[427]
音がない。キンと耳鳴りがしそうなほどの静けさが再び訪れた。
穴の向こうに映る景色は不鮮明で、先程までとは視点も違っている。見上げているようなのだがとても見にくい。
その時突然目の前にいくつもの顔が並んだ。ぼんやりとしか見えないがどれも知らない顔だ。それにしても近い、もう少し離れてくれないか。
何か話しているらしい。口が動いている気がする。が、依然としてはっきりは見えてこないし声も音も全く聞こえない。
〔これの言葉は我にも聞こえぬ〕
『そうなのか それならば仕方ない しかしこうも不鮮明では何もわからない これを見る必要が本当にあるのか?』
答えは返ってこなかった。黙って見ていろと言うことなのだろう。
何度か場面が切り替わった。突然ぷつりと切れるのだ。その度に少し景色が変わっていたり、前に戻ったりしているようなのだが、相変わらず何を見せられているのかわからないままだ。
幾分明瞭に見えるようになった。相変わらず視点は低い。常に見上げているようで、なんだか首が痛くなってきた気さえする。見えるものは代わり映えがしない。かなり狭い場所に閉じ込められているようだ。同じ顔が時々覗き込んでくる。女性が一人、幼い少年が一人。どちらも友好的だ。
『これはなんだ?私の過去を見るのではなかったのか?何を見ればいいんだ?』
〔それはそなたのもうひとつの過去だ〕
え・・・
それって。
まさか。
『この世界に来る前の私か?この少年が私だったのだな』
完全に私の中から消えた過去。自分が何者だったのかすら忘れてしまった過去が今目の前にある。
くそ、神と言うのはどうしてこうも伝達が下手なのだ。重要なことは先に言ってくれよ。わかっていたならもっとしっかり観察したのに。
その後は少年が現れるのが待ち遠しかった。それが、なかなか願うほどは出て来ず、女性の姿ばかりが映し出されていた。
絵本が目の前に広がることもあった。文字もいくつか並んでいたが、私には読めなかった。しかし絵本と言うのはどの世界でも共通だ。絵を見ているだけで大体の内容は伝わる。
その時ふと思った。
これは誰かの目を通して見ている景色ではないのかと。そう考えると先程からの奇妙な視点の意味が理解できる。
〔辿り着いたな それはそなたの視点だ〕
私の視点。
あの少年が私ではなかったのか。そうか成程。
これが正確には私が見た過去だと言うことはわかった。自分の姿がわからないのは残念だが、思い出せない過去を追体験していると思えば、そう悪いことでもなかった。
いつまで経ってもレオの過去ほど鮮明には見えない上頻繁に切り替わるので、状況を飲み込むのに苦労したが、この世界とは随分と様子が違うことがわかってきた。
同じような年頃の幼い子供がずらりと並んだ場所に入っていく。そこは教会のように椅子が並んでいるが、とても狭い。子供ばかりだ。目線が同じなので、私もその子供達と同年齢なのだろうと思う。
かと思うと、視点が激しく揺れたり、塔のようなものを登っていたりする。何せ突然変わるのだ。
〔この世界に我の力は及ばぬ 長い時間見ていることは出来ぬのだ〕
ああ、今の言葉でなんとなくわかった。
神は全能ではないのだ。
こことは違う世界を神は司ることができず、恐らくは私の目を通してのみ見知ることができる。しかしそれも不安定ということなのだろう。それで頻繁に景色が変わるのだ。
『なぜ私だったんだ?』
この世界の私の姿はまだわからない。けれど、特殊な状況下にいる存在ではないように見える。
答えは返ってこなかった。理由はないのかもしれないな。
学園とよく似たところにいる。周囲には多くの幼い子供がいる。随分と幼いな。こんな幼少の頃から学園で学んでいたのか。
手にしているものも興味深かった。見たことのないものばかりだ。
不思議なペンを使っている。インクなしで文字が書けるらしい。ベンヤミンが見たら夢中になりそうだなと思った。
何度か菓子を作っているところも見た。とても小さな厨房だ。一人でいっぱいになるようなその場所は、狭いが大変機能的に見えた。全てのものが無駄なく配置されている。手を伸ばせば必要なものが届く仕組みだ。
次々と変わるつぎはぎだらけの過去を見続けていて、うっすらとわかってきた。
何度も何度も出てきた女性はきっとこの世界の母上だ。たまに出てくる男は父上だろう。そして自分だと思った少年は多分私の兄弟。
この世界の私には兄弟がいたんだな。
とても小さな邸で慎ましく暮らしている。私は平凡で静かな人生を送っていたんだな。
このまま見続けていたら、最後は死ぬところを見ることになるのだろうか。姿は見れないのだろうけれど、死んだ理由くらいはわかるだろう。私は何歳まで生きたのだろうな。この世界も平和に見える。戦いで命を落としたりはしなかったに違いない。
何度も視点が揺れる。見ていると酔いそうになったが、それが走っている時の様子だと気がついた。前世から走ることが好きだったのか。不思議だな、どれだけ見ていてもひとつも思い出す景色はないのに、身体はしっかりと憶えているということが。
机に向かっていることが多くなった。懸命に文字を追ったり、書き記したりしているが、全く読めないため退屈になってきた。真面目に勉学に励んでいたと言うことがわかっただけで満足だ。
学園だ。周りには制服を着た令嬢がたくさんいる。全員が黒髪だ。
令嬢だらけだな、男がいない。何故だろう。
同じ令嬢達と頻繁に会っている。カフェはこの世界とあまり変わらない。
その時一人の令嬢が手に持っていた板を私に見せた。
『えっ?』
次の瞬間にはぷつりと切れてしまったが、見間違えるはずがない。その板に描かれていたのは紛れもなくレオだ。レオの姿が描かれていた。
暫くは理解が追い付かなかった。
が、ふとその時スイーリの言葉が頭に浮かんできた。
そうだ!ここはスイーリの前世と同じ世界じゃないか。スイーリが言っていたゲーム、私、それのことだ。
こうして全く別の世界で自分の姿を見せられると、知っていたはずなのにますます不思議に思う。
何故この別世界の人間が私のことを知っているんだ?
私が学園の三年生だった一年間の話だと言っていた。スイーリが知っていたことがいくつも実際に起こった。その時なぜ疑問に思わなかったのだろう。
私達の暮らすステファンマルクは千年を超える歴史を持つ国だ。その全てがスイーリのいたこの世界で作られたものだと言うのか?そんなはずないだろう。
向こうの世界の私も、令嬢達が持つ板と同じものを所持しているようで、度々覗き込んでいる。しかしそこにレオの姿はなかった。何か目まぐるしく動いているようなのだが、それが何なのかははっきりとは見えない。
見ていた穴が突然塞がってしまった。
〔終わりだ〕
終わり?
〔ここで呼び戻したのだ〕
呼び戻す・・・?
〔予定より随分と長くなった〕
何の話をしている?私にわかるように言ってくれ。




