[444]sidestoryノシュール=ベンヤミン
爽やかな初夏の訪れを感じる日だった。
私達は執務室でいつも通り執務をこなしていた。それは何の変哲もない平凡な一日のはずだった。
本宮から事務官が一人、知らせを持ってきた。
事務官は執務室の中には入ることなく、従者にそれを渡すと慌ただしく本宮へと戻っていった。
「レオ様 ただ今こちらが届きました」
シモンからそれを受け取った私は、即座に封を切って中身を取り出す。僅か数行のそれを読み終えると、立ち上がると同時に、今から告げなくてはならない事実にどうしようもなく気が重くなり、私ですらそれを到底受け入れられそうにないことに気がつく。
「レオ?どうしー」
『ベンヤミン 今すぐ邸に帰れ』
『デルリオ侯爵が亡くなった』
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ーベンヤミン目線ー
ケヴ兄が直轄地の任期を終えたのは約ひと月前だ。
王都に戻り政務に復帰する前に、二ヵ月の休暇が与えられた。これは特例じゃなくて、任期明けの正規の休暇だ。
ケヴ兄達は、義姉さんの生家があるノールチェス領に寄ってから帰ると連絡を寄越してきた。
ケヴ兄が代官を務めていた直轄地からノールチェスは近い。俺も視察で通ったからよく知っている。
義姉さんにとっては結婚以来初めての里帰りだ。ノールチェス卿達も、大きくなったベロニカを見たらさぞ喜ぶことだろう。
先に到着した直轄地からの引き上げ荷物の山を見ながら、兄貴達との再会を俺も楽しみに待ちわびていた。
その兄貴が死んだ?
嘘だろう?きっと何かの間違いだ。今頃はノールチェスでのんびり休暇を満喫している頃だ。そろそろ王都に戻る準備も始めなくちゃな―なんて言いながら。
急なことで、邸からの迎えは来ていないと思っていたが、鳶尾宮を出ると目の前にノシュールの乗り慣れた馬車が停まっていた。俺の従者が「お帰りなさいませ」と一言だけ言うと、ドアを広く開けて俺が乗り込むのを待っている。
馬車はカラカラと音を立てて動き出した。
いつもなら俺の向かいに座る従者が、今日は御者台に座っている。
邸は不思議なほど静まり返っていた。まあ今は両親と俺しかいない邸だ。普段から騒がしさとは無縁な邸ではあるけど、それにしても静かだ。
「旦那様はまだお戻りになっておりません 奥様はお部屋にいらっしゃるかと」
背後から遠慮がちに従者が報告をしてきた。
「そうか ここにはいつ頃知らせが?母上が受けたのか?」
「一時間も経っておりません 旦那様より奥様宛に知らせが参りました 同時にベンヤミン様のお迎えに上がるようにと」
「そうだったんだ」
段々と、受け入れがたいことが事実なのだと思い知らされていく。
「母上のところへ行ってくる」
俺は自室には寄らず、最初に母上の部屋へ向かった。
ノックをすると、すぐに侍女が扉を開けた。
「奥様 ベンヤミン様がお戻りでございます」
「母上 入ります」
母上は窓際に置かれたソファーに座っていた。今朝会った時のままの、一筋の乱れもなく整えられた髪を見ると「今お茶会から戻ったところなの」と笑いながら振り返りそうな気がした。
「母上 戻りました」
もう一度声をかけて母上の向かいのソファーに座ろうとした。その時見た母上の顔は紙のように白くて、きっと俺は酷く驚いたんだと思う。
「おかえりなさいベンヤミン」
母上の顔からは生気が感じられず、ただ口だけが動いているようだった。俺はかける言葉も見つけられず、そっと母上の隣に腰を下ろした。
「ケヴィン 亡くなったのですって」
俺は何も答えることができなくて、黙ったまま握った自分の手を見つめ続ける。
「クリスさんも
ベロニカはまだ七歳だったのに」
なんだって?!
聞いてない。
母上がクリスと呼んだのは義姉のクリステルさんのことだ。そして娘のベロニカ。何があったんだ?兄貴だけじゃなくて一家全員が・・・何があったというんだ?
それでも今、母上に尋ねることは躊躇われた。一体何が。
そんなにはかからず、父上もお戻りになった。俺達がここにいることを誰かが知らせたんだろう、父上も母上の部屋へやってきた。俺達は今三人で向かい合っている。
「ベンヤミン どこまで聞いている?」
俺への直接の連絡はなかった。本宮からレオ宛に届いた一報もごく短い文章で、それが病なのか事故なのか、それとも事件なのか俺は全く知らなかった。
「ケヴィン兄さんが亡くなったと」
口にすると改めて兄貴がいなくなったことを実感させられる。
「馬車の事故らしい ケヴィンとクリステルは即死 ベロニカもその日のうちに亡くなったそうだ」
「ああ」と小さな悲鳴を上げた母上が泣き崩れた。
なんてむごい。こんなことがあっていいのか?気がつくと俺の目からも涙が流れ落ちていた。
三人の亡骸は十日ほど経って帰ってきた。
王都に戻る途中の森での事故だったらしい。突然天候が変わり近くに落ちた雷に怯えた馬が暴れて暴走したんだそうだ。崖から転落した馬車は御者も含めて全員が亡くなったと聞いた。
なんでだよ、もう一日ノールチェスにいればよかったじゃないか。まだ休暇は残っていただろ?なんで・・・ちくしょう。
明日、葬儀が行われることになった。
王都で見送ろうと父上がお決めになっていたんだ。デニス兄も知らせを聞いてすぐに、シビラ義姉さんや子供達を連れて駆けつけていた。そしてソフィアも毎日俺のところへ来てくれている。
「ごめんな ソフィア」
俺達は今年の九月、あと三ヵ月後に結婚する予定だった。当然延期だ。俺はいつもソフィアを待たせてばかりだ。
「何を仰るのです」
ソフィアの目には涙が溜まっていた。毎日俺の心配ばかりしてくれている俺の大切な人。だけど俺は弱りに弱っていて、この時はソフィアを慰めたり励ましたりする言葉をかけてやる余裕がなかった。
葬儀には陛下もお越し下さった。
「ステファンマルクはかけがえのない宝を失った 安らかに神の元へ帰ることを願っている」
王妃殿下は母上に付き添って下さり、涙まで流して下さった。
「お悔み申し上げます どうぞ無理なさらずに あなたの身体が心配だわ」
レオも身重のスイーリを伴って来てくれた。
『残念だ 残念でならない ベンヤミン無理をしていないか 身体を労わってくれ』
一日中弔問客が途切れることはなかった。が、俺はなんだか他人事のようにそれを眺めていた。
冷たくなった兄貴が帰ってきたのに、まだその現実を受け止め切れていないんだ。
その日の夜、ようやく邸の中が静かになった時、俺は父上の書斎に呼ばれた。
明日、ケヴ兄達を連れてノシュールに向かう。三人が亡くなってもうかなり日が過ぎている。早く埋葬してやらなきゃならないんだ。
その話だと思っていた。
「父上 お呼びでしょうか」
書斎に入ると、デニス兄も先に来ていた。
「ベンヤミン 今夜から後継者教育を始める 本邸にも暫く滞在することになる しっかり学びなさい」
後継者・・・?!
「何呆けた顔をしている 王都に戻り次第デルリオを名乗るよう手続きもしておく」
「お待ちください父上!」
デルリオはノシュールの嫡男が代々名乗ってきた爵位だ。今日までケヴ兄が使っていた名だ。
それを・・・
「俺には重すぎます」
この時父上の顔は、息子を失った父親の顔ではなく国の重鎮、文官トップの顔をしていた。
「ノシュールの後継者はベンヤミン お前だ そのことは理解しているな?」
そんな・・・
頭では勿論理解できるさ。もうノシュールには俺しか残っていない。でも俺、三男なんだぜ。
「デニス兄 俺には無理だよ だって俺」
デニス兄の顔も厳しかった。これが後継者の教育を受けてきた人間との違いなのかと思い知らされる。
「俺はもうノシュールではない 本家を助けるため全面的に協力するが ノシュールを守るのはお前だよベンヤミン」
頭の中がいっぱいでパンクしそうだ。少し時間が欲しい。
でもそれを言うことは許されない。父上は今夜から始めると仰ったんだ。
「わかりました 父上 デニス兄 俺精一杯学びます ご指導よろしくお願い致します」
二人はゆっくりと頷いた。
「けれど ひとつだけ我儘を言わせて下さい
デルリオの名だけはお許し下さい」
ケヴ兄が生きてきた証が消えちまうような気がするんだ。父上の代でデルリオはケヴ兄一人だけにしてくれよ、お願いします。
父上は、やっと目元を和らげて頷いて下さった。
「わかった お前には充分名乗るだけの資格も実力もある だがその意思を尊重しよう」
「ありがとうございます」
そして父上の持つ、別の称号をお貸し下さることになった。
「そうだな スヴァルトはどうか ローゼングレンでは少々心許ないからな」
それに相槌を打ったのはデニス兄だ。
「そうですね スヴァルトが良いでしょうね」
スヴァルトは子爵位、ローゼングレンは男爵位だとデニス兄が教えてくれた。儀礼的なものではあるけれど、ノシュールの後継者があまり低い爵位を名乗るべきではないと言われて納得した。
「明朝陛下と王太子殿下にお伝えしておく」
「よろしくお願いします 父上」
ケヴ兄達がノシュールの地に還って十日ほど過ぎた時、ソフィアから手紙が届いた。
俺達一家のことを案じていると書いてくれていた。
ソフィアも当然気がついているよな、俺さ爵位を貰えるんだってさ。今からは子爵を名乗ることになるわけだけど、いずれは公爵だって。三男の俺が公爵だよ。
喉から手が出るほど望んでいた叙爵だ。それがこんな形で、父上の爵位をお借りすることになるだなんてな。俺が欲していたのはこんな形じゃなくて。
ちくしょう、もう絶対涙は流すまいと心に決めていたのに、勝手に水が流れ落ちる。
ケヴ兄、どうして死んじまったんだよ。
手紙の最後に書かれていた言葉を読んで、俺はようやく冷静になった。
[暫くボレーリンに戻ることになりました お爺様が体調を崩されたらしいのです]
ソフィア、自分も大変な時に俺のことばかり心配してくれてありがとうな。そして側にいてやれなくてごめん。ボレーリン侯爵が回復されることを遠くノシュールから祈っているよ。
だが、悲しいことは連鎖した。
八月の終わり、ボレーリン侯爵がお亡くなりになった。王宮へその知らせが来たのは、亡くなって二週間が過ぎた頃だった。
ビルもかなりショックを受けていた。
大変ご長寿でいらっしゃった。天寿を全うされて召されたのだ。
だからと言って悲しまないはずはない。ソフィアの花嫁姿も見ていただきたかった。
ソフィア、辛く悲しい時にやっぱり俺は側にいてやれなくてごめんな。駆けつけるにはボレーリンはあまりに遠い。ソフィア、早く会いたいよ。
そのまま今年の冬はボレーリン領で過ごすのだろうと思っていたが、秋が深まる前にソフィアは王都に帰ってきた。お父上はボレーリンを継いで、領地でお忙しくされている。王都には新たなクルーム子爵となったソフィアの兄夫妻がやってきた。当面はクルーム領も侯爵が見られるそうだ。
「おかえりソフィア 待っていたよ 元気そうでよかった」
「お会いしたかったですベンヤミン様 ベンヤミン様もお元気そうで安心致しました」
何か月ぶりに会ったんだろうな俺達。幼い頃から離れて過ごすことは何度もあった。一番長かった時で二年、俺の留学中にはそれだけ会えない期間があった。なのに今回が一番辛かったよ、早く顔が見たくて、何度ボレーリンへ行こうかと思ったかわからない。おかえり俺のソフィア。
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ノシュールとボレーリンに相次いで訪れた悲しい出来事を乗り越えて、翌年の秋に二人は結婚した。
ノシュールの後継者となったベンヤミンは、以前に増してその存在感を大きくしている。
「レオ 昨年度の東航路収益と各拠点の実績が出た 次の会議で出す陸路案の提出にこれもつけようと思う 目を通しておいてくれ」
『わかった
順調だなベンヤミン』
ニカッと笑ったベンヤミンは、手に持った資料の角をトントンと叩きながら、視線を明後日へ向けた。
「ケヴ兄に安心してもらえるようにさ 誰にも文句言わせないだけの実績積みたいからな」
ベンヤミン、そんな風に気負わずとも既に、スヴァルト子爵は本宮会議に欠かせない存在じゃないか。多くのベテラン官僚がベンヤミンの発想には一目置いていると聞いている。
「それに さ
秋には俺 父親になるんだ 息子か娘のためにもますます頑張らないとな」
これ以上ないほど目じりを下げたベンヤミンが、小声で付け加えるように言った。
『本当か!ベンヤミン!おめでとう』
「おめでとうございます!ベンヤミン様」
「レオ みんなもありがとうな
ようやく公表してもいいってソフィアがさ 嬉しいよ俺」
九月の終わり頃、王都が本格的な秋を迎える少し前、ベンヤミンとソフィアの嫡子が生まれた。ノシュールの熨斗目色の瞳をしっかりと受け継いだ男の子だ。
クレメントと名付けられた二人の息子は、私の次男ダニエルの生涯の友となるのだが、それはもう少し先の話。




