―1―
それは、突然だった。
ついさっきまで、読真と朗の兄弟は雪の中を歩いていた。それが、今は、どういうわけなのだろう。
二人は、真っ白な世界を下っている。
とはいえ、坂道を歩いているわけではない。また、ロープを頼りに崖を下りているわけでもなかった。
二人は、今、落ちていた。
文字通り、真っ逆さまに落下していたのだ。
ぱっと視界が開けた。雲を抜けたらしい。
「……っ、朗……!」
雲に引っかかってしまった読真は、宙づり状態で、落ち続ける朗を見つめることしかできない。
途中、朗が何かにぶつかった。黒い何かは弾き飛ばされ、何かが持っていた物が砕け散るのが見える。
そして、それらは、太陽の光を受けて、妖しく、歪な輝きを放っていた。
「やいやいやい! いったい、どうしてくれるんだ!」
一度は弾き飛ばされた何かが、読真のもとへと戻ってきた。何かには、真っ黒なふたつの翼が生えている。尖った耳と、猫のように長い尻尾もあり、その尻尾の先もまた尖っていた。
「お前、さっきのガキの連れだろう? なんてことしてくれたんだ! せっかくの鏡が割れてしまったじゃないか!」
さっき砕け散ったのは鏡だったのかと、茫然としながら思っていると、
「なんとか言いやがれ!」
と、読真に詰め寄った。間近で見たそれは、まさに絵に描いたような小悪魔そのものの姿をしている。
「あれは……なんなの?」
言葉に詰まりながら、そう尋ねた。
「あれはな、俺の先生が作った、素晴らしい発明品さ」
小悪魔が得意げに鼻を鳴らす。
「美しいものは醜く、醜いものはさらに醜く映す鏡だ。なあ、面白いだろう? まさに最高傑作さ!」
「そんなもの、誰も欲しがらないよ」
「なぜ?」
「だって、鏡を見る時って、身だしなみを整える時じゃない? 少しでも綺麗にしようって思うから、鏡を見るんじゃないの?」
「わかってないなあ。どんなに綺麗に着飾っていたって、人の心は、みんな醜く歪んでいるんだよ。それに気づかせてあげようって言うんじゃないか」
「そんなの、いらないよ。それに、見かけだけじゃなくて、心の中も綺麗な人だっているよ」
「まさか! そんな奴、いるもんか」
「そう思うのは、あんたが悪魔だからだろ。あんたの心が醜いから、人の心も醜いようにしか見えないんだよ」
「なんだと! なんて生意気なガキなんだ」
小悪魔は、深い闇のように黒い羽を大きく広げて見せた。
「この鏡で天国の奴らをからかってやろうと思っていたのに!」
ばさばさと、大きく翼を鳴らす。突風が起こり、読真は目を開けていられなくなった。身動きのとれない読真に、羽音が徐々に近づいてくる。
――やられる……っ。
そう思った時、
「ほお。悪魔の弟子ごときが、わしらをからかうじゃと?」
どこからともなく厳かな声が上がった。風が弱まったのを感じて薄目を開けると、小悪魔がきょろきょろと辺りを見回している。読真も、視線を左右にさまよわせてみた。すると、引っかかっていた襟首を誰かが持ち上げたようだ。「ぐぇっ」という声が思わず漏れた。
「おお、すまんすまん」
押さえつけられていた喉が少し楽になる。姿は見えないが、声は頭上から聞こえてくるようだ。
「あ! お、お前は……っ」
小悪魔が、驚いた様子で読真の頭上を見ている。読真も首をひねって見ようとするが、ただ首を痛めただけに終わった。
「この小悪魔どもが。お前たちが地上にどれほどの混乱を招いたか……その罪の重さを、理解しておるのか」
「へん! 何が罪だ! 俺たちは、ありのままの姿を暴いてやっただけだよ。人間の方こそ罪深いものなのさ」
「人間は罪深いもの……そんなことは重々承知しておる。だからこそ、人間には反省する機会が与えられておるのだ。お前も少しは反省せよ。反省することができたなら、小悪魔から天使へと変わることもできるだろうに」
「けっ! 誰が天使になんかなりたいもんか!」
「まったく……。人の話に耳を傾けられないから、悪魔どもは反省ができんのだ」
ぴかっと、閃光が見えた。
頭上から放たれた白い閃光が、小悪魔の胸を直撃する。
「うぎゃあ!」
甲高い叫び声を上げたかと思うと、閃光に押された小悪魔は、真っ逆さまに地獄へと戻されてしまった。
くいっと、体が持ち上げられる。
雲の中まで持ち上げられると、読真はようやく襟首を開放された。
「俺……雲の上に、立っている……?」
しばらく足元を見て固まっていた読真が、ゆっくりと顔を上げる。
「……かみ、さま……?」
目の前には、白い光をまとった人影があった。逆光なのか、姿がよく見えない。目を凝らしていると、光に慣れてきたのか、なんとなく見えるようになった。
ふさふさとした白い髭を湛え、手には背丈ほどもある長い杖を携えている。背中には、神か、あるいは天使の象徴でもある、大きな白い翼を生やしていた。
雲の中にありながら、どうして逆光だと感じたのか……その理由がわかった。
頭の後ろから金色の光が射している。その光が大き過ぎて、姿形がはっきりとしないのだ。
「ほっほっほ」
楽しげな声が上がった。
「いかにも。わしは、数多おる神の一人じゃよ」
「数多いる……? アンナの言っていた神様じゃない、のですか?」
「さて。神と一口に言っても、大勢おるからのう。格というものもあるし。わしの上にも下にも、それはもう大勢おる」
「……そうなんですか」
「それにしても、驚いたぞ。空が割れたかと思いきや、子供が二人も降ってくるのだからな。急いで杖を振るったが、釣れたのはおぬしだけじゃ」
雲に引っかかったと思っていたが、実は神様が杖で引き上げてくれていたらしい。
「神様でも驚くことがあるんですね」
そう尋ねると、
「ほっほっほ」
と、またも神様は軽快に笑った。
「神とてすべてを把握しているわけではない。ある物事に対して予測をつけることはできるが、たまに外れることもある。この予測を極めて正確につけられることが格の違いとも言えるのじゃ。おぬしたちが降ってきたというのは、わしにはまったく予想外のことじゃった」
こつこつと、神様が杖で足元の雲を数回突く。
「どれ、送ってやろうかのう」
その言葉を合図とするかのように、足元の雲がぱっと消えた。その後、まるでエレベーターにでも乗っているかのように、風の抵抗も受けることなく、一直線に地上へと降り立ったのだった。
「着いたぞ」
そう言われて、読真は途端に急激な寒さに見舞われた。雲の上の方が、ここよりはずっと暖かかったと思う。
「ここって、北極? それとも、南極ですか?」
両手で体を抱きしめた。がくがくと震えながら尋ねると、またも神様は、
「ほっほっほ」
と笑う。
「ここは赤道付近の国じゃよ。かつて、広大な砂漠が広がっておったが、今では見ての通りじゃ。今や、地上の三分のニがこのような世界になってしまった」
そう言われて、読真は改めて周りを見る。吹雪のせいで先がよく見えないが、ここには雪と氷以外はないらしい。誰の声も聞こえないし、人が住んでいそうな建物も見当たらない。
「雪の女王のせいじゃ」
「雪の女王? もしかして、ここもアンデルセンの世界なのか……」
「雪の女王は温もりを嫌う。彼女は、この世界すべてを凍りつかせようとしておるのじゃ」
「どうして?」
「昔、酷い男がおってな。その男のせいで、彼女は心を凍らせてしまったのじゃよ。……ちと長くなるが、雪の女王の話を聞いていくかね?」
寒さに震えながら無言でうなずくと、神様は吹雪の先を見つめる。そして、一呼吸置いて重い口を開くと、雪の女王の昔話をはじめたのだった。