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「とうとう着いたなー あれがメルトルッカの港か!」
明るい青空の下、遠くに陸地が見えてきた。私達は今甲板に出て、その陸地に向かって大騒ぎしているところだ。
そんな私達とは対称的に、あのレノーイが声もなく船の向かう先を見つめている。
なんだかいつものレノーイとはまるで違って、その横顔は少し寂しそうにも悲しそうにも見えた。一度だけこんなレノーイを見たことがあったような気がする。いつだっただろう。
『後悔しているのか?レノーイ』
戻って来たことへの後悔なのか、それとも帰国がこれほど遅くなったことへの後悔なのか。理由は私にはわからないけれど、なぜか今のレノーイはそんな風に見える。
ゆっくりと振り返ったレノーイは、よく知る笑顔を浮かべた。
「いいえレオ様 この国も豊かになったと感慨に耽っておりました 私が旅立ったときの港はそれは小さかったですから」
『そうか』
再び目線を前に戻すとレノーイは続けた。
〈この国が私を再び迎え入れてくれるだろうかと考えておりました〉
《何故そう思う ここはあなたの祖国ではないか あなたは祖国を棄てたわけではないだろう?》
レノーイが語って聞かせるメルトルッカは、いつだって魅力に溢れていた。語学以上の知識を望んだのはレノーイの言葉に惹かれたからだろうし、留学先に決めたのもレノーイの影響だったと思っている。
そんな風に祖国を愛する人間を、メルトルッカが退けるはずはない。
〈そうですな 考えすぎでございましたか〉
《うん レノーイは長年ステファンマルクでメルトルッカの文化普及に努めてきた人物だ 万が一非難するものでもいようものなら私が盾になる》
「ほっほっ 頼もしい盾を手に入れましたぞ」
『ああ 自分でもそこそこ丈夫で頼りになる盾だと思う 使われずに済むことの方が嬉しいけどな』
そこで思い出した。
レノーイはメルトルッカに到着後、どうする予定なのだろう。今まで何度もはぐらかされて聞けずじまいだったのだ。
「レオ様 私はもう一度旅に出ようと思っております」
『旅に?』
ステファンマルクへ渡る前、彼は数年かけて自国を見て回ったと言っていた。
「ええ レオ様のご婚礼までには必ず戻ります故 どうかご心配なさらずに」
いや戻るって・・・メルトルッカがレノーイの祖国じゃないか。もう一度ステファンマルクに戻るつもりなのか?
戻って来てくれるのか?
「そのように驚かれるとは思いませんでしたぞ もうレオ様にこの年寄りは不要でございますかな?」
言葉とは真逆の表情をしたレノーイが悪戯っぽく笑っている。私のよく知るレノーイの顔だ。
『うん驚いたよレノーイ 本音を言うととても嬉しい ありがとう』
レノーイの言葉遊びにつき合う余裕はなかった。直に船は港に着く。言いたいことは素直に伝えておかなければいけないと。
「ではお約束のついでにひとつお願い事をば 聞いて頂けますかな」
『うん』
「レオ様の宮に私めの部屋を頂戴いたしたく どうでしょう?」
『喜んで用意する』
「ありがとうございます 本宮にいただいていた部屋はすっかり片付けておきましたゆえ 荷物を運ぶだけになっております」
『えっ?』
物で溢れかえっていたレノーイの部屋が、訪れる度片付いていたのは気がついていたさ。てっきり荷物を整理して帰国するためだと思っていたんだ。
「さみしかったのでございますよ レオ様はさっさとご自分の宮に移ってしまわれますし 私めには一向にお声がかからない もう用済みなのかとそれは悲しく―」
湿っぽくなりかけていたのが噓のように笑った。レノーイはこういう人間だ。私ではまだまだ到底敵わない。
『荷物を運び入れるよう言っておくよ 私達より先に戻ってもいいように片付けておくさ』
最後にレノーイも笑った。いい別れができそうだ。
船が到着すると、レノーイはひっそりと降りていった。ふらっと街にでも寄るかのように小さな鞄ひとつで。
「ではレオ様 私めは一足先に行かせてもらいます どうぞお励み下さいませ 再会を楽しみにしておりますぞ」
『レノーイも気を付けて よい旅を』
港には数えきれないほどの馬車が並んでいた。手前には朱に塗られた雅な馬車が十台ほど、その奥には荷馬車が整然と続いている。
貿易船の到着とかち合ったのだろうかとも思ったが、どうやら違うらしい。
「レオ様 メルトルッカ国王が迎えの馬車をご用意下さっております 早速王宮へ向かってよろしいですか?」
出迎えに来ていた使いのものに応対しているのはエディだ。エディの隣でその使いの男が頭を下げている。
《出迎え感謝します 私がレオ=ステファンマルク この度貴国へ留学に参りました》
「遠路お越し下さり誠に感謝申し上げます メルトルッカは皆様のご到着を心より歓迎いたします」
流暢なステファンマルク語が返ってきた。
「最初に皆様にご滞在いただく宮へご案内いたします」
我々全員が充分に乗れるだけの朱塗りの馬車が用意されていることに、メルトルッカの並々ならぬ歓迎ぶりが感じられた。後に続く荷馬車は全て、私達が乗ってきた船の荷を運ぶために用意したのだと言うからさらに驚きだ。全ての荷を積んでも半分は空のまま帰ることになるだろう、と言ったらその荷馬車の数が想像できるだろうか。
「荷物は責任を持って運ばせていただきます 先に参りましょう」
先頭の馬車へと案内される。スイーリとベンヤミン、ビルと共にその馬車に乗り込んだ。
「ここからは一時間ほどで到着致します 道中の要所では車内から案内をさせていただきましょう」
『感謝します』
その前にスイーリ達を紹介しなくては。
《私と共に留学する三名を紹介します
彼女はスイーリ=ダールイベック 私の婚約者でもあります》
スイーリが会釈をしてから改めて名乗った。
〈スイーリ=ダールイベックと申します 留学を心待ちにしておりました〉
〈ダールイベック様 お名前は甥より伺っておりました ようこそメルトルッカへ〉
えっと・・・尋ねたいところだけれど、今は紹介が先だ。
《続いてベンヤミン=ノシュール ヴィルヘルム=ハパラ・リンドフォーシュです》
二人がそれぞれ名乗り、握手を交わした。
〈ご紹介ありがとうございました 申し遅れましたが私はベンハミン=フェヒール・イサと申します ノシュール様と同じ名前でございますね〉
フェヒール、やはり彼は王族だ。
目が合うと彼はニコリと笑った。
〈殿下はお気づきのようですね フェヒールは王家に連なるものの名前でございます 我々一族は祖父の代より傍系はフェヒール・イサ 直系のみフェヒール・ウーツと名乗っております〉
メルトルッカはクーデター後、大きく変わったと聞く。クーデターについては多くを語らなかったレノーイから教えられた数少ないことのひとつが王族の名だった。倒れた王がメルトルッカ姓を名乗った最後の代で、以降はフェヒールに改姓したのだと。
〈王宮に到着致しました この度ご用意させていただきました宮は水晶宮と呼ばれる宮でございます お気に召していただけるとよいのですが〉
巨大な門をくぐり抜けて、間違いなく王宮の中に入ったようなのだが、窓から見る景色は私の知る王宮とは大きく異なっていた。まるで町の中を走っているようだ。
全く同じ形をした家がぎっしりと並んでいる様子は、どこか下町のような雰囲気すら感じた。
〈この辺りは下級役人の住まいでございます〉
成程。役人は王宮内に居住を認められているのか。住まいの規模から考えてこの辺りは貴族籍のものではないようだ。
再び門が見えてきた。先程の武骨で巨大な門とは違って、彫刻の施されたそれは、朱色に塗られている。
〈この門の先 左に宮がございます 右は政務に使われております〉
メルトルッカの王宮は住まいと政務の場が明確に分かれているらしい。
手前からクラウドの宮、王太子殿下の宮、そして最深の国王が暮らす宮まで馬車は進んで行った。
〈到着致しました こちらが水晶宮でございます〉




