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コンコンと叩く音と共にカチャリと扉が開いた。入ってきたのはスイーリとロニーだ。
時計の針は十二時を指している。
『よし 昼飯に行こう』
ペンを置いてインク瓶に蓋をする。ベンヤミンやビル達も机の上をざっと片付けて立ち上がった。
今週からスイーリは鳶尾宮でいくつかの政務の引継ぎを始めていて、今日はロニーから使用人の雇用状況などについて説明を受けていたはずだ。今後も使用人の雇用はロニーに一任の予定だけれど、侍女の新規雇用や管理全般にはスイーリの手を借りたいと、ロニーから申し入れがあった。
食堂へと向かう途中、ベンヤミンがスイーリにコソコソと話をしている。スイーリの耳元に手を寄せている割には、私にも充分聞こえているのだけれど。
「スイーリが来てから飯の時間が正確になったんだよな」
「ふふ 今まではそんなに不規則だったのですか?」
「大抵は俺が声をかけてるんだよ それじゃないと誰も動かなくてさ なあレオ」
なんだよ、やっぱり私に当てこすっていたんじゃないか。
まあ事実だけれどな。けれど、そんなこと気がついたやつが声を掛ければ済むことじゃないのか?
ベンヤミンの腹が時間に正確ならば、ベンヤミンが皆に知らせるのが一番いいだろうに。
と、心の中で不満を言いつつその場は苦笑いでごまかした。
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『ロニー スイーリは順調か?』
一日の執務を終えて、スイーリを邸に送り届けた後の時間だ。最近ではこの時間にロニーと一日のやり取りをすることが多い。
茶を二人分用意したロニーがそれをテーブルに置いて、向かいの椅子に座った。
「はい 予定通り明後日の午前で私からの引継ぎは全て終了します」
『そうか その後は予算の話だったな』
「はい よろしくお願いいたします」
女主不在の間、私が管理していたものをいよいよスイーリに渡す時が来た。明後日の午後はそれを直接教えることになっているのだ。
のだが。
『ロニー 明後日はキャンセルする』
ここのところ休みなしで詰め込まれているスイーリは、かなり疲れているように見える。あれこれと覚えるだけでも大変なところへ、ドレスの仮縫いやら王妃殿下に同行しての活動やら、さらにこの季節は夜会も多い。王宮主催の夜会を王妃殿下と共に取り仕切ることも増えてきた。
全てスイーリがこなさなければならないことではあるけれど、たまには休ませてもやりたくなる。
『イヴィグランから連絡があったんだ 見に行ってこようと思う』
「かしこまりました 明日先方に伝えておきます ゆっくりとお出かけくださいませ」
イヴィグランはパッロヴァロアと並ぶ高級宝飾店だ。過去にも王家の宝飾を数多く手がけている店で、私達はここに結婚指輪を依頼していた。
手紙には近日中に届けると書いてあったのだが、息抜きも兼ねて訪問してこよう。
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初めて訪れたイヴィグランも、パッロヴァロアとよく似ていた。大砲の弾が飛んできても持ちこたえそうなほど頑丈な扉から一歩中に入ると、長椅子とテーブルのセットが数組。あとはカウンターが一列あるだけで、ここは本当に店なのかと不安に思われかねないほど素っ気ない。
「王太子殿下 ダールイベック様 本日はイヴィグランに足をお運びいただき 誠にありがとうございます」
恰幅のよい店主に出迎えられた。店主の後ろにも従業員が数人並んでいる。
「お二階にご用意させていただきました ご案内いたします」
階段を上り、案内された部屋に入った。やはり高級宝飾店というのはどこも同じ作りなのだなと感じる部屋だ。美しい宝石のための部屋には、豪華な飾りも色とりどりの壁紙や絵も必要ないらしい。
スイーリと並んで座る。店主は緑色の布が貼られた箱を運んできて向かいの椅子に腰を下ろした。
「こちらでございます」
蓋を開けてテーブルの上に置かれた箱の中には、同じ形の指輪が二つ並んでいる。
スイーリがイヴィグランのデザイナーと相談しながら決めたもので、指輪の側面に空色の石と紫色の石が一つずつ嵌め込まれている。
「イメージしていた通りです」
スイーリが満足そうに指輪を眺めている。
「ありがとうございます お付けになりますか?」
店主の申し出にスイーリは丁寧に断った。
「いいえ 今日は」
そこで言葉を切ると、私に向けてニコりと笑った。
茶が出てきて一息ついていたところ、階下が俄かに騒がしくなった。珍しいこともあるものだ。この店に客が来たらしい。
店主は明らかに焦った様子で、視線を彷徨わせている。
「お二人がお見えの時間に大変申し訳ございません」
『いや貸し切りではないのだから 気にしなくていい』
イヴィグランにとって大事な客だ。言うならば用の済んだ私達がさっさと帰るべきなんだ。
それにしても騒がしいな。内容までは聞こえないものの、この店を訪れる客にしては珍しい。
少しして階段を上る足音が聞こえたと思うと、部屋の入り口で待機していたゲイルが近寄ってきた。
「失礼いたします 殿下 近くで馬車の事故が遭ったと報告がありました 詳細は不明です」
『そうか』
騒がしい理由はそれだったのか。
「今しばらくこちらでお過ごしくださいませ」
『わかった』
直後再び階段を駆け上がってくる音がした。
「失礼します」と入ってきたのは店の外で待機していたはずのアレクシーだった。
「続けて馬車の事故が発生した模様です 先程の事故とこの店を挟んで反対の十字路とのこと 馬が暴れて通行人にも混乱が生じているようです」
大事故じゃないか。雪もない季節にどうしたっていうんだ。
そう足繁く訪れているわけではないが、過去に八番街で事故の場面に遭遇したことは一度もない。たまたま私の運が良かっただけなんだろうか。
『八番街では 馬車の事故がこうも頻繁に起こっているのか?』
「いいえ 私がこの店を任されてからは一度も聞いたことがございません」
店主も不思議そうに首を傾げている。やはりそうか。
そうだよな、城下の中でも特に整備が進んでいる地区だ。道幅も馬車同士がすれ違うだけの充分な幅が取られているし、雨の日でさえぬかるむ心配もない。にも拘らずこんな晴れた日、二件同時に。
店主の困惑も当然だ。
窓の外からは、走る靴音や怒鳴るような声が聞こえてきた。近づいて通りの様子を眺める。かなり混乱しているようだ。赤い騎士服の第一騎士団が数人大声で通行人に呼びかけをしている。
『ハルヴァリー卿 騎士が足りていない 応援に行けるか』
今日はヨアヒムが休暇で、ゲイル、ジェフリーとアレクシーが護衛についている。
ゲイルは即答できず、口ごもった。ゲイルは護衛騎士だ。今まさに任務の最中で、それが彼らにとって何よりも優先すべき任務であることも私は充分理解している。しかし
『人命が優先だ 第一の騎士が到着するまでの間応援に行け』
馬が暴れていると言う。一刻を争う緊急事態だ。
少なくともここでのんびりと茶を飲んでいる私達よりも、騎士の手を必要としているものがすぐ近くにいる。
僅か躊躇った後、ゲイルがアレクシーに指示を出し駆け下りていった。
「承知致しました ダールイベック卿はこの場に残れ 現場には私とコンティオーラ卿で向かう」
「承知しました」
『頼んだぞ』
参ったな。せっかくスイーリを休ませるつもりで出掛けてきたのが裏目に出てしまった。
二杯目の茶を従業員が運んできたのと同時に店主が席を立つ。
「殿下 ダールイベック様 このような場所でございますが どうぞお寛ぎ下さいませ 私共は下で待機しております」
『悪いな もうしばらく使わせてもらう』
店主が気を利かせたおかげで、その場には私達三人だけになった。
『アレクシー 楽にしてていいぞ』
「ありがとうございます」
騎士服を着ている間は騎士の姿勢を崩さないのがアレクシーだ。扉の方を向いて直立の体勢を保っている。
「怪我人が出ていなければいいのですが」
スイーリも不安そうに肩を縮めている。
『そうだな』
ここは八番街だ。被害に巻き込まれているのが親しい顔である可能性も充分にある。
でもここでスイーリと一緒になって憂いていても意味がない。
『直に収まるだろう 今王都を守っているのは貴女の兄だ 安心していいよ』
この事態はすぐにでもヴィルホに伝わるだろう。既にこちらへ向かっているかもしれない。
が、どれくらいの時間が経っただろう。ゲイルはまだ戻ってこない。通りは静かになったが事故の様子はわからない。
『店を出ようか 近くのカフェにでも移ろう』
「そうですね ここからならヤニスカフェさんが近いかしら」
ヤニスカフェ、この通り沿いの僅か数軒先だったはずだ。
階段を降りると、数人が接客を受けているところだった。客も来てはいたんだな。
奥から慌てた店主が飛び出してきて、扉まで先導された。
「慌ただしいお見送りとなり申し訳ございません お品は後程お届けに上がらせていただきます」
『こちらこそすっかり長居してしまったね 素晴らしい品をありがとう』
「ありがとうございます 失礼いたしますね」
無事指輪の完成も確認して、スイーリも嬉しそうだ。心なしか宮を出る前よりも顔色がよくなったようにすら見える。
『よし 行こうか』
スイーリに腕を貸して、通りに出た。




