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「ねえ、魔法使いのおばあさんはいつ出てくるの?」
リビングの棚を拭きながら朗がぼやく。
「掃除も洗濯も、魔法でぱぱっとやってくれたらいいのに。ていうか、広過ぎだよね、この家」
「文句言うなよ。お前がエラを手伝うって言い出したんだろ?」
「そうだけどさ。でも、きりがないよ、こんなの」
「まだ一時間ぐらいしか経ってないぞ」
「もう一時間だよ!」
「だから、文句言うなって。あと、窓拭きと床磨きが残っている。俺が洗濯物を干し終えたら窓拭きするから、朗は床を磨けよ」
「ええ? 床磨き、たいへんそうだなあ」
「窓拭きだってたいへんだよ。曇りを残さないように家中の窓を拭くんだぞ。……気が滅入りそうだよ」
「……ねえ。魔法使いはいつ出てきてくれるの?」
「知らないよ!」
そんな会話を続けながらも、読真と朗は家中を隅々掃除していった。
「トーマ! ロー!」
どたどたと階段を下りる足音が聞こえる。
「見て! できたわ! 破かれたあとなんてわからないでしょ? これで舞踏会に行けるわ!」
「うわあ! やったね、エラ!」
真っ先に駆け寄った朗は、手を叩きながら踊り、エラと一緒にドレスの完成を喜んだ。そこに、その場に似つかわしくない、怒声にも近い声が響く。
「朗! 喜んでいる場合か! これ、どうするんだよ!」
その声に、朗は首をすくめ、エラは目を丸くしてリビングをのぞき込んだ。
「……いったい、何があったの?」
エラはドレスを置くと、リビングの床を拭いている読真と、倒れた花瓶とを交互に見つめている。
「もしかして、花瓶を割ってしまったの?」
足元の破片を拾いながら、エラが尋ねた。
「朗が……」
読真が睨むと、朗はびくっとして一歩後ずさる。ふと、エラを見る。その表情は明らかに固かった。
「エラ……もしかして、この花瓶って大事なものだったの?」
「……お義母様が大切にしていたものなの」
朗の問いかけに答えるエラの顔は青ざめて見える。
「花瓶自体は、街に行けば売っていると思うけど」
「じゃあ、新しいのを買いに行こう!」
「無理よ。とても高価なものなの。家のお金は全部お義母様が握っているから……」
「そんな……」
「……もういいわ」
エラは、階段の手すりにかけていたドレスを取ると、勝手口の扉に手をかける。
「エラ、どこに行くんだ?」
読真が尋ねると、
「お母様のお墓よ」
とだけ答え、振り向くこともなく出て行ってしまった。
「エラ、舞踏会に行けないのかな?」
勝手口の扉を見つめながらつぶやく朗に、
「行けると思うか?」
怒りと呆れが入り混じった口調で、読真は逆に尋ねた。
「……僕の、せい?」
「そうじゃなかったらなんなんだよ」
「僕のせいで、エラは舞踏会に行けないの?」
「……朗?」
「……僕、そんなの嫌だよ」
「嫌だって言ったって……」
「ねえ、アニキ。どうしたらいいの? どうにかできない?」
「どうにかって……」
「だって、エラ、一生に一度でいいからお城に行きたいって言ってた。それって、舞踏会に行くのが夢だってことだよね」
「……うん」
「エラ、あんなに頑張っているのに。頑張っている人の夢が叶わないなんて、おかしいよ!」
「……」
「ねえ、アニキ……」
「俺にどうしろって言うんだよ! だから、こうなったのはそもそもお前のせいだろ! 俺だって、できるならエラに舞踏会に行ってもらいたいよ! エラの夢を叶えてやりたい!」
朗はうつむき、黙ってしまった。時々、うっと、詰まったような声が聞こえる。唇を噛みしめ、泣くのを堪えているようだ。読真は、そんな朗から目をそらし、黙々と花瓶の残骸を片づける。
割れた花瓶を片づけ終えたところに、勝手口の扉が再び開かれた。エラが戻ってきたのだろう。そちらを見ると、入ってきたのはやっぱりエラだった。ただ、予想外だったことは、入ってきたのはエラだけではなかったということだ。
「今日はお客様がたくさんいらっしゃる日ね」
そう言いながら、
「トーマ、ロー。紹介するわね。ハンネローレさんよ」
エラが紹介したのは、きらびやかなドレスに身を包んだ貴婦人だった。狭い勝手口に裾の広がったドレスを押し込むようにして入ってきた彼女は、甲高い、朗らかな笑い声を上げている。格好も仕草も貴婦人そのものだったが、そこに嫌味は感じられなかった。
「今ね、お庭で会ったのよ。ハンネローレさんは、私のお母様のご友人だった方なんですって」
「おほほほ。今も、友人のつもりですよ。私は、あなたのお母様には本当にお世話になったのよ。今の私があるのは、あなたのお母様のおかげなの」
「母のことをそんなふうに仰って頂けるなんて。嬉しいです」
「あなたは憶えてないかもしれないけれど、あなたが小さい頃に一度だけ会っているのよ。素敵なお嬢さんに成長なさったのね」
「ありがとうございます」
「ところで、そのドレスは?」
「……母のものです」
「やっぱり! 見たことがあると思ったのよ」
「明日の舞踏会のために仕立て直したのですけれど……たぶん、行けなくなりそう」
「あら、どうして?」
「義母が許してくれないと思います」
「それはおかしいわ。明日の舞踏会は、未婚で適齢の女性なら誰でも出席していいのよ。王様からそういうお触れが出ているのだもの。特に、あなたのお父様は貴族階級でもあられるわ。その娘のあなたが、出席できないなんてことあるわけがないじゃない。あなたのお義母様は、王様の命令に背くおつもりなのかしら」
「父にとって、私はもう娘ではないんです。この姿を見たらおわかりでしょう? 私は、この家では使用人以下の暮らしをしているんですもの」
「まあ……」
ハンネローレは、エラの境遇にとても同情したようで、その話を聞くと、まるで自分のことのように悲しんでエラを抱きしめた。
「……僕のせいなんだ」
そこに、朗が口を挟む。
「僕が、花瓶を割ったから」
「花瓶を?」
ハンネローレはエラを離すと、割れた状態で床に置かれたままの花瓶に目を留めた。
「もしかして、あの花瓶?」
「ええ。義母の大切にしていたものなの」
「ふうん。あれなら、街に行けばすぐにでも手に入るわね」
「え、ええ。街に行けば売っているとは思います。でも、高価な物で、私にはとても買えません」
「大丈夫よ。そういう話なら、私に任せてちょうだい」
「え?」
「今から使いを出して買ってこさせましょう」
「そんな! いくら母のお友達だからって、そんなこと……」
「いいのよ、エラ。私は、昔ね、夫が事業で失敗してしまって、その借金を背負ったことがあったの。その時に、あなたのお母様がお金を貸してくれたわ。それを返すことができないままに、彼女は亡くなってしまった。でも、いつか返さなければならないと思い続けていたの。だから、これはきっと巡り合わせなのよ。あなたのためになるなら、彼女も天国で喜んでくれているはずよ」
ハンネローレはそう言うなり、わずかな時間どこかへ行っていたかと思うと、すぐに花瓶を抱えて戻ってきた。
「これでいいかしら?」
「……ええ! 確かに同じ花瓶だわ」
「ドレスもあるし、言いつけられていたお掃除やお洗濯も終わっているし……あとは、何かやることがあるのかしら?」
「あ! 夕食の支度がまだだわ。たいへん! もうすぐお義母様たちが帰ってきてしまうわ」
「なら、夕食の支度を急がせましょう」
ハンネローレがふたつ手を叩くと、それを合図に、勝手口から三人の女性が入ってきた。彼女たちの服装は、ハンネローレとは比べようもないぐらい質素で、また動きやすそうなものだった。
「私の家の使用人たちよ。彼女たちは、普段台所を中心に仕事をしてくれるの。任せておけば、あっという間に素晴らしい料理を作ってくれるわ」
ハンネローレの言葉は正しかった。二十分としないうちに、食卓には、それはもう素晴らしいご馳走が並べられたのだ。夕食の準備ができるとほぼ同時に、玄関の扉が開かれた。義母と義姉たちが帰ってきたようだ。
ハンネローレは、エラにウィンクをひとつ投げると、またもドレスを押し込むようにして勝手口から出て行ってしまった。三人の使用人と、それから読真と朗を連れながら。




