[69]spin-off
私は母の顔を知らない。正確には肖像画の中で微笑む姿しか見たことがない。
我が子以上に私を慈しむ乳母と幾人もの侍女により大切に育てられてきた。そして最愛の妻を喪った父も惜しみない愛を注いでくれた。母は居らずとも私は幸せな少年時代を過ごせてきたように思う。
父は再婚しなかった。「お前がいるから充分だ」そう言っては母との想い出話を聞かせてくれた。何度も。何度も。
どんなに多忙であろうが、一日に一度は必ず食事を共にしてくれた。今になってそれがどれほどの想いから続けられてきたことか、どれほど大変なことだったのかがよくわかる。
早く父を支えられるようになりたい。一心に学んだ。
卒業後二年間の留学が認められた。見聞を広め帰国した暁にはいよいよ父の片腕として励もう、その時の私は希望と期待に満ち溢れていた。
先方の国との調整が済み、学園での生活もあと半年という頃、父が病に倒れた。
青白い顔をして眠る父の顔を見た時は震えが止まらず、多くのものが控えていたにもかかわらず、溢れ出る涙を止めることができなかった。
長い戦いになるだろうと医師は言った。私は留学を取り止め、父の代理として公務にあたることを決めた。
卒業後に行われる予定だった王太子の叙任を早めた。式典やパレードなどは全て取り止め、直ちに実務についた。父は何度もすまないと謝ったが、留学などより父のそばにいることの方が余程私には大切なことだった。
父は調子のよい時は起き上がることもできた。気候が良ければテラスに出て食事を共にした。公務について厳しく問われることもあった。父に隠し事はできない。迷ったときは遠慮なく父を頼った。そうすることが父の命を繋ぐことにつながると信じていたからだ。
一年が過ぎたころ、パルードの王太子から成婚の知らせが届いた。留学の話が出たときに自ら調整を進めてくれたのが彼だった。私の叙任式にも招待する予定だったがいずれも叶うことはなかった。なんとしても祝いに駆け付けたいとは思ったが、今私がこの国を離れるわけにはいかないという責任との板挟みに悩んだ。
「行ってきなさい 外交も王太子の重要な公務だ」
「しかしパルードとなると往復ひと月は国を空けることになります」
「なにひと月くらいどうとでもなるさ 私に任せてお前は友人に祝いの言葉を届けてきなさい」
「わかりました・・・ありがとうございます」
パルードは南の暖かい国だ。温暖な気候のためかおおらかな人間が多いと聞く。
王への謁見の順番が来た。
〈この度はファウスティーノ王太子殿下のご成婚 誠におめでとうございます ステファンマルクを代表いたしましてご挨拶申し上げます〉
〈オスカリ王太子殿下 よくぞ参られた ここを我が城と思い過ごされよ 娘に案内をさせるから不便があればなんなりと申し付けなさい〉
〈オスカリ来てくれてありがとう 君の深い友情に感謝するよ〉
〈ファウスティーノおめでとう 直接祝える機会を与えてくれたことに感謝する〉
〈イレネ 殿下を案内して差し上げなさい〉
それがイレネとの出会いだった。
雷が落ちたかのような衝撃、経験はないがその時私は感電したかと思うほどの強い衝動を受けた。
お互いが一目惚れだった。一目惚れという言葉では生温い、あたかも欠けた魂の片割れを見つけたかのように強く惹かれあった。
城の案内と言っては逢瀬を重ねた。イレネはパルード国の第一王女だった。濡れたように美しい艶やかな翠の黒髪を持ち、笑うとまだあどけなさの残る十六歳の少女だが、類稀なる美貌と黒髪に掛けてパルードの黒鳥と呼ばれ国中から愛されていた。
パルードの成年も十八歳だ。二年後に婚約を交わそう、そう約束して私は帰国した。
だが二年後、正にパルードへの使者を選出しようとしていた最中、王宮に半旗が上がった。
王太子に任ぜられて僅か三年、まだまだ父から教わりたいことは沢山あったというのに・・・早すぎる別れだった。
王の喪は三年と定められている。私は心配だった。本人と約束を交わしたとはいえただの口約束だ。王女が成人したともなれば縁談の話が山のように降ってくるだろう。
父の葬儀に参列した友人にこの話を打ち明けた。
「ティーノ 私には結婚の約束をしている女性がいる」
「そうだったのか
おめでとう―とは今は言えないがお前が一人ではないとわかって安心したよ」
「いや話はここからだ 私たちはまだ正式な婚約を交わしていない」
「そうか・・・三年後になるわけなのだな」
「それまでに他の男の元へ嫁いでしまうのではないかと気が気ではない」
「何故そう考える?正式ではなくとも約束を交わした相手なのだろう?」
「強く縁談を勧められたら断れるとも限らない」
「ああ なるほどな・・・だが王太子いや国王だぞ それを蹴ってまで勧めるほどの縁談などそうあるものではないと思うが」
「本当にそう思うか?」
「ああ少なくとも私の国ではありえないな」
「ではそう伝えてほしい よろしく頼む」
「へ?誰にだ?」
「パルードの国王陛下へさ」
「・・・まさかとは思うが その婚約者とは」
「イレネ=パルード お前の妹だ 言質は取ったぞ」
これでイレネを他の男に盗られる心配はなくなった。イレネを迎え入れる日まで安心して内政に努めよう。
「オスカリ?ちょっと待って もう少し詳しく説明を・・・」
「ほかの弔問客を待たせている 私はもう行く」
「いやオスカリ こちらも非常に大切な話だとは思う・・・ぞ・・・」
一つ忘れていた。扉の前でそれに気がつき勢いよく振り返る。
「婚約の時に渡すつもりだったものがある 代わりに渡してもらえないか 後で部屋に届けさせる」
よし、これでもう言い残したことはない。
三年後、私は再びパルードの地に立っていた。ようやくイレネと婚約を交わす時が来たのだ。
少女らしさは消え、神々しいまでの美しさを湛えた彼女が私を出迎えてくれた。
〈会いたかった・・・イレネ私のイレネ〉
〈陛下と歩いたこの庭を毎日眺めて過ごしておりました〉
〈こんなにも長い間待たせてすまなかった 結婚しよう 私のところへ来てくれるか〉
〈はい 陛下の許へ参ります〉
「ステファンマルクの言葉も学んだのですよ」
「おお 素晴らしい発音だ ありがとう私のために努力してくれたのだね」
婚約から半年の後、イレネはステファンマルクへ嫁いできた。
王宮で到着を待つことなどできず、フレディーたちの反対を押し切りダールイベックの港まで迎えに行った。
それはステファンマルクにとって久方ぶりの慶事だった。我が国で二十五年ぶりとなる王妃の誕生だったのだ。イレネは国中から祝福を受け王妃となった。誰もが肖像画を求めて列をなし、令嬢や若い夫人の間では黒い鬘が大流行した。
一年後私たちは子を授かった。イレネから告げられた時は歓喜に震えたが同時に彼女を喪うかもしれないという恐怖が私を襲った。見ることも、その腕に抱かれることさえも叶わなかった私の母。父はこのような思いをしたのか。愛する妻の命と引き換えに産まれてきた私のことをあんなにも愛してくれたと言うのか。
子はいらぬ、イレネだけいてくれたならそれでいい。
それを言うことができたらどれだけよかったことか・・・。
「ふふふ もう嬉し泣きですか 陛下は本当に気の早いお方」
そう言って私の目元を指先で掬った。知らずに涙が零れていたようだ。
「丈夫な子を産みます 陛下によく似た男の子だったら嬉しいわ」
まだ膨らみもない腹を愛おしそうに撫でる横顔は既に母親の顔だった。
「息子でも娘でも構わない イレネが無事産んでくれるのならば」
「そうですね あなたに似た娘もとても可愛らしいと思うわ」
初めてのお産だというのにイレネは大層安産だった。なんという親孝行な息子だ。
「ありがとうイレネ ありがとう・・・」
母の隣で眠る無防備で無垢でとても小さな命。赤子とはこんなにも小さいのだな。目を離したら消えてなくなってしまいそうだ。
「レオ よく無事に産まれてきてくれた」
「レオ 良い名前ですね ふふ・・・陛下に瓜二つ」
「ああ とても私に似ているね」
幸せだ。自分の生い立ちを不幸だと考えたことはないが、今の私は間違いなく幸福そのものだ。最愛の妻と愛おしい息子、二人の幸せのためにもこの国をより良くしていかなければならない。
「良い国にしよう 二人がいつまでも笑って暮らせる国に」
「あら一人足りなくてよ 私たちは三人で家族なのですから」
「家族・・・そうだな私たち家族と この国全ての家族が幸せに暮らせる国にしよう 手伝ってもらえるかいイレネ」
「ええ 任せてくださいな」
「頼もしいな 愛しているよイレネ」




