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ノシュール邸でのパーティーから十日ほど過ぎた日の夕方、待ち侘びていた人物が執務室を訪れていた。


「お久しぶりでございます 戻って参りましたぞ」

『おかえりレノーイ 会いたかったよ』


レノーイは最後にメルトルッカの港で会った時と同じ、古ぼけた鞄を片手に帰ってきた。三年も旅を続けていたとは思えない身軽さで。



「レオ様 メルトルッカはいかがでございましたかな?伺いたいことは星の数ほどあれど 今は執務中のお時間でございます故 また後日」


どちらが長旅から戻ったのかわからないような、相変わらずの飄々ぶりに気が抜けつつも、ほっとする。

『ああ メルトルッカでは素晴らしい経験をさせてもらった レノーイにもじっくり聞いてもらいたいよ』


「おかえりなさいませ レノーイ様」

「ただ今戻りましたぞ ベンヤミン様もお変わりなく 安心致しました」

ベンヤミンも、そして従者達もレノーイを温かく出迎えている。



『ロニー レノーイを案内してやってくれ』

「承知致しました レノーイ様 お部屋にご案内致します」


レノーイの不在中に、本宮にあった私物の類は全て運び入れている。裏庭が見渡せる場所にレノーイの新しい部屋が用意された。きっとレノーイは中庭よりも裏庭の景色を気に入るはずだと思って。



「レノーイ様 鳶尾宮は特に飯が旨いです 楽しみにしていてくださいね」

ベンヤミンの一言に笑いながら執務室を後にした。



「レノーイ様 三年も旅を続けられていたとは思えないな お元気そうで安心したよ」

『確かにな レノーイは全然歳も取らないよな』

初めて会った頃の私は幼い子供だった。彼との付き合いは二十年近いというのに、レノーイの方は出会った頃と殆ど変わらないように見える。




「レノーイ様もお戻りになってさ いよいよ二十三日を待つだけだな」

六月の二十三日、今年の夏至の日だ。


ベンヤミンのその言葉に曖昧に笑って見せると、彼はやや呆れた声を返した。

「レオはさ 浮き足立つような気持ちってならないの?俺ならさ 結婚式を間近に控えたら なんか上の空になっちまいそうだぜ」


失礼なやつだな。スイーリと結婚できるんだぞ、私がどれだけその日を待ち焦がれているのか聞かせてやろうか?見るのを我慢しているスイーリのドレスだって、とても私の乏しい想像力ではイメージし切れないほど素晴らしい出来に違いないし、早く私の名前を教えてやりたいし、それに結婚したら毎朝一番にスイーリに会えるんだぞ。毎朝だぞ。

充分浮かれて上の空にもなっているさ。ただ、執務の時間は努めてそれを抑えているだけだ。


『ベンヤミン それを言うなら浮き立つだ』

「へ?」



何やらビルとこそこそ耳打ちし合うと、少しだけ耳の先を赤くしたベンヤミンが拗ねたような声を上げた。

「だからそういうとこ!」


ビルも、他の従者達も笑っている。そして私も。




----------


「お早うレオ」

『お早うアレクシー』


六月の朝は早い。どんなに早起きしても太陽より先に起きることは不可能だ。

今朝も眩しい日差しが差し込む廊下をアレクシーと歩く。



『調子よさそうだな アレクシー』

アレクシーは朝の鍛錬を止めなかった。気持ちが落ち着くまで待つと言っても聞かず、それならばと私は手を抜くこともせず常に全力で向き合った。


もういきなり動きが止まることはなかったけれど、それでもどこか本調子とは言えないような状態に見えていたのだが、それももう心配なさそうだ。



「ああ もうすっかり元通りのはずだぜ」

『それなら安心だ』


頭の中に怒声や悲鳴が聞こえそうになった時、アレクシーはイヴィグランの店主の顔を思い浮かべるようにしてるらしい。壊すやつもいれば、救ってくれるものもいる。アレクシーにとって店主の言葉は大きな救いになったんだろうと思う。



鍛錬場に着き、剣を構えて向き合った。

「レオにはさらに差を広げられちまったからさ 立ち止まってなんていられないってことさ」

『ん?』


「実戦だよ レオは今や鳶尾宮で唯一の実戦経験者だからな」


ほんの一瞬真顔になりかけたけれど、件の日を思い返して吹き出した。

『アレクシー それだけ言えるようになって安心は安心だけどな ひとつ言わせてくれ

 破落戸と対峙した私を見ていたら とてもその言葉は出てこなかっただろうさ』


「そりゃ 素人集団だったとは聞いたけどさ それでも五十人近くいたんだぜ」


五十本の剣を同時に突きつけられたら無事では済まなかったかもしれないけれど、律儀に一人ずつ飛びかかって来る素人は、何人いようが同じさ。



『では実戦らしく行くか?足が出ても文句言うなよ』

目を丸くしている。冗談さ、アレクシーと本気で打ち合って足を出す余裕なんてないよ。




心地よい汗を流して、鍛錬を終える。今日もいい一日になりそうだ。

「なあレオ いつまで鍛錬する予定だ?まさか婚礼の朝までやるって言わないよな」

『あー』


ダメか、やっぱり。その方が調子いいんだけどな。

『そうだな 考えておく』



私室に戻って風呂に入り、着替えを済ませる。

ロニーと今日の予定を確認しながら朝食を取る。今朝は冷たいスープが用意されていた。もうすぐ夏だな。冷えたスープが旨かった。



時間になり部屋を出た。四人の騎士達と挨拶を交わして、執務室へ続く退屈な廊下を進んで行く。

いつも一人は休みを取っている従者達が、今日は久々全員揃っていた。



最後の角を曲がろうとしたところで、タイミングよく扉の向こうからベンヤミンが出てきた。何時まで経っても彼の執務室は荷物置き場だ。


『おはようノシュール卿』

「おはようございます 今朝もよく晴れましたね」

『ああ いい天気だ』



そして執務室まであと十歩程度、というところで予期せぬことが起こった。


突然意識が遠くなりかける。

脚を前に出しているはずなのに、上手く踏めている感覚がしない。


廊下で倒れるわけにはいかない。あと数歩、とにかく執務室の中へ。


右手が一度、二度空を切り、三度目で誰かの腕を掴んだ。

「殿下?!」


この声は誰だ?耳が塞がったようにぼんやりとしか聞こえなかった。


誰であってもいい、今側には信頼するものしかいない。

『このまま 中へ』



開いた扉から執務室の中へ入る。入ったはずだ。

確認したくても、自分がどこを向いているのかすらわからなかった。目の前が霞のように白い。



カチャと聞こえたのは扉が閉まる音だな?



その音が聞こえたのと同時に、私は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。

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