―3―
どこをどう走ったかは覚えていない。もともと、まったく見慣れない景色ばかりだ。体感的には、二十分ぐらいは走り続けていたと思う。気がつけば、追ってくる足音も聞こえなくなっていた。
朗はようやく足を止めた。思い切り息を吸い込むと、空気の冷たさに喉の奥が痛んだ。肺と心臓が痛み、胸を押さえながらぜいぜいと浅い呼吸を繰り返す。そのうちに、なんとか落ち着きを取り戻すことができた。
胸を撫で下ろしながら顔を上げると、道の端の壁に寄りかかるようにして座っている女の子が視界に入った。
女の子の着ている洋服は汚れていて、あちこち擦り切れている。女の子自身も煤けたように汚れていて、その顔には生気が感じられなかった。
――まさか、死んでる……?
ごくりと、喉が鳴る。緊張しながら見つめていると、女の子の手がゆっくりと持ち上がるのが見えた。
「……なんだ」
朗は、ほっと息を吐くと、女の子へと歩み寄って話しかける。
「死んでるかと思ったよ」
女の子は、ただ、虚ろな目を朗に向けていた。
「……なに、これ?」
女の子の周りには、何本もの小枝のようなものが散らばっている。
「え、なに?」
女の子の視線が、朗の足元に向けられていた。
「……それ」
女の子の口が微かに開く。
「お母さんの」
朗は、さっきの男の子の言葉を思い出した。
「そっか、君のお母さんのだったんだね。君のお母さんが落としたこの靴を拾ったっていう子に会ったんだ。僕、裸足だったから、その子からとってきちゃった」
そして朗は、あることに気がついた。
「って、君も裸足じゃないか!」
思わず大声を上げる。女の子が投げ出したままの両足は、元の肌色がわからないぐらい、紫色にすっかり変色してしまっていた。
「……もしかして、お母さんじゃなくて、君がこの靴を落としたの?」
「……」
「……返すよ」
朗が靴を脱ぎかけるのを、女の子が止めて言う。
「ううん。もういいの」
そして、力なく微笑んだ。
「私は、もう履けないから」
朗は、女の子の隣に立って尋ねる。
「ねえ、座っていい?」
女の子は、こくりとうなずいた。
「僕は朗」
「……私は、アンナ」
女の子は、ゆっくりと自分の名前を口にした。
「アンナは、ここで何をしていたの?」
「マッチを売っていたの」
「マッチ?」
アンナの周りに散らばっている小枝を見た。どれも、先端が黒く煤けている。太さも長さもまちまちで気づかなかったが、これらはすべてマッチの燃えカスなのだろう。
「マッチ、売れた?」
ふるふると、アンナが首を振る。
「もう、今日は帰ったら? お母さんが待っているんじゃない?」
また、ふるふると首を振った。
「お母さんは、もう死んでしまったわ。今は、お父さんと二人で暮らしているの。お父さんは、マッチをすべて売ってくるまでは家に入れてくれないわ」
「そんな! こんな状態で、マッチを売り続けるなんてムチャだよ」
「でも、もう……私は帰れないわ。もう、歩けないもの」
「そんなの問題ない。僕が、おぶって行ってあげるよ」
くすっと、アンナが微笑んだように見えた。
「ありがとう、ロー。最期に、優しい人に会えてよかったわ」
「……」
「でも、もういいの。だって、私は、これから神様のもとへ行くんだから」
「神様……?」
「もうすぐね、おばあさんが迎えにきてくれるのよ」
辺りを見回してもそれらしい人はどこにも見えない。
「神様なんかいないよ」
「……どうして?」
「もしもいたら、君がこんな目にあっているはずないもの」
「……」
「神様ってなんでもできるんだろ? なら、本当にいるならさ、君のことを助けてくれているはずだよ」
「私、救われているわ」
「どこが? こんな状況で、何言ってるのさ。君は、もうすぐ……」
言いかけた言葉を、朗はぐっと喉の奥へと追いやった。そして、
「アンナ、病院に行こう」
と言う。
「行けないわ」
しかし、アンナはそう答えた。
「大丈夫だよ。僕が連れて行くから」
「でも……」
「君は、怪我だけじゃなくて、きっと病気なんだよ」
「え?」
「だって、そうじゃなかったら、僕のことを『優しい』なんて言うわけないもの。僕、優しくなんかないんだ」
「……」
「アニキにも、みんなにも、空気が読めないって、人の心がわからない奴だって思われている」
「ロー、あなたは優しいわ」
朗は、うつむいていた顔を上げた。
「さっきから、数えきれない人が私の前を通り過ぎて行った。でも、私に声をかけてくれたのはあなただけ。私の隣に座って、話しかけてくれて……嬉しかった。心配してくれて、ありがとう、ロー」
「朗!」
アンナの言葉に被さるように、聞き慣れた声が上がった。振り向くと、がくがくと大げさなまでに震えている読真の姿がある。
「げっ、アニキ」
「……何してるんだ、こんなところで。早く、帰るぞ」
「帰るって、どこに? どうやって?」
「……」
「なんだよ、アニキだって帰り道わからないんじゃん」
「……アニキって呼ぶな」
「じゃあ、なんて呼べばいいだよ? トーマ?」
「この、ガキが……」
途端に、読真は膝から折れるように雪道に倒れ込んだ。さすがに驚いた朗が駆け寄る。
「おい、アニキ」
「……だめだ、もう、感覚が……」
「感覚……? あ、靴がない」
読真は、びしょびしょに濡れて肌に張り付いた靴下しか履いていなかった。朗は、自分が履いているぶかぶかの木靴と、読真の足元とを交互に見つめる。
「……だめだよ! だって、靴はひとつじゃ意味ないもの」
考えた挙句にそう叫ぶと、
「ロー」
アンナの呼ぶ声が聞こえた。
「こっちにきて」
読真のことは気がかりだったが、朗はアンナのもとへ向かう。すると、アンナは一本のマッチをしゅっと擦った。
「ひとつがふたつ。ふたつがひとつ」
アンナが唱える。
「あなたたちは、二人で一人よ」
そう言うと、朗の足元が淡く光った。そして、あれほど大きかった木靴が、朗の足にぴったりと合ったものへと変わっていたのだ。驚きながらアンナを見ると、アンナが目配せをする。その視線を追って見れば、読真に行き着いた。読真もまた、足にぴったりと合った木靴を履いている。
「神様をさがして」
アンナが言った。
「神様なら、きっと、あなたたちが帰る道を知っているわ」
「だから、神様なんかいないって……」
「ロー」
さっきまで虚ろに開かれていたアンナの目に力が宿る。金色の大きな瞳がまっすぐに朗を見つめていた。
「あなたは、お兄さんと二人でなら……どこへでも行けるわ」
木靴をもらって、なんとか立てるようになった読真が、いつの間にか朗のすぐそばまできている。
「もしかして……『マッチ売りの少女』なのか?」
読真の問いかけに、アンナは小首を傾げて見せた。
「この道をまっすぐに進んで」
アンナが、どこまでも続く雪道を指差す。
「どうして?」
「あなたたちが、次の『物語』に進むための道よ」
読真の問いに、アンナはそう答えた。
「次の、『物語』……?」
「そんなことより、アンナを病院に連れて行かないと……」
アンナは静かに首を振った。
「私のことはいいの。あなたたちがここにきた。そして、私はここにいる。これが、私の役割だったのね」
「なんのこと?」
朗の問いかけには答えず、アンナは微笑みながら道を指し示し続けている。
「……行くぞ、朗」
「え……なんで?」
読真が歩き出す。その背を追いながらも、朗はふと振り返った。アンナは、変わらずに微笑みながら読真と朗を見つめている。
「アンナ」
声をかけると、
「行って」
とアンナが答えた。そして、
「ロー。トーマと離れてはだめよ」
と言う声が、迷っている朗の背中を押した。
どこまで続いているのかわからない、長い長い雪の道。
読真と朗は、アンナにもらった木靴で、一歩一歩を踏みしめるように真っ白な道を歩いて行ったのだった。