェリルの同僚である近衛所属の別の女性騎士に、どこに変わったか尋ねれば、そう言われた。
「辞めた?」
「ええ。もう王女殿下がいらっしゃらない、からと」
尋ねた女性騎士はそう冷たく言って、通り過ぎようとする。なかなか言葉が頭に入ってこず、固まってしまい、女性騎士を慌てて引き止めた。
「待てって! 辞めたのか? ほんとうに? 配置換えではなく?」
「だからそう言っているじゃない」
一応立ち止まった彼女は、俺を見て目を細めた。
「なんだ? 仲良さそうだったのに、あんた、教えてもらえてなかったの?」
刺すような言葉に俺が眉根を寄せれば、にやり、と赤く染めた口の端が上がる。
「ふうん」
「なんだ」
彼女の反応に嫌な予感しか無かったが、一応尋ねる。
「あんたの片思いだったんだ?」
「は?」
「やるじゃん、シェリル。今夜は酒が美味しいわ~」
くつくつと笑いながら、彼女は去っていった。
俺は呆然としたまま、周りの人間に聞いて回った。
シェリルは優秀な騎士だった。王族の護衛の一人になるほどには実力を認められていた。そして男性騎士に比べ、女性騎士は絶対数が少ない。故に娘に男性騎士を近づけ過ぎたくない貴族からは、護衛として引っ張りだこの職業でもある。ましてや彼女は王女殿下の護衛を長い間務めていたという箔もあり、勤務態度も評判が良かった。
だから近衛騎士、王宮所属の騎士を辞めても、どこかの貴族の護衛として引き抜かれているのかもしれない。そう思って訪ねてみても、誰もその先を知らなかった。
時期も悪かった。王女殿下の関連での人員移動が多すぎて、多方面の人事が混乱していた時期だった。
そして同時に、シェリルは、騎士団の誰とも深くは付き合っていなかった事に気がついた。
同僚として友好的に接しはするが、個人的な深い付き合いはなかったようだ。
俺との関係もそうだったのだろうか。
ただの同僚だったのだろうか。
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彼女との出会いは、俺が近衛に配属される前だ。
シェリルは一つ歳下だったが早くから女性王族の護衛として期待され、近衛に配属されていた。
俺といえば、身長がなかなか伸びず、その頃は近衛の基準から外れていたので、別の部署の下っ端だった。
傍から見たら華やかに見える近衛という職は、実は全く違う。主によっては汚れ仕事も任される。権謀術数の只中に放り込まれるし、そのうち仕掛ける事も覚える。更に言えば、主のために何かを求めて駆け引きするどころか、誰かの寝所に潜り込むなんてことも、ある。配属されてすぐの女性騎士は特に。
だからこその厳しい選抜だとしても、心が擦り減らないわけじゃあない。
シェリルは賢い。やるべき事を知っている。そして、王城で傷ついた顔を簡単に見せてはいけないことも知っていた。
その日俺は厩番だった。
長雨が続いて泥だらけになった小屋を掃除し、馬の世話をしていたら遅くなった。自身も泥だらけなのに作業が終われば、浴場が締まる時間になっていたのだ。
それでも汗ばむ季節で、雨上がりの湿気も多く、湯でなくても大丈夫だろうと、奥まったところにある水場へ向かった。あまり人が来ない場所にある井戸で、たまたま掃除の時に見つけた場所だった。場所が場所だけに不便ではあるが、なんとなく人知れず汚れを落としたいその夜は好都合だった。
月のきれいな晩で、月明かりが明るく視界も悪くなく、肌寒くもないし屋外でもまぁいいか、と外に出たのだ。
だが、人知れず汚れを落としたかったのは俺だけでは無かった。
そこにシェリルがいたのだ。
月明かりの中、井戸から水を汲み、何度も何度も頭から被っていた。小柄な身体が浮かび上がる。
いくら暑い季節だからといっても、井戸の水は冷たい。そんなに何度もざぶざぶ被っては身体が冷え切ってしまう。
「もう、やめておけよ」
つい声をかければ、びくりと身体を震わせ振り返った。彼女の動作について、雫が飛び散る。夜の闇に染まった髪は水の重さを纏い、月の光を反射した水滴を従える姿は、単純に美しく、俺は目を見開いた。
彼女はしばらくじっと俺を無言で見ていた。月光をほのかに吸い込んだ眼差しは真っすぐで、どんな光も反射してしまうんじゃないかと思えるほど、鏡のようだった。俺もその眼差しに圧倒されて、言葉を発することが出来なかった。
「すまない」
沈黙を破ったのは彼女だった。身に覚えのない謝罪の言葉に、首を傾げる。
「え?」
彼女は少し場所を横にずれた。
「君も水を使うのだろう?」
少女の澄んだ声だった。
「いや、俺はいいんだけど……」
「?」
首をかしげた少女の横顔にぺたりと濡れた髪が張り付いた。顔をわずかにしかめた彼女は、髪をつまんで剥がす。幼い仕草に少し力が抜けた。
「あんまり水をかぶるから……冷えるだろう」
「……ありがとう。ちょうどいいんだ、冷えたくらいが」
苦く笑った彼女に、なぜか胸が苦しくなった。そんな自分に慌ててポケットを探ってハンカチを差し出した。
「だめだろう、冷やしたら」
そう言って差し出したのは良いが、渡そうとしたハンカチは、暗くてもわかるくらいに汚かった。ズボンを侵蝕していた泥水が茶色に染めていたのだ。
いくらなんでもだめだろう、これは!
「うわ、ごめん!」
ハンカチを慌てて引っ込めると、そのままポケットにねじこんだ。こんなハンカチで拭いたたら、再び汚れてしまう。
だが、そうなると俺に差し出す布はもう、無い。
布を取りに行くには泥だらけで周りを汚すから、自分は水をかぶって、シャツを絞ってそれを着て戻ろうと思っていたからだ。
「……ふふ」
その様子を見ていた彼女が、笑い出した。俺はバツが悪くなって、目をそらす。まったく格好がつかない。
「心配してくれてありがとう」
彼女が言った。俺が視線を戻すと、桶を差し出してきた。
「貴方も洗いなよ」
「うん」
桶を受け取ると、彼女は身体を翻す。
「じゃあね」
それから、彼女とはごくたまにその井戸で会って立ち話をした。ただし彼女が水を被っていたのは最初の一度だけだ。お互い、勤務体系が少し違うようだというのは薄々気がついていたので、約束があるわけでは無かったが、月の明るい晩には会えることが多かった。
その関係性が変わったのは、出会いから数年経って、俺が近衛へ配属替えがあってからだった。
近衛の業務内容を知らなかったが、他の場所とは違うというのは空気で感じていたので、配属されて初日、緊張して近衛の待機場所へ行くと、彼女、シェリルがいたのだ。
太陽の光がある時間帯に会うのは初めてだったので、とても驚いた。なんとなく輪郭で捉えていた彼女が、いきなり立体になって現れたのだ。
彼女――シェリルは、豊かな栗色の髪を一つの三編みにまとめ、すこし勝ち気そうな大きな目は深い茶色をしていた。
俺が着られている近衛の制服をしっくりと着こなしているところから、近衛での歴が長いのでは無いかと思われた。
実際、周りから聞こえた話を総合すると、かなり前から年の近い王女殿下の担当になっていたらしい。
そこから本格的に親しくなった。考えれば、名前すら知らなかったのだ。お互い近衛になり勤務状況もわかるから、時間が合えば食事に行ったりするようになった。
友人として接すれば、シェリルは気持ちのいい人物だった。
訓練は熱心だし、護衛の改善点の議論にも積極的に参加する。なるだけ、理性的に順序を追って喋る努力も感じられる。
王城を出て仕事を出れば、くだけた事も言うし、男同士のような猥談も笑い飛ばし、根に持たない質で、彼女といる時間が何よりも楽しくなるのは、すぐだった。
男同士で騒ぐのもいいが、彼女との時間は少し違った。
変な見栄もなく、素の自分に近い状態で居られたのだ。
それは彼女も同じだったと思う。彼女が俺と食事をしてる時のような、あんな寛いでいる表情を見せたことなど、他で見たことが無かったからだ。
仕事のことはたくさん話したが、泣き言はほとんど言わなかったと思う。
ただ、一度だけ、シェリルが王女殿下の輿入れに着いていけないと知った時は違った。
「悔しい、悲しい」
とだけ言って、少しの間涙を流した。そしてしばらくすると、勇ましくぐいと拳で涙を拭い、こんがり焼けたソーセージをフォークにぶつん、と音を立てて突き刺し猛然と食べ始めた。
俺はエールが満たされたグラスを渡すことしか出来なかったが、それを受け取った時、シェリルが笑ったのだ。今まで見せたことなど無い表情で。
うっすら涙混じりで、柔らかくて、少し弱々しく、そして俺が見てきたどんなものよりも透明だった。
しばらく思考が止まった。
ああ、なんて美しくて可愛いんだろう。
今思うと、あの瞬間、抗いようもなく完全に踏み外したんだと思う。最後の最後を踏み越えてしまった。彼女に落ちてしまったのだ。
この時俺は、シェリルへの恋をはっきりと自覚したのだ。
それからしばらくは、シェリルも俺もというか近衛全体が王女殿下の輿入れに伴う様々な国内行事に忙しく、王宮内でちらりと顔を見ることはあっても、私事で落ち合うなんてことは出来なくなっていた。
俺はといえば忙しくはしていたが、それよりも自覚した恋心に大変狼狽えていた。
自分でも思ってもない方向から殴られたような気分だった。でも、それは不思議と嫌でもなくて、胸の内にしっくりくるものだから、納得していたのだ。これは俺が気づかなかっただけで、ずっと持っていたものだと。
そしてやがて輿入れに関する行事も終わり、王女の護衛隊が解体され、やっと体が空いたシェリルが、俺を食事に誘った。
いつものように楽しく食事をし、部屋まで送り届けたところで、引きずり込まれた。
驚きはしたが、俺としては願ってもなかった僥倖で……そして、想いを確かめあったと思っていたのに、だ。
シェリルは消えてしまったのだ。
何も言わず。
何も残さず。