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「……死んだ、の?」
「……たぶん」
朗の問いかけにうなずきながら、
「『アリとキリギリス』って知っているか?」
と、読真が尋ねた。こくりと、朗がうなずく。
「イソップ物語だよね?」
「そう。この話も寓話だよ」
「冬になって、食べ物がなくて、働き者のアリから食べ物を分けてもらおうとするんだよね? それで、えっと……アリが、キリギリスを家に入れてくれて、ご馳走してくれるんじゃなかったっけ?」
「それは、たぶん、日本独自の解釈なんじゃないかな」
「え、そうなの?」
「この話にはいろんなラストがあるんだよ。もともとの話では、キリギリスはアリから門前払いされるんだ。だって、夏にアリが一生懸命に働いているのを見ていたのにさ、キリギリスは歌ってばかりいて食料を備蓄していなかったんだから。むしろ、頑張っているアリを馬鹿にしていたしね」
「……それで、死んじゃったの?」
「そこまでは描かれてないんだ。でも、食べ物や家がない状況で、厳しい冬を乗り切るなんてできるはずないよな。この話は、今だけ楽しければいいと怠けている人への戒めとして書かれた物語なんだよ」
「でもさ、なんか……かっこいいよね。キリギリスって、歌が好きだったんでしょ? 最期の最期まで、好きなことをやり続けて死んでいくなんて、なんかさ、かっこよくない?」
「……それは、どうかな」
「え?」
「だって、キリギリスは、やっぱり自分勝手だよ。一人で人生を完結させるならそれでいいかもしれないけどさ、実際はそうじゃないだろ。好き勝手やって生きてさ、困ったらアリのところに行ってなんとかしてもらおうなんて、都合よすぎると思う」
「でも、アリは結局助けてくれなかったんでしょ?」
「アリがどう思ってキリギリスを受け入れなかったのかははっきりとしないけど……。キリギリスが訪ねてきたことで、アリの心は乱されたんじゃないかな。アリが何も思わなかったわけはないと思うんだ」
「……うん」
「それに、人生ってさ、神様から与えられたチャンスだと思うんだよ」
「チャンス?」
「生きているって、普通のことじゃないんだ。世の中にはさ、俺やお前の年まで生きられない人がたくさんいるんだよ」
「貧しい国ではってこと?」
「それもだけど、そうじゃなくてもさ……たとえば、戦争とか。それに、日本でだって」
「日本で? なんで?」
「生まれるって当たり前じゃないんだよ。難産の末に亡くなったりする場合もあるし、無事に生まれても重い病気を持って生まれる場合もあるし。それに、今の時代は……虐待や自殺が原因で亡くなる場合もある」
「虐待は殺人事件でしょ? それは、どうしたって防ぎようがないよ。自殺は、自業自得じゃない」
「そう言えなくもないけど、それだけでもないんじゃないかな。どうして虐待が起きるのか、どうして自殺が起きるのか……」
「どうして?」
「不安なのかなって思うんだ。社会に対する、漠然とした不安を抱えているんじゃないかな。あとは、なんか、こう……心の拠り所というか、指針が見えなくなっているのかも」
「心の、指針?」
「だから、つまり、それって……神様が見えなくなっているからなんじゃないかなって思うんだよ」
「……神様……」
「昔の人は、お天道様が見ているとか言ってさ、日常的に神様に祈りを捧げていたりしていたみたいだし、学校でも神様に触れて教育することはごく自然なことだったらしいんだ。神様っていうのが、正しい道を示す指針になっていたんだと思う。何か悪いことをしそうになっても、きっと神様が見ているからやめよう、とか。何か選択を迫られた時に、神様ならどう考えるかな、とか。そうやって、できる限り正しくあろうとしてきたのかなって思うんだ。神様の目から見て恥ずかしくないように」
「それが、今はなくなってきているの?」
「神様を信じる人が減っているからな」
「……」
「神様の目から見てどうかって考えは、大事なことなんだよ。神様が、ひとつの正義の象徴だから。神様のいない社会は、正義のない社会と同じだと思う」
「そっか。神様を信じない人が増えたってことは、みんな、何が正義かわからなくなっているってことなんだね。何を信じて、どこに向かったらいいかわからないから、不安なんだ」
「うん。だから、今、生きているってことは当たり前じゃないんだよ」
「神様が生かして下さっているんだ、でしょ? お父さんとお母さんがよく言ってるいよね」
「そう。だから、この人生があるのは、神様が与えて下さったチャンスなんだ」
「うん」
「だからこそ、一生懸命に生きないといけないんだよ。チャンスは活かさないと」
読真と朗は、動かなくなったキリギリスに手を合わせると、それを背に歩き出した。
と、ほどなく……。
足音を聞いた気がして振り返る。すると、横たわるキリギリスのそばに黒い影を見た。
「……アリだ」
アリが、項垂れた様子でキリギリスを見つめている。そして、その後、そっとキリギリスの亡骸の前に、少しばかりの食料を置いたのだった。
突き刺さるような風の冷たさに、読真はワイシャツの、朗はブレザーの襟首を立てた。それでも防げずに、二人は自分の体を抱きしめるようにして両腕をさする。
また、一段と寒さを増したようだ。
「……さむっ」
「にしても、突然過ぎるよ……」
空を見上げた時、ひんやりとしたものが鼻頭に触れた。
「あ……雪だ」
どんよりと垂れ込んだ雲からは、はらりと雪が舞い降りてくる。
「……アンナ……」
空に気を取られていた読真は、朗のつぶやきに視線を落とした。駆け出す朗の背と、その先で座り込んでいる少女の姿が見える。
少女には見覚えがあった。最初の「物語」で出会った、『マッチ売りの少女』のアンナだ。彼女は、読真と朗に木靴をくれて、「物語」を旅する力をくれたのだ。
「アンナ」
朗が呼びかけると、アンナは閉じていた瞼を半分ぐらい起こした。
「……ロー?」
「うん」
「……おばあさんかと思ったわ」
「おばあさん?」
「もうすぐ、迎えにきてくれるはずだから」
「……」
「ねえ、ロー」
「なに?」
「神様は、見つかった?」
その瞬間、虚ろだったアンナの瞳に力が宿った気がした。それを見た朗は、はっきりと答える。
「……うん。見つかったよ」
その言葉を聞くと、アンナはにこりと微笑み、
「お迎えがきたわ」
と言った。アンナの頭上に白い光が射しているのを見て、朗は空を見上げた。しかし、重い雲は一向に晴れる気配がなく、一筋の太陽の光も届かない。アンナに目を戻すと、白い光が、まるでアンナを包み込むように降り注いでいた。
「トーマ、ロー。あなたたちは、あなたたちの人生を、ちゃんと生きてね。そして、あなたたちの『物語』を完成させて」
その言葉を最後に、アンナは再び瞼を閉じた。口元には微かに笑みを浮かべている。
ぼろぼろの姿の彼女は……その一瞬、とても穏やかな表情を読真と朗に向けていた。




