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「何も起きないじゃん」
「そんな……。でも、この話の最大の教訓は油断するなってことのはずなんだ。あ、そっか。幸福のキーワードを言えばいいんだ」
読真は考える。
「ウサギが幸福になるには……一休みなんてしなければよかったんだ。そうすれば、カメに負けることはなかったんだから。カメが幸福になるには……勝ったんだから、もう幸せかな。だから、つまり、一生懸命にやれば報われるってことじゃないかな」
ぶつぶつと読真が考えをまとめていると、その横で、
「ウサギがかわいそう」
と、朗がつぶやいた。その視線の先には、木の根元に座り込んで項垂れているウサギの姿がある。
「なんで、ウサギの周りには誰もいないのかな」
そう言われて、読真は改めてウサギを見た。
「勝っても負けても、誰かはそばにいてくれるものじゃない? ウサギは、そんなに嫌われていたのかな」
「たしかに、ウサギは嫌なヤツって描き方をされることが多いと思うけど……」
「なんで? カメをバカにしたから? でもさ、人よりもできることがあったら、誰だって自慢したくなるんじゃないの?」
「……」
「カメは駆けっこが苦手だから、みんなカメを応援している。それはわかるけど……」
――ウサギがかわいそう、か……。
その時、読真はあるクラスメイトのことを思い出した。
読真のクラスには、学年一勉強のよくできる男子生徒がいる。テストで常に首位を独占している彼は、クラスでは少し浮いた存在だった。
彼は口数が少なく、人を寄せつけない雰囲気があった。しかし、勉強ができるので、先生たちからはとても目をかけられていたと思う。
ある時、読真と彼がテストの総合点を競うことになった。読真は乗り気ではなかったのだが、読真の友人たちが勝手に決めてしまったのだ。なんでも、彼が、「一番でないなら零点と同じだ」という発言をしたことがきっかけらしい。それで、クラスで二番目の成績だった読真が、彼と勝負をすることになってしまったのだった。
――クラスで二番って言っても、平均点で三十点以上の差があるんだけど……。
そう思いながらも臨んだ勝負だったが……。
――でも、勝ったのは俺だった。
読真は、試験日までの間、いつも以上に勉強に励んだ。友人たちの代表という認識があったから、手を抜くことができなかった。
結果、読真は、自分の過去最高の点数を叩き出した。
しかし、それでも、学年トップの彼にはまだまだ及ばないだろうと思っていたのだ。
だが……。
読真は、学年上位十名の中に入った。
けれども、そこに……彼の名前はなかったのだった。
「ねえ」
朗の呼びかけに我に返る。
「もしかして、ウサギもみんなに声をかけて欲しかったんじゃないかな」
「みんなに……声を?」
「ウサギは、できちゃうんだよ。みんなよりもできちゃう。もう……それは、仕方ないよね。みんなからしたら羨ましいなって思うけどさ、でも、もしかしたら、ウサギは違うのかもしれないよ」
「……」
「なんて言うか……うまく言えないんだけど」
「もしかしたら、ウサギも、みんなに励ましてもらったり、応援されたり、慰めてもらいたかったのかもしれないよな」
「……うん、そう!」
「人はさ、頑張ってもうまくできない奴のことを応援したくなる。そして、そういう奴が勝てたら、やっぱり嬉しい。一緒に喜んでやりたくなる」
「できない自分を、その人に重ねているんじゃない?」
「そうかもな。でもさ、常に勝ち続けるって、もうそれだけで凄いことだよな。本当の天才っているかもしれないけど、大抵は人の何倍も努力しているんだと思う」
「そっか。それなのに、勝っても誰も喜んでくれないなんて……」
「勝つことが当たり前みたいに思われているんだ。本当は、全然当たり前なんかじゃなかったのに」
「……アニキ?」
朗が読真の顔をのぞき込む。読真は、唇をきゅっと噛み締めていた。
「立場が変われば、見方も変わる」
読真のつぶやきに、
「それが教訓?」
と朗が尋ねる。読真がうなずいて答えた。
「見方を変えて、ウサギの立場に立ってみなかったら、ウサギとカメが幸福になる方法なんてわからないだろ」
「カメは……もう幸せだよね」
「カメが本当に幸せかは、この先を見てみないとわからないのかも」
「この先?」
「今は幸せかもしれないけど、絶対に勝てないだろうと思っていたウサギに勝てたことで自惚れたりするかもしれない。ウサギに勝てたことを自慢して歩くかも。そしたら、今は仲間たちに囲まれているけどさ……」
「みんな、カメから離れて行くよね。だって、自慢ばかりしている人のそばになんかいたくないもん」
「うん」
「なら、ウサギだって、今は不幸に見えてもこの先は幸せになれるかもしれないってことだよね」
「何かの本で読んだんだけどさ。若くして成功して、すべて順調に進んできた人に、その人の先輩が言ったんだ。君に必要なのは挫折だって」
「挫折? 失敗しろってこと? どうして? 順調ならいいじゃん」
「たぶん、挫折しないと学べないことがあるんだと思う」
「でも、失敗しろなんて……ひどくない?」
「鉄は打たれて強くなるって言うだろ?」
「知らない」
「言うんだよ。早めに挫折を経験した人は、その先に何があっても、ちょっとやそっとじゃ揺るがなくなる」
「心が鍛えられるってこと?」
「うん。だから、ウサギも、この挫折から学ぶものがあればさ、これからは今までよりも幸せになれるかもしれない。ここで負けなかったら、挫折を知らないままで、この先ではもっと大きな不幸に見舞われていたかもしれない」
「なら、ウサギにとっても、ここで負けたことはよかったってこと?」
「そういう見方もあるってことだよ。それと、もうひとつは、お前の言った通りなのかもしれない」
「え? 僕、何か言ったっけ?」
「ウサギがかわいそうって言っただろ」
「あ、うん」
「結果的に、未来ではウサギは幸せになるかもしれないけどさ、やっぱりここではウサギはまだ不幸だよ。ウサギは、ただ、みんなの中に入りたかっただけなのかもしれない。みんなが、ウサギの個性を認めて受け入れてくれたら、たぶん、ウサギもカメも、みんなが幸せになれるんだ」
そう話していると、木の幹に背を預けて座っていたウサギが立ち上がった。そして、とぼとぼと、一人で山を下って行く。
「あ、あれ……」
ウサギが寄りかかっていた場所には、人一人が入れるぐらいの窪みがあった。窪みからは金色の光が漏れ出ていて、そのまばゆさに思わず目を細める。
「ここを通れば、次に行けるのかな?」
「たぶん」
兄弟は、ウサギが去った方向を見た。ウサギの丸まった背中が遠くに見える。
「ウサギ君!」
朗が叫んだ。
「頑張ってね!」
大声でそう告げると、ウサギがくるりとこちらを向いた。
「君たちもね」
そう言って、ウサギが手を振る。読真と朗は、ウサギに見えるぐらい大きくうなずくと、両手を上げて手を振り返した。
「よし、行くか」
去って行くウサギの背中が見えなくなるまで見送ってから、兄弟は、読真と朗の順に、光る木の窪みの中へと足を踏み入れたのだった。




