[416]*
『隣 行っていい?』
普段よりひとつ分低い声に、私の心臓は爆発寸前でした。レオ様はご自分が以前とは段違いに色気が増したことを自覚なさっているかしら。していないわよね、世界中でレオ様に一番無関心なのがレオ様ですもの。
「はいっ!!」
声、裏返らなかった?!
カップを近くに置き直した時、どさりと隣にレオ様が腰を下ろしました。
ここ数日は寝る時間も殆ど取れていないようなのです。今朝三日ぶりにお会いしたお父様とヴィルホ兄様は酷い顔をなさっていたわ。
ダメよスイーリ。こんなに疲れて弱っているレオ様によこしまな気持ちを起こしてはいけないわ。
ああ、けれど翳りのある横顔も素敵。
私の中の白スイーリと黒スイーリが激しくせめぎ合います。だって、仕方ないわ。どんな瞬間のレオ様も見逃したくないのだもの。
「温かいうちにどうぞお召し上がりくださいね」
お疲れの時は、蜂蜜をたっぷりと入れたホットミルクのほうがよかったかしら。これじゃ休まず働いて下さいって言っているようなものよね。コーヒー以外の飲み物も勉強した方がよいかしら。うーん、でもハーブティーはロニーさんやシモンさんがとてもお詳しいし、私の出る幕ではないのよね。
『ありがとう』
カップに手を伸ばしたレオ様の喉を、ゆっくりとコーヒーが流れ落ちていきます。
『旨いんだ スイーリの淹れたコーヒーは』
毎日美味しいって言って下さるの。それが嬉しくて私はまた明日もご用意しようって思うのよ。
やっぱり欲張ってはダメね。コーヒーだけは私のもの、コーヒーと言えばスイーリ、コーヒーには私。そうね、その方が特別感があって素敵だわ。
と、その時ー
あらっ?
肩に重みを感じて横を向くと、柔らかい金色の髪が頬をくすぐりました。
「レオ様?」
「レオ さま?」
もしかして寝てしまった?
レオ様が両手で握ったカップの中には 、まだ少しだけコーヒーが残っています。
起こさないようにそっとカップを持ち上げて、それからレオ様の頭を静かに膝の上へ滑らせました。
(膝枕しちゃった)
どうしましょう、拳を握り締めて叫びたい気分だわ。
邸に戻ったらすぐに日記を書かなければ。
規則正しい寝息が聞こえます。まつ毛長い。まつ毛の影になりたいわ。
鼻筋が芸術品みたい。全部大好き、百年は見ていられるわね。
ほんの数日前に起こったことが嘘みたいに思えるこの穏やかな瞬間が、ずっと続いてほしい。
ー八番街での事件の時私は、自分でも意外に思えるほど恐怖を感じていませんでした。
あの日、あの暴漢たちの中に一人としてレオ様の相手になる腕を持つものはいなかったから。
五十人近い人数を相手にされたというのに、レオ様は息を乱してすらいなかったですもの。
かっこよかった。
もちろん口にするつもりはありません。決して言わないわ。
でも思うくらいは自由でしょう?
滅多に見ることのない、怒りのこもった強い視線、そして鮮やかな剣捌き、倒れて呻き横たわる男達から私を遠ざけるように、襲い掛かるものを誘導していることも気がついていたの。
二度もレオ様から守っていただいた。
ありがとうございます。私にできる全てで、一生をかけてお返しさせていただきます。
『ーごめん』
ああ、起きてしまいました。
少しとろんとした目で見上げる寝起きの無防備な顔、これは何のご褒美ですか!
もう少し寝ていてもよかったのですよ。もっともっと見ていたかったもの。
なのに起き上がったレオ様は、口元を抑えて視線を逸らしてしまいました。
『どのくらい寝てた?』
座り直してこちらを向いたレオ様は、もういつもの完璧なお顔に戻っていました。
「そんなには経っていませんよ まだ太陽も落ちていませんから」
言って悲しくなったわ。もう少しこの至福の一時を味わっていたかった。
『叩き起こしてくれてよかったのに せっかくスイーリと会えたのに ごめん ごめんな』
「とんでもないです」
レオ様に謝られてしまうと後ろめたくなります。私にとってはご褒美タイムでした!とも言えませんし・・・いえ言ってもいいのかしら。
そんなお気楽な気持ちでいたのは私だけでした。
この日、レオ様がこんなにもお疲れだったのは多忙だけが理由ではなかったんです。
冷めたコーヒーを飲み干すと真っ直ぐに前を向かれたまま、どこか遠くを見ているような感じがします。
「おかわり 用意しましょうか」
立ち上がろうとした私の手を、レオ様がそっと掴みました。やはり視線は前を向いたまま、でも掴んだ手は指と指を絡めてしっかりと握り直してくれました。
何かあったのね。
今日は裁判の審議に出席されてましたから、そのことかしら。
『スイーリ 明日極刑が言い渡される 先代も先々代の時も 一度も下されたことのなかった刑だ』
ヒュッと声が出そうになりました。
『私は何に衝撃を受けているんだろうな ペットリィには微塵の情も感じていないと言うのに』
なんとお返事したらよいのでしょう。
ヴェンラさんの兄が馬車の事故を引き起こし、あの破落戸達を仕向けた犯人だったと、その夜レオ様の私室にまで侵入したと、そして六年前のあの事件の時も。
私達の周囲で起きたこと全てがヴェンラさんの兄が犯した罪だったと聞きました。
少なからず私に対して憎悪を抱いていることも、お父様が話して下さいました。ヴィルホ兄様は止めたがっていたけれど、聞けてよかったわ。それで全て納得しましたから。
ヒロインの兄はゲームには登場しませんでした。存在そのものがなかったはずです。
それを言い訳にはできないけれど、まさかヴェンラさんのお兄さんがそこまで私を憎んでいたなんて想像もしていませんでした。
『スイーリ?』
「あっごめんなさい 少し考え事をしていました」
レオ様の表情がとても悲しげで辛そうで、私まで辛くなります。
『余計なことを聞かせてしまったね スイーリに言うべきじゃなかった』
悲しい目をしているのは私のためなのですか?私がつい考え事をしてしまったから、それでお返事が遅くなったから、ショックを受けたと思われてしまったのね。
「そんなことありません 教えて頂けてよかったと思っています それにきっと 知ることになったでしょうから」
『ーうん』
王都中が注目していますから、裁判の結果は瞬く間に広まることでしょう。一日早くそれを知った、というだけのことなのです。ですからどうぞそんな顔なさらないで。
『ヴェンラには伝えるべきだろうか いやどう伝えるべきか 最後に会わせてやるのがいいのか
スイーリ 相談に乗ってもらえるか?』
「はい」
ヴェンラさんにとっては、お母様を除けば最後の肉親なのよね。兄妹として過ごした時間は短くても、二人は長い間友人同士だった。
これだけの騒ぎになっているのだから、王宮で働くヴェンラさんの耳にも恐らく届いているはず。裁判のことも間違いなく知ることになるでしょうね。
友人であり、兄でもあった人が大罪を犯した。それを人づてに知り、そして今度はその死も人づてに。私ならどう思うかしら。事前に知れたなら、最後に一度会いたかった、そう思うのが自然ではないのかしら。
「レオ様 私がお伝えしましょうか」
レオ様の代わりを務める、などとおこがましいことを思ったわけではないんです。今の私は一貴族の娘に過ぎなくて、本当ならば明日、非公開で行われる裁判の内容を知りえる立場ではありません。けれど、こうして知ってしまった。ヴェンラさんは私のお友達でもあります。
『いや スイーリにそんなことさせるつもりはない 嫌な役目だ』
「私なら平気ですよ 嫌な役目とも思いませんから」
少しの間レオ様は迷っておられるご様子でしたが、最後は頷いて私に任せてくださったのです。
『わかった 今から本宮へ行こう スイーリ頼む』




