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王都に戻って二日目の朝、ようやく執務室に向かうことができた。
埃ひとつなく掃除が行き届いた室内は変わらず心地よく、私室の次に心落ち着く場所だ。
今朝は執務室の上に花まで飾られていた。侍女の誰かが置いたのだろう。 直接言葉は交わさなくても、こうしたさりげない労いを有難く思う。
が、山積みになっている手紙を見て現実に引き戻された。まずはこれを全て開かなくては。
視察に出ていたことを知らぬものはいない。この手紙の中に急ぎの用件がないことはわかっている。ひとつずつじっくり開けていくとするか。
と、その時部屋の隅に布が掛けられた箱があることに気がついた。
そうだった、コルペラ卿が送ってきた例の箱だな。
近づいて布をめくってみる。丁寧に土をほろってはあるものの薄汚れた木箱だ。
ビルが不思議そうに首をかしげている。ビルにはこの話をまだしていないからな。
「レオ様 こちらは?」
『コルペラ卿が送ってきたものだろう 工場の敷地内から見つかったそうだ』
しまったな、ヨアヒムはひと月以上休暇で不在だ。今開けてもいいが、立ち会うよう頼んでしまったからな。
気にはなるものの、ここまで来たらひと月くらい延びても変わらない。彼らが復帰してから開けることにしよう。
『ビョルケイ元男爵が埋めたものらしいんだ マッケーラ卿らが復帰してから開けようと思う しばらくこのまま置いておくことにしよう』
「かしこまりました」
ビルの視線が何度も箱に向かっている。だよな、気になるよな。
なんとか好奇心を隅に追いやり、予定通り手紙を捌いていく。
半分ほど読み終えて返事を認めた頃、本宮から新たな手紙が届けられた。なんだよ、さっきまで積んでいたのと同じくらいの量じゃないか。
少しうんざりしながら、新たに届いた手紙に手を伸ばす。
果たしてエディが予言していた通り、新しい山の中には早速従者の打診が二通あった。
いや違うな。従者の打診には違いないが、どちらも視察の同行者ではない。もう一度名前を確認する。
二通とも右の箱に入れて、次の手紙を手に取った。
今届いた手紙を全て読み終える頃、ロニーが箱の中身を受け取りに来た。右の箱に入ったものはロニーが処理してくれる。
「本日本宮へは行かれますか?」
陛下が王都を空けられるのは約二十年ぶりのことだ。念入りに準備をおすすめになったに違いなく、緊急の案件を残したままとは考えられない。しかも明後日にはお戻りになるのだ。
『いや 移動の時間が惜しいからな 急ぐ用事があれば向こうから来るだろうさ』
「承知しました」
ロニーも予想通りの返答だったようで、何事もなかったように自分の執務机へと戻っていく。
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「レオ様 ダールイベック家の馬車が到着致しました」
『しまった もうそんな時間か』
まとめかけの書類と時計を交互に見る。
散らばる資料を手早く集めて、箱の中に放り入れた。
『ロニー これを私室に置いておいてくれないか』
じっと見ていなければわからないほど僅かな時間躊躇うそぶりを見せたものの、「承知致しました」とロニーは箱を持ち上げた。
急いでサロンへ向かう途中、廊下の反対側から近づいてくるスイーリが見えた。
「こんばんは レオ様」
『来てくれてありがとう スイーリ』
紫のレースがあしらわれたレモン色のドレスに身を包んだスイーリの首元には、キラキラと輝く紫色の石が並んでいる。先日の晩餐の時にも身につけていたネックレスだ。耳元にも同じ石が煌めいていて、何とも言えない満足感が込み上げてくる。
サロンに入ると、スイーリは真っ直ぐにサイドテーブルへ向かった。
「レオ様 今日もご用意して構いませんか?」
『ありがとう 是非お願いします』
私の返答にふふ、と笑うとスイーリはポットの用意を始めた。
~これは、昨日二人で鳶尾宮に戻って来た時のことだ。
一息入れようとサロンに来た。
侍女達が慣れた手つきで茶の準備を始めたところ、スイーリが立ち上がった。
「レオ様 今日の一杯目は私に用意させていただけませんか?」
スイーリに茶を淹れてもらうのは初めてのことではなかったけれど、少し意外で驚いた。でもそれはもちろん嬉しい驚きだ。
『ありがとう 嬉しいよ』
茶具の前にいた侍女と場所を替わると、スイーリの侍女が包みを持って近づいた。わざわざ茶葉を用意してきてくれたのか。彼女が特別に気に入ってるものを用意してくれたに違いないと、それだけで気持ちが温かくなる。
二人の様子を見守っていると、見慣れないものが次々と並べられていった。
スイーリの侍女が、取り出した道具にポットの湯をかけている。その間にスイーリは持参したポットに沸きたての湯を注いでいく。邸でもこうして淹れているのだろうとわかる手際のよさだ。それにしても珍しい形のポットだ。注ぎ口が細くて長い。
スプーンで箱から茶葉を一杯、二杯。
そこにポットの湯を少しだけ注いだ。
『コーヒー?』
たちまち部屋中を包んだその独特の香りに驚いた。一度ポットを置いたスイーリがニッコリと頷く。
「はい たくさん練習しまして ようやくレオ様に飲んでいただく自信がつきました 楽しみにお待ちくださいね」
再びポットを持ち上げると、コーヒーの上にそろそろと湯を注いでいく。そうして二杯分のコーヒーを淹れると、彼女自ら運んできてくれた。
「お待たせいたしました」
コトりと置かれたカップから、香しい香りが漂う。
『いただきます』
こくりと一口飲むと、口いっぱいに爽やかなコーヒー独特の甘みが広がった。コクがあってしつこくもなくとても好きな味だ。
『旨い』
もう一口、今度はごくりとカップの半分近く一気に飲んだ。
『ありがとうスイーリ とても旨いよ びっくりした』
ニコニコと私の様子を見守っていたスイーリが、嬉しそうに笑った。
「よかった レオ様がお好きな味を研究したのですよ ふふ 成功ですね」
その後彼女に話を聞いて、私はさらに驚くことになる。
私がコーヒーを飲むのは八番街にある一軒のカフェだけだ。
スイーリはそのカフェに何度も通い、その味に近いコーヒー豆を探したのだと、さらりと言った。
口で言うのは簡単だけれど、それがどれだけ時間のかかることかは私でもわかる。
邸のものがノシュールの港で手に入る全ての豆を買って来て、それを一つずつ飲んで確かめたと言うのだから、彼女のその研究熱心さには何度でも頭が下がる思いだ。
店のものに尋ねれば、容易に教えてくれただろう。頼めば豆を分けてもらうことも出来たはずだ。
いや、そんなことを言うのは無粋だな。
スイーリが選んで淹れてくれたコーヒーは、今まで飲んだ何よりも旨かった。
そして今夜もスイーリが手ずから淹れたコーヒーを、二人で愉しむ。
『何度飲んでも驚くな 手紙には一度も書いてくれなかったじゃないか』
驚いたことはもう一つ。スイーリも私と同じコーヒーを飲んでいるのだ。コーヒーでも紅茶でも、いつもたっぷりとミルクを注いだものが好きなスイーリなのにと、不思議だった。
「練習で淹れたコーヒーを飲んでいるうちに 好きになってしまいまして」
自分でも驚いていると笑っているところを見ると、無理をしているわけではないようだと安心した。
「昨日の続きをお聞かせくださいませんか それから今日こそはトナカイのお肉の話をおしえてくださいね」




