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全く散々な日だ。予定を台無しにされた私達は、そのまま鳶尾宮に戻った。
馬車から降りてきた私とスイーリを見た途端、侍女達はつんざくような悲鳴を上げるし、ロニーですらも目を剥いて絶句していた。
『落ち着いてくれ 私達は怪我を負っていない 無傷だ まず風呂の用意を頼む』
その言葉に我に返った侍女や従者が一斉に動き出す。
彼らの後から階段を上って、スイーリを部屋まで送った。叙任式の時以降彼女専用にしている客室だ。
『スイーリ ゆっくり身体を休めて 今日はもうここで過ごそう サロンで待ってる』
「お気遣いありがとうございます 汚れを落とさせていただきますね
レオ様 本当にお怪我はありませんでしたか?」
ぺたぺたと私の腕や肩を触って確認している。外では遠慮していたのだろう。その心配そうな表情すらも愛おしく、思わず抱きしめたくなる。
が、こんな汚れたままではだめだ。スイーリも早く清潔なドレスに着替えさせてやらないと。
『大丈夫だよスイーリ 安心して風呂に入っておいで』
ようやく納得したスイーリを侍女に託して、私も一度私室に向かった。
「レオ様一体ー」
アレクシーの口元が腫れている以外は、身綺麗な三人の護衛と、凄まじい出で立ちの私を交互に見てロニーは困惑の声を漏らす。
『あー』
一から説明するのも面倒くさい。事故の下りはゲイルが後で付け足してくれるだろう。
『掃除をしてきた』
余程大勢で支度したようで、私室に戻った時には風呂の準備が済んでいた。
『汚れを落としてくる』
「御用がございましたらお声がけください お着替えを用意して参ります」
『うん』
汚れた上着を床に脱ぎ捨て、カフスに手をやる。それだけは丁寧に外して台の上に置いた。
既に乾いてどす黒く変色した血が至る箇所についている。無意識に触った髪の毛も、束になって固まっているところがあった。
汚れと汗を落として湯船に身体を沈める。
風呂の心地よさと、時間が経ったことで冷静になりつつはあった。
いくつも疑問が残る事件だ。今頃第一がやつらを取り調べているだろうから、そのうち報告は来るだろう。
ろくな腕もない素人の集団だったことはただの幸運だ。一人二人、剣術を学んでいたものが混ざっていたとしたら、今回のような結果ではなかったかもしれない。
全て私の判断ミスだ。護衛騎士は皆正しい行動を取ろうとした。それを阻止したのは私だ。
安全に慣れ切って有事の際の判断が未熟すぎなんだ。
自分の身を守ること。これを優先できないようではいつまで経っても半人前だ。
自業自得とはいえ、また陛下にこっぴどく叱られるのだろうなと、少し憂鬱になる。
ザブンと頭まで湯に浸かってから、両手で顔を拭いた。
ここで考えていても始まらない。
手早く洗って風呂を出た。
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「レオ様 お待たせいたしました」
身支度の終わったスイーリがサロンに姿を見せるまで、一時間も待たなかったように思う。
すぐさま立ち上がり扉の前にいるスイーリを出迎える。差し出した手に手を重ね、スイーリと窓の側の長椅子に向かった。
『スイーリ 今日はごめん 全て私の責任だ すまなかった』
スイーリを恐ろしい目に遭わせてしまった。どれだけ悔やんでも悔やみきれない。私が例外を作らずにいれば防げたことなのだ。
慌てたスイーリが両手で私の腕を掴む。
「駄目ですレオ様 頭をお上げ下さい なぜレオ様が謝るのです」
風呂の中で一人反省していたあれこれを話した。
『油断が招いたことだ ゲイル達の職務を奪い 自ら危険を招いた 一歩間違えば今私達はここにいなかったんだよ 心から反省してる』
「それならばお止めしなかった私も同じですね それに私はアレクシー兄様も救援に駆け付ければよいのにとさえ思っておりました 八番街で暴漢に遭うなど誰が予想できたでしょう」
スイーリにここまで言わせてはいけなかった。
『考えを改めるよ もう決してスイーリを危険に晒しはしない』
「はい 私も深く心に留めます 二度とレオ様を盾に守られるようなことは致しません」
どちらからともなく、ふっと緊張が切れたような笑みがこぼれた。
『スイーリ 食欲はあるか? ヤニスカフェに行けなかった代わりにブルーノの菓子はどうかな』
「はい いただきます 安心したらお腹が空いてしまいました」
スイーリが好きないちごのタルトや、いくつもの焼き菓子、サンドイッチにゼリー。呆れるほどの量が並べられていく。
甘い香りがする紅茶が注がれて、二人だけの茶会の始まりだ。
『これを食べたら送るよ 無事な姿を早く見せた方がいい』
これほどの大事件だったのだ。噂は光の速さで広まっているだろう。ダールイベックでもスイーリを案じているに違いない。
「わかりました ありがとうございます けれど」
「ゆっくりいただきますね」
満面の笑みで言われては返す言葉もない。
『うん』
その後は、スイーリの剣術の話になった。いつから気がついてたのか、なぜ言ってくれなかったのかと責め立てられた。それはもう可愛らしく。
『言った通り 初めて手に触れた時に気がついたんだよ しっかりと鍛錬しているものの手だった』
ダールイベックの令嬢なのだから、それも当たり前なのだろうと思ったんだよ。
スイーリは急に恥ずかしそうに両手をモジモジとさせ始めた。
「今も そうお感じですか?」
『いや
辞めたんだね』
そうなんだ。いつ頃からだろう、スイーリの掌が変わってきたことに気がついたのは。アレクシーが寮に入って鍛錬相手がいなくなったからか、とも考えたな。
「学園に入ってからは辞めました」
『そうだったんだね』
学園生は多忙だ。その上スイーリは家庭教師についてメルトルッカ語も学び、刺繍のためにも相当な時間を割いていたはずだ。鍛錬に回す時間など取れるわけがないよな。
「ごめんなさい 隠していたわけではなかったんです」
『謝ることではないよ むしろ嬉しいよ けれどアレクシーの名誉のためにも この話はここだけにしておく』
アレクシーは自分のことをよく"ダールイベックの三番手"と言っていた。最初は公爵、ヴィルホに次ぐ三番の意味だと思っていたんだ。でもそれでは悔しがるはずがないんだよな。体格も経験も二人には大きく及ばなかった時期だ。それでもしや、と思ったんだよ。
『スイーリ 明日は一日休め そして次の日元気な顔を見せてくれるか?』
「よろしいのですか?私は平気ですよ」
今日のことだけじゃない。スイーリ、きっと自分で感じている以上に身体は疲れているはずだよ。今無理をする必要はない。倒れてしまってからでは遅いんだ。
『連絡はしておくから気にせず休んでくれ 友人と会うなり自分のために一日使ってくれないか』
「はい ありがとうございます それでは明日は邸で過ごしますね お友達へのお手紙も書きたいと思っていたんです」
『うん』
スイーリを邸まで送り、鳶尾に戻った。物々しくハルヴァリー分隊全員が護衛についたこともあってか、道中に危険はなかった。
馬車を降りた先には、意外な男が待っていた。
「おかえりレオ スイーリは無事帰ったみたいだな」
ベンヤミンだ。私が休暇を取った午後も通常の執務をこなしていたベンヤミンは、今が帰りの時間ということらしい。
『聞いたか 騒がせて悪かったな』
「無事でよかったよ 顔見て安心した じゃーまた明日な」
『ああ また明日』
私が戻るのを待っていたんだな。先に声をかけていけばよかった。今日は何につけても気が回っていない。
ベンヤミンを見送るのを待ってロニーが近づく。
「お帰りなさいませ 騎士団の方がお待ちでございます」
『わかった すぐ行く』




