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まだ一面の銀世界ではあるものの、季節は着々と春に向けて進んでいる。随分と陽が長くなってきたし、陽射しにも少しずつ強さが感じられるようになった。
サラサラとしていた雪が、シャリシャリとざらつき重たくなってくるのも春が近い証拠だ。雪に反射した光が眩しい。
そんな春が近い裏庭の一本道を抜けて、本宮から鳶尾へと歩いている。本宮での会議を終えて戻るところだ。
視察の出発まで2週間を切った。準備もすっかり整い、ここ数日は初めてと言っていいほどのんびりとした日々を送っている。
ベンヤミンは本宮での研修を続けている。年が明けてからはめっきり会う機会も減ったが、それもあと数日で終わる。出発までの数日間、また私の執務室は騒がしくなるのだろう。
そして―
ベンヤミンが鳶尾へ戻って来るのとほぼ同じ頃、もう一人の友人がステファンマルクへやってくる。
「これが本当に本当の最後の手紙」という書き出しの手紙が届いたのが2月の終わり頃だっただろうか。その手紙には研修に参加する職人を始めとして、全ての同行者の名が記されていた。そのうち同行の護衛騎士は数日の後に帰国させるのだと言う。一人の騎士を除いて。
「王女殿下のお付きは騎士と侍女 それぞれお一人ずつなのでございますか」
『そのようだな』
研修留学とは言っても一国の王女なのだ。護衛はともかく侍女は慣れた者を複数連れてきて構わないと言うのに。
『専科に来ていたフレッドは相当な人数を連れて来ていたのにな』
フレッドこそ、そんなに連れてくる必要なんてなかったんだよ。寮で暮らしていて平日は学園の外にすら出ることもなかったのだからさ。
ロニーがクツクツと笑っている。ほら、ロニーだって同じことを思ってるじゃないか。
『まあそれだけ強い決意を持ってやって来るということなんだろうな』
「そのようでございますね」
研修地であるコルテラ領へは、私達の視察最初の目的地であるウトリオ領を経由して向かうことになるため、そこまでは同行することになった。
実際に職人達が研修に入る工房を見学し、手掛ける品を見たいと言うジェネットたっての希望だった。
幸いなことに、研修先の領地までの案内人も確保済だ。
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「レオ王太子殿下 この度のグリコス研修生受け入れを快諾いただき 誠に感謝申し上げます」
友人との再会の場は、謁見室ではなく小さなホールに設けた。
『ステファンマルクはグリコスの一行を歓迎する 今回の受け入れが両国の友好国締結へ向けて一翼を担うことになれば幸いだ』
久しぶりに再会した友人は、髪を小さく結い、白いフリルのついた立ち襟に明るいグレーの落ち着いたドレスを身につけていた。華やかな装飾は一切なく、唯一の飾りは襟の上から巻いているベージュのスカーフ一つだと言うのに、その姿は気品に溢れ彼女を大変美しく見せている。
叙任式で訪れていた際は、血のような赤い口紅を塗っていた唇も、今はほんのりと赤みがさす程度の柔らかなピンク色を選んでいて、これが本来の彼女だったのかと少しだけ不思議な感じがした。
目元の感じも和らいだな。
皆驚くだろうな。
叙任式前後のジェネットの言動は、数多くの貴族が目撃している。が、そんなことは彼女自身が百も承知だろう。それを跳ね除ける力が彼女にはある。
『堅苦しいことは抜きにして まずは再会を喜ばないか?何人か紹介したいものもいる ゆっくり話そう』
再会をこの場所にしたのは、ざっくばらんな非公式の場にしたかったからだ。謁見室ではそういうわけにはいかないからな。
全員に茶が行き渡ったところで紹介を始める。
『右から順に紹介する 彼はエイラー=クランツ卿 わが国のグリコス担当官だ』
名を呼ばれたクランツ卿が会釈の後、改めて名乗った。
『その隣はベンヤミン=ノシュール卿 私の補佐をしている官僚だ』
「お久しぶりでございます ジェネット殿下 ご到着を心待ちにしておりました」
ベンヤミンの顔に覚えがあるのか、ジェネットの視線もさらに和らいだ。
『次はトルスティ=コルテラ卿 職人達を受け入れるコルテラ領のものだ 今回領地まで同行することになっている』
「ご挨拶申し上げます この度は我が領をお選びいただきましたこと 大変光栄でございます 道中の案内はお任せ下さい」
続いてジェネットの紹介の番、というところで彼女が口を開いた。
「自己紹介させていただいても?」
『頼む』
一度私の顔を見てニコりと笑ってから、彼女は話し始めた。
「皆さんご紹介ありがとう グリコスのために多くの方が力添えして下さることを有難く思います
私はジェネット=ダンメルス この度グリコス初の一代公爵となり王家から独立しました
生涯をグリコスの発展とステファンマルクとの友好のために尽くすつもりです
レオ殿下のお力添えなしでは今の私は存在していませんでした 感謝の気持ちはグリコスが成長することでこそお返しできると信じています たくさんのことを学ばせて下さい よろしくお願いします」
そう言って静かに頭を下げた彼女のことを、しばらくの間誰もが唖然として見つめていた。私もだ。
なかなか頭を上げようとしない彼女の目元が、キラリと光ったように見えた。
『おめでとう!ダンメルス公爵』
手紙の中で不自然なまでに振れられていなかった彼女の近況が、ようやくわかった。直接会って話したいと何度も何度も書かれていた事柄も。
降嫁ではなく独立という形を自ら選んだんだな。あなたが叶えたかった夢はここから始まるのだな。
その場が温かい拍手に包まれる。
何度か目じりを押さえながらも、ジェネットは微笑みを返した。
「ありがとうレオ殿下 どうしてもこの話だけは直接お会いして伝えたかったの ダンメルスという新しい姓を口にしたのは今が初めてよ 声に出したら消えてなくなってしまうのではないかと ずっと信じたいのに信じられない気持ちだったの ようやくダンメルスになったのだと実感が湧いてきたわ」
「おめでとうございますダンメルス公爵」「ダンメルス公爵」
皆が口々にその名を呼ぶ。何度も彼女は笑みを浮かべながら頷き返した。




