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「おはようございます」
『おはようベンヤミン』
新たな一日の始まりだ。
ベンヤミンが眺めていた窓から中庭を見る。黄葉もとうに終わり、庭師達の手によって冬支度を済ませたバラの木々には薄柔らかな朝日が降り注いでいる。
いつも通りの朝だ。昨夜の煌びやかな宴の余韻はどこにも残っていない。
ベンヤミンと共に執務室へ入る。
今日の午後には会談がある。まずはその準備からだ。
「いい夜会だったな アレクシーはどうだ?今朝は鍛錬できたのか?」
『ああ 眠そうにしていたけれどな 時間通り迎えに来たよ』
「本当か!」
偉い偉いと言いながら手を叩いている。
グリコスの使節団も招いた夜会は恙なく終わった。
本宮で開催されるそれと遜色のない、ステファンマルクらしさを前面に出した華やかな夜だった。
国王夫妻不参加であるにも関わらず、国の重鎮である両公爵から、下は本科を卒業したての同級生まで、幅広い年代のものが集い、各々が目的のための交流に勤しんでいた。
「レオの従者希望だろう?何人も声がかかっていたな」
『そうだったな』
それも無下に出来ぬ話ではあるが、今は他に優先すべきことがある。
「まあ今はグリコスが先か」
『そういうことだ』
そこへ扉を叩く音が響いた。
『おはようクランツ卿』
「おはようございます ご指示頂いた書面がご用意出来ました ご確認お願い致します」
手渡された二枚の紙に目を通す。二枚は完全に同じ内容だ。
外交担当の部署で作成されたものだ。内容にも問題はない。
『ありがとう これを取り交わす』
一枚をベンヤミン、もう一枚をロニーに手渡した。ロニーはビルと共に内容を確認している。
「十四時開始でございます」
『わかった』
昨夜の夜会の最中、グリコスの大使から会談の申し出があったのだ。ステファンマルクからの条件として文官八名を含む十二名全員の参加を要求し、話はまとまった。
ベンヤミンとロニーが読み終えた書面をクランツ卿へ返す。
「ありがとうございます 確認しました」
「では一度本宮へ戻ります 彼らもそろそろ着いている頃でしょう」
『案内を頼む クランツ卿』
「お任せ下さいませ」
この後クランツ卿は、大使らの王宮見学に同行することになっている。視察団と言うからには存分に視察してもらわなければな。
~~~
本宮から今日の会談に出席する官僚が続々とやってきた。
外交部からは統括官であるシモン=バックルンド卿を筆頭に、ベーレング担当官のマトゥーシュ=コビルカ卿とボリス=シュレーグル卿、そして事務官が三名。
宰相を務めるノシュール公爵の筆頭補佐官ディデリーク=スレン卿と、その事務官が五名。
そこにクランツ卿とベンヤミンも加わえて、ステファンマルク側の参加者は総勢十五名にも膨れ上がった。
会談は、自ら名乗り出たバックルンド卿による進行で進められる予定だ。
クランツ卿に率いられたグリコス一行が到着した。
想定外の人数に驚いたようで、小さなざわめきが起こっている。謁見時といい、良くも悪くも彼らは公式の場というものに不慣れなのだと感じる。経験の浅い私ですらそう思うのだから、ベテランのバックルンド卿やコビルカ卿の目にはさぞかし滑稽に映っていることだろう。年齢が年齢なだけに、そのちぐはぐさが非常に目立つ。
「どうぞお座りください 殿下も既にお待ちでございます」
クランツ卿に急かされ、ようやく慌てたように動き出した一行。私の正面で大使のフィッセル卿が椅子を引く。
「王太子殿下 お待たせしてしまいました」
『構いません 今日は王宮を見て回ったとか ご満足頂けましたか?』
「はい それはもう~」
暑くもないはずなのに、大使はハンカチで額を抑えている。
私の隣の席についたクランツ卿が、会話の続きを受け持った。
「本日は様々な施設をご視察頂きました 王宮内で牛が飼われていることには皆さん驚かれておりましたね」
「これも広大な敷地を所有するステファンマルクの王宮ならではと 感心致しました」
当たり障りのない話題にほっとしたのか、グリコスの面々の表情は柔らかい。そこへ両者の中央に座る、進行役のバックルンド卿がいきなり切り込んだ。
「農作物は近郊の直轄地から毎日新鮮なものが届きます 食に関しては充分ご安心頂いて結構です」
話の意図が読めず困惑している様子の大使に対し、バックルンド卿は笑顔で続けた。
「グリコスの王族がご留学なさるのですからね 貴国の大切な王女殿下がお暮しになる地故 念入りに下調べしたい気持ちも理解しています」
「研修生というお立場でございますので 国賓と同等というわけには参りませんが 我々と変わらぬ待遇はご用意するとご理解いただければ結構です」
補足するように続けたのはクランツ卿だ。
クランツ卿が話し終える頃になると、彼らは一斉に青い顔をして狼狽え始めた。
「さて 雑談はこのくらいにしましょう 殿下 開始の宣言をお願いしてもよろしいでしょうか」
頷いて全体を見回す。ステファンマルク側は私から順に、グリコス担当官のクランツ卿、ベーレング担当の二人の担当官、事務員を挟んでその奥に宰相の筆頭補佐官、ベンヤミン、そして事務官だ。
対するグリコスは、大使から続く三名が「爺さん」とベンヤミンが呼ぶ老齢の使節、その後は若手の文官が並ぶ。
『ステファンマルク・グリコスの第一回会談を始める』
直後咳き込む声が聞こえた。どうせベンヤミンだろう。なんだよ、こんな時長々と話す必要などないだろう?早く本題に入るのが一番いいんだ。
進行役による出席者の紹介が始まろうかというタイミングで、大使が小さく手を上げた。
「あ あのう」
背中を丸め、上目遣いに私とバックルンド卿、そしてクランツ卿へと目まぐるしく視線を移す。
「どうなさいましたか?」
「先程のお話しは一体―」
「さきほど?」
バックルンド卿がゆっくりと反復する。
目じりの皺に温厚な性格がにじみ出ているバックルンド卿は、官僚の中でも特に人当たりのよい人物だ。その温厚な卿が穏やかに相対しているというのに、グリコスの爺さんたちはまるで蛇に睨まれた蛙だ。手を何度も組み替えたり、瞬きを繰り返したりと忙しい。
「王女殿下のご留学というお話しは その・・・
恥を忍んで申し上げますと 初耳でございまして
・・・その どなたからの情報なのでございましょう」
両手を広げ、大袈裟に肩を竦めてみせたバックルンド卿は同情するかのような視線を向けた。
「これは失礼 今回の視察はてっきり下調べも兼ねているのだと思い込んでおりました 非公表とはつゆ知らず申し訳ない」
詫びの言葉を口にしているというのに、指を組み微笑むその姿はなんとも威圧感がある。
「ステファンマルクは今回の使節団大使も ジェネット殿下がお務めになるものとばかり思っておりましたのでね 事前の準備も殿下を想定して進めておったのですよ」
「あの それでどなたからそのお話をお聞きになったのでございましょう」
バックルンド卿が一度私に目配せをしてから、再び話し始めた。
「質問返しになりますが 大使は我が国の王太子殿下と貴国の第一王女殿下が 友人関係にあるということはご存知ですか?」
「なんと!」「ジェネット様が?」「何故?」
彼らのこの態度にももう慣れてきた。四人の爺さんが互いの顔を見ては首を横に振ったり、傾げてみたりしている。文官は文官でひそひそと話し出す始末だ。
「どうやらご存知なかったようですね 王女殿下から我が国の王太子殿下へ宛てられた手紙には 王女自ら大使に志願した旨も記載されていたようですが この度フィッセル卿が大使に任命された経緯をお伺いしても?」
握りしめたままのハンカチで何度も額を抑えるばかりで、待てども返答は返ってこない。どうした?病で臥せっているからではなかったのか?
大使の二つ隣の席に座っている爺さんが代わりに手を上げた。
「私から申し上げます 使節団大使を務めるフィッセル卿は 間もなくジェネット殿下とご親戚になられる予定でございまして 今回の大使に最もふさわしいと王自ら選出された次第でございます」
暫くの間沈黙が流れた。きっとステファンマルク側の頭の中にあるものは皆同じだ。
不自然なほどの笑みを浮かべたバックルンド卿が、ようやく返事を返す。
「そうでしたか 大使のお孫さんがジェネット殿下のご婚約者でしたか」
大使はいい加減額がすり減るのではないかと案じたくなるほど、いつまでもハンカチで拭い続けている。
「明日以降も本日ご紹介しきれなかった施設をご案内致します どうぞお身内の厳しい目でご視察くださいませ さて そろそろ本題に入った方がよろしいのでは?」
クランツ卿がこの話題の終了を告げる。
本題に入ったところで、今更グリコスに要望を通す気力など残ってはいなかった。
ベーレングの担当官が二人も目を光らせているのだ。軍事支援など口に出来るはずもない。
国王の用意した書簡にあった要望は全て却下、ジェネット殿下の承認がある場合のみ職人の受け入れをするという、作成済みの契約書に出席者すべてのサインを入れてこの会談は終了した。




