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「出る? 何それ。何が出るの?」
最早、隠れるつもりなんかない朗に、扉の向こうから笑い混じりに続けた。
「出るって言ったらひとつしかないだろ」
「なんだよ、それ。……わかんないよ。何が出るの? ……もしかして、お、お、ばけ……?」
「ああ、そうだよ」
「う、うそだ! そんな話、聞いたことないもん」
「言う必要がなかったんだよ。うちでお化けを怖がるのなんてお前ぐらいなものだし、お前は普段ここにこないからさ」
「それって、どんなお化けなの? あ、やっぱりいい。やっぱり聞かない」
「図書室に出るぐらいだからな。本のお化けだよ。お前みたいな本嫌いの子供を食べるんだ」
「やだ! 聞かないって言ってるだろ!」
「食べられたくなかったら、少しは本と仲良くしてみろよ」
「開けてよ!」
「だめだ。カーテンや窓を開けっ放しにした罰だ」
「なんだよ、クソアニキ! アニキだって、本を出しっ放しだったじゃないか! 本は棚に戻すのがルールだろ! アニキも罰を受けるべきだ!」
「うるさい! 弟のくせに生意気なんだよ、お前は」
「アニキだって! たった二歳しか違わないくせに!」
「二歳も違うんだ! 俺は中学生で、お前はまだ小学生じゃないか。それに、アニキって呼ぶな! そういう汚い言葉を使うなって、いつも言っているだろ!」
「いいから、ここから出せよ! クソアニキ!」
「絶対に出すもんか! そこで少し反省しろ!」
読真がひと際大きな声で怒鳴りつけたのを最後に、しばらくの間沈黙が流れた。
読真が、そっと扉に耳を押し当ててみる。しかし、何の音もしなかった。
こういう時の朗は怖い。
学校の成績は良くないどころか、はっきり言って悪い。しかし、悪知恵が働くのだ。誰も思いつかないようなことを、また、思いついてもやらないようなことを、朗は平気でやってのける。
子供らしいと言えば子供らしいのだが、朗のやることは「腕白ね」と笑って見過ごせるようなものではない。
ある時は、学校を休みたいがために、わざと屋根から落ちて腕の骨を折った。
またある時は、駆けっこで勝つために、他の子の運動靴の靴紐を切ったこともある。
目的のためなら手段を選ばないような強かさが朗にはあった。
朗の声が聞こえなくなって十分ほど経った。
「……朗?」
おそるおそる読真が声をかける。
その時だ。
「……いや! いやだ!」
けたたましい声が図書室から聞こえたのだ。
「……っ、あ……うわあ!」
その声を最後に、ぴたりと、再び静けさが戻った。
「……朗?」
扉に耳を当てて様子をうかがっていた読真が、中に向かって呼びかけた。しかし、何の反応もない。そうして、さらに十分が経った。
「おい、朗」
痺れを切らした読真が再び呼びかける。だが、やはり、中からは何の反応もなかった。
「もう、いい加減にしろよ。どうせ、また何か企んでいるんだろ?」
返答はない。
「……このっ、おい、朗!」
業を煮やした読真は、手にした鍵を鍵穴へと突っ込む。図書室の扉が、再び重々しい音とともに開かれた。
「朗、どこだ?」
つい数十分前まで騒がしかった図書室には、静寂が戻っていた。日がさらに西へと傾いたようだ。
「朗」
呼びながら、図書室内を歩き回る。本棚の陰まで見て回ったが、どこにも朗の姿はなかった。
「三階に行ったか?」
つぶやきながら三階への階段に向かおうとした時、ふと冷たい風を肌に感じた。見れば、机に置かれたままの本のページを、風がぱらぱらとめくり続けている。
読真は窓辺へと向かった。
本当は朗の手で閉めさせるつもりだったが、本のことを思えばこれ以上湿った風にさらしておくわけにはいかない。
窓を閉める前に、下をのぞき込んだ。
「……落ちてはないよな?」
誰にともなくつぶやく。二階とはいえ、この塔の階段は長い。普通のビルの三階ぐらいの高さがあった。いくら破天荒な朗といえども、この高さから飛び降りることは、まず考えられない。
顔を引っ込め、窓を閉めようとしたその時、わずかに音がした。
かた……という音を聞いた読真は、窓から手を離し、本棚の方へと向かう。
「朗、もう出てこいよ」
呼びかけてみるが返答はなかった。
「いい加減にしろよ。ここにいるのは、もうわかっているんだぞ」
少しばかり苛立っていたこともあり、読真は大股で音のした方へと向かう。その途中で、こつんと何かが爪先に当たった。
それは、本だ。
棚から落ちたのだろうか。読真はそれを拾い上げた。
『世界の童話と寓話』――。
本の表紙には、そう書かれている。
ぱらりと、何気なくめくってみた。
「……アンデルセンか」
数行読めば、この話が『マッチ売りの少女』であることがわかる。
しばらくぱらぱらとめくっていたが、ふと手を止めた。そして、首を傾げる。
「……こんなシーン、あったかな」
一枚の挿絵に目が向いた。それは、男の子が、ぼろぼろの大きな靴を履いて走っているところだった。
――朗に似ているな……。
ふわふわのやわらかそうな短髪が、どことなく朗と重なる。
その時だった。塔全体が大きく揺れるのを感じた。
「え……っ、地震っ?」
もこもこと、足元から持ち上げられる感覚。踏んばっていられずに尻もちをついてしまった。
揺れは、まだおさまらない。
右往左往する体と景色。
そのうち、座ってさえいられなくなり、後ろに倒れてしまった。本棚に後頭部を強かに打ち付ける。痛みに顔を歪めながら目を開いた。
……声が出なかった。
あっと発する間もなく、ただ、手元にあった『世界の童話と寓話』を抱きしめる。そして、降り注ぐ、大量の本からの衝撃に備えた。
どれぐらい経ったろうか。
いつの間にか、地震はおさまっていた。
本棚の下には、たくさんの本が山のように築かれている。だが、そこに読真の姿はなかった。
窓から入り込んだ風が、優しい手でぱらりとページをめくる。
『マッチ売りの少女』……。
マッチを擦る女の子の挿絵とともに、その表題がそこに残されていた。