―4―
「鏡よ鏡。世界で一番美しいのは誰かしら?」
王妃の間には大きな姿見がある。毎日、王妃はその姿見にそう問いかけるのだ。すると、その姿見はこう答える。
「お后様、世界で一番美しいのはあなたです」
と。
……そのはずだった。
しかし、もう七年前から、姿見はあってはならない言葉を毎日口にするようになった。
「お后様。お答えします。今、世界で一番美しいのは、あなたの娘である白雪姫です」
王妃の間に絶叫が轟く。
その時、扉を叩く者があった。
「お后様、王様がお呼びです」
家臣の言葉を受けて国王の間へと向かうと、国王は、今まさに喜びに打ち震えているところだった。
「后よ、聞いてくれ。なんと、死んだと思われていた白雪姫が生きていたのだ」
そう言いながら、国王は一通の手紙を差し出す。
「……これは?」
「隣国の王室からの手紙じゃ。なんでも、隣国の王子が我が国にきた折りに、山の中で白雪姫を見つけたらしいのだ。しかも、二人は会った瞬間から恋に落ちた、とここに記されておる。隣国は豊かな国だと聞くし、この結婚は決して悪い話ではないと私は思う」
「それは……その娘が、本当に白雪姫であったらの話です」
「……隣国の王子が連れて行った娘は、白雪姫とは別人であると?」
「充分に考えられることです。あの子が消えてから七年経ちます。当時七つだったあの子が、どうしてこれまで生きていられましょうか。しかも、山の中ですって? 隣国とを繋ぐ山には、恐ろしいホビット族が今も住んでいるという伝説があります。そんな中にあって生きていられただなんて、とても信じられませんわ」
「……うむ。しかし、それなら、なぜ隣国の王子が白雪姫の名を知っておるのだ?」
「七年前に消えた王女の噂は国中の者が知るところです。もしや、その娘、白雪姫の名を騙って王子に近づいたのではありませんか?」
「滅多なことを言うものではない。……まあ、なんにせよ、会えばわかることだ」
「……会う?」
「結婚式の招待状が届いたのだよ。隣国で盛大に行われるそうだ」
国王は結婚式をたいそう喜び、それとは逆に、お后は国王に気づかれないよう、そっとうつむいて唇を噛みしめていた。
結婚式の日。
澄み渡る青空の下、隣国では盛大な披露宴が催された。
国王は、王子の隣にいる美しい娘を見た瞬間、紛れもなく自分の娘である白雪姫だと確信した。
国王は涙ながらに白雪姫の手を取り、白雪姫も同様に父の手を取って抱き合う。そんな中、お后は、
「白雪姫。よく生きていましたね。嬉しいわ」
と、形ばかりの挨拶をかわした。そして、白雪姫は、
「はい。お義母様もお元気そうで何よりです。ますますお美しくなられましたね」
と返した。その何気ない白雪姫の言葉に、さっきの鏡のことを思い出したお后はわなわなと肩を震わせる。
「あなた……どういうつもりなの?」
お后の問いかけに、白雪姫は首を傾げた。
「私が何をしたか、もうとっくに知っているのでしょう?」
「何を、とは?」
「そう……私の口から言わせたいのね」
「お義母様」
「やめて! あなたにそう呼ばれると、一気に老けてしまうように感じるわ」
「后に白雪姫よ。いったい何の話をしているのだ?」
二人の異様な雰囲気に、まったく事情の知らない国王が口を挟んだ。
「白雪姫の婚姻となったら、義母である私が出てこないわけにはいかないものね。考えたわね。そう……もういいわ。私の負けよ。処刑でもなんでも好きにしたらいいわ」
「処刑? 后よ、めでたい席で何を言っているのだ?」
「処刑などしません!」
白雪姫は、国王の声を遮るほどの大声を発した。
「お義母様。私は、お義母様に言いたいことがあります。聞いて下さいますか?」
「……何かしら」
「私は、お義母様を愛しています。私が、お父様を愛するのと同じように」
「……」
「それはなぜか、わかりますか?」
「いいえ、わからないわね」
「あなたが、私を愛して下さったからです。心から」
「……」
「お義母様が、私に愛することを教えて下さったのよ」
「おめでたい娘ね」
ふっと、お后は笑った。
「私があなたを愛していた? そんなわけがないでしょう。私、ずっとあなたが邪魔だったのよ。子供とは思えない、その美しさ……。いつ追い抜かれるのかと、いつも気が気でなかったわ。私は、美しくなければならないのに。国王の后として、国民の母として、世界中の誰よりも」
「そう。あなたが美しくなろうとしたのは、誰かのためだった」
お后は、はっとして、目の前の白雪姫を見つめた。
「私は、今も憶えているわ。あなたがお后として王室にきた時のことを。あなたは、まだまだ幼かった私の目をまっすぐに見て、こう言ったの。『私は、これから、よき妻となり、よき国母となりたい。そして、あなたのよき母となりたい。そのための努力を惜しまないことを誓う』ってね」
「……」
「お義母様は、本当に努力をなさったと思うわ。政治も語学も勤勉に学んでいたし、疲れているはずなのに私の遊び相手にもなってくれた。一日のうちに一度は私のことを構ってくれたから、私は全然寂しくなかったのよ」
「……」
「そしてお義母様は、よき妻、よき后、よき母となるために、美しさを追求していくようになった。お義母様が王室に嫁ぐ時に持ってきたという鏡。あれは、魔法の鏡ですね? お義母様が、鏡に向かってたびたび問いかけていたのは知っています。『世界で一番美しいのは誰?』と。鏡はいつだって、『世界で一番美しいのはお后様、あなたです』と答えていたわ」
「……そうよ。あなたが、七歳になる時まではね」
隣で聞いていた国王の顔色がさっと変わる。それを感じ取った白雪姫は、まるでなんにもないことのように、にこりと笑って言った。
「その時点で、何かがおかしいって気づくべきだったのよ」
お后が、眉をしかめて首を傾げる。
「だって、あなたは美しかった。王室にきたばかりの頃、鏡が、『世界で一番美しいのはお后様です』と言っていた頃よりも、ずっと美しくなっていたわ。少なくとも外見はね。それなのに、鏡は私を選んだのでしょう? 年端もいかなかった幼子の私を」
「……それだけ、あなたが大人顔負けの美貌を持っていたからでしょう」
「そんなわけがないわ。美しいと言ったって、所詮は子供よ」
「それでも! 鏡は、私ではなくあなたを選んだのよ!」
「だから、その時に気づくべきだったのよ」
またも首を傾げるお后を見て、
「どういうこと?」
白雪姫とお后の会話をずっと聞いていた朗が、お后の代わりに尋ねた。
「鏡が伝えていた、『美しい』ということの本当の意味よ」
白雪姫が答える。
「鏡は、きっと外見だけではない美しさを伝えていたのだと思うわ」
「外見だけでない……?」
「ええ」
「それは……」
「心よ」
「……心?」
「そう。あなたは、美を追い求めるあまり、本当の美しさをどんどん曇らせてしまっていたのよ」
「……」
見開いたお后の目からは、一筋の涙が頬を伝った。
「だから、鏡が私のことを『世界一美しい』と言うなら、それは、世界一美しい心を持っていたあなたからたくさんの愛情を注いでもらったからなのよ。お義母様からもらった愛が、私の中で今も生きているからなの。……私は、そう思っているわ」
「……私を……許すと言うの?」
「ええ、もちろん!」
白雪姫は大きくうなずいた。その瞬間、そばでやり取りを見ていた朗のおでこに水滴が飛ぶ。雨かと思って見上げてみるが、そこには雲ひとつない青空が広がっていた。
「私は、あなたを許します」
そう言った白雪姫の言葉は、いつもの澄んだものではなく、濁音の混じった鼻にかかるような声だった。
「だから、お義母様も、私のことを許して下さいますか?」
お后は首を傾げる。
「……何を?」
「お義母様の気持ちに気づいて、寄り添ってあげられなかったあの頃の私を」
そう言うと、白雪姫は、項垂れるお后の手を取った。お后の手の甲に雫が落ちる。白雪姫は、真っ赤に染まった目をそっと伏せた。
お后の目からもとめどなく涙が溢れ出て、美しい化粧を台無しにした。どうやって隠していたのか、厚い化粧の下には深い皺が刻まれている。目尻が垂れ下がり、目からはさっきまでの鋭い光は消えていた。また、気がつかなかったが、美しく整えられた亜麻色の髪には艶がなく、白いものがちらほらと混ざっている。
それなのに、天空から突然現れた魔法の鏡は、白雪姫とお后の前まで下りてきて二人をその中に映すなり、こう告げたのだ。
「世界で一番美しいのは、白雪姫と、そのお義母様であるお后様です」
すると、まるでその時を待っていたかのように、王宮の周りをたくさんの真っ白な鳩が飛び交う。その中心で、国王は、白雪姫とお后の肩をそっと抱き寄せていた。




