[323]
「この度の視察に随行をお許し頂きありがとうございました 良い経験を積ませて頂けました」
馬車の前でベンヤミンが深々と頭を下げた。
「ってことでレオ スイーリまたな 次はベーン邸で会おうぜ」
『ゆっくり休めよ』
「そのまま返すぜレオ レオこそちゃんと休めよ」
ソフィアとベンヤミンが馬車に乗り込んだ。
「ソフィア今日は来てくれてありがとう ベンヤミンを頼む」
「かしこまりました おやすみなさいレオ様 スイーリ様」
『おやすみ』「おやすみなさいソフィア様」
二人を見送った後、スイーリを連れて馬車に向かった。
「お疲れですのにお送りありがとうございます」
『疲れているように見える?』
スイーリの顔を覗き込むと、ニコリと笑ってくれた。
「ふふ 見えないとお答えしても?」
『ああ勿論だ スイーリのおかげだよ』
今日会えるとは思っていなかったからな。どれだけ嬉しかったか、二人きりならもっと伝えることができるのに。
もう少し引き留めたいけれどいい時間だ。
『送る 行こうか』
歩き出したその時、そっと袖を引かれた。
「もう少しだけ あと少しだけご一緒しても構いませんか?」
足を止め、引いた袖先を見つめている。スイーリがこんなことをするのは珍しい。抑えていた愛おしさが破裂しそうだ。今すぐ抱きしめたいのに。そうするにはここは人が多すぎる。
『ああ 私ももっとスイーリといたかった』
くるりと向きを変えて、来た道を戻る。
『庭でいい?寒くはないか?』
八月の終わり、季節はもう次へと移り始めている。日が暮れる時間もだんだんと早くなり、この時間はもう完全に夜だ。
「はい 寒くありません」
宮を半周して裏庭に出る。ランプを一つ受け取って東屋へ向かった。池の周りでは早くも秋の虫が賑やかに歌っている。ここならば話し声が聞かれることはないだろう。
足元にランプを置き、並んで座った。
『会いたかった 今日会えて嬉しかったよスイーリ』
「私も早くお会いしたくて 毎日カレンダーに印をつけていました」
スイーリの仕草の一つ一つ、紡がれる言葉一言一言が愛おしかった。
膝の上に行儀よく乗せられている手に、そっと自分の手を重ねる。ランプの灯りがキラリと反射した。
「レオ様 どんな風にお過ごしだったのか 視察のお話しをもっと聞かせて頂けませんか?」
『うん 私もスイーリがどんな休暇を過ごしていたのか もっと聞かせてほしい』
「それでは交互に話しましょうか」
『わかった それでは最初に話すよ』
離れていた三週間の間の出来事を順に話した。私からは漁師町の話題が中心だ。海岸の様子、町の建物の話、教会とその牧師のこと―教会を訪問した後はクタクタになり、アレクシーやベンヤミンと海を見に行った話もした。それから工場のことも。
「楽しい方が沢山いらっしゃる工場なのですね 私も行ってみたくなりました」
『うん いつか必ず連れて行くよ スイーリも気に入るはずだ』
「はい きっと連れて行って下さいね」
次にあの町を訪れる時、町はどのような姿になっているだろうか。そこで暮らす人々は今日と変わらずにいるだろうか。約束する、それを二人で確かめに行こう。
『八番街はそんなに混んでいたのか』
「はい 普段の何倍も人が多くてびっくりしました」
祝祭の後、地方へ戻る前に王都を楽しんで行った貴族達で、八番街は大変な賑わいだったらしい。
「どちらのカフェも 大勢のお客様でなかなか入れませんでした でもあのお庭のカフェはいつもと変わらず静かで心地よかったのですよ」
スイーリとソフィアが見つけたホットビスケットのカフェだ。通りから見ただけでは気がつかずに素通りしてしまうだろうからな。王都の民だけが知る穴場、と言ったところのようだ。
『八番街はまだ混みあっている?』
「先日ソフィア様とヘルミ様とお会いした時は 普段と変わらない人出でした もう多くの方が領地にお戻りになったのかもしれません」
『そうか ひと月になるものな』
『スイーリの休暇が終わる前に一度行こうか』
「はい!是非」
『いつにしようか 合わせるよ』
「私はいつでも大丈夫です レオ様のご都合は?」
その時ある顔がよぎった。
『うん―
明日になればわかるはずだ 返事は茶会の時でもいいか?』
「はい・・・?」
少しだけ不思議そうな顔をするスイーリに慌てて説明をした。
『ああ!アレクシーが休暇の日にしようと思って』
「兄様の ですか?」
スイーリの眉間に、ほんの一瞬しわが寄りかけたのは見間違いではないはずだ。
『ついてこられるのは嫌だろう?』
「あっ」と口元を両手で覆い、照れ笑いのような笑みを浮かべている。
「はい そうですよね つい忘れていました」
『そのうちスイーリも慣れるよ でも今はまだ私も抵抗がある』
苦笑いを浮かべると、コクコクとスイーリは何度も頷いた。
アレクシーが専任騎士になり約一ヵ月。今はもうそれにも慣れたが、スイーリとの時間となると話は別だ。
『どこに行こうか 行きたい場所を考えておいて』
「はい レオ様と八番街へ行くのは久しぶりですね どこにしようかしら迷うわ」
真剣に考えこむスイーリの横顔を眺めていた。足元を照らすランプの光はここまでは届いていない。仄暗いはずの東屋の中で、スイーリの瞳だけが輝いていた。
『一軒寄りたい店があるんだ 付き合ってほしい』
「はい 勿論です どちらですか?』
『パッロヴァロアに行こう』
「えっ―」
パッロヴァロアは王都で一、二を争う高級宝飾店だ。間違いなくダールイベックも贔屓にしている店の一つだろう。
『土産らしい土産も用意できなかったからな 何か贈らせてくれないか』
スイーリはまだ成年には達していないけれど、私の正式な婚約者、この国の王太子妃になる令嬢だ。クーレンミッキの可愛らしいアクセサリーも勿論まだ似合うが、パッロヴァロアの重厚なデザインさえ充分に使いこなすことだろう。
スイーリが希望した肖像画はまだ完成には程遠いだろうからな。何の礼だかわからぬほど時間が過ぎる前に、感謝の気持ちを形にして伝えたかったんだ。
「ありがとうございます 相応しい服装を用意致しますね」
『スイーリのドレスはいつだって相応しいさ 好きなドレスを着ておいで』
嬉しそうに微笑む顔を見て、すっかり心は満たされた。
頬に手を寄せ、そのまま触れるだけの口づけを落とした。
『遅くなったな そろそろ送ろう』
ランプを持って立ち上がった。
「レオ様 その・・・暗いので手を繋いでも構いませんか?」
スイーリがどこか恥じらうように上目遣いで右手を差しだしてきた。
『ああ!気がつかなくて済まなかったね』
ランプを右手に持ち替えて左手を差しだす。するとスイーリは指を絡ませてそれをキュッと握った。
暗がりでもわかる真っ赤な顔をしている。
「こうして繋いでみたかったんです」
何年経っても初々しくて、夜会の時はあんなにも堂々と威厳すら備わっていたというのに、こうしてまた私を夢中にさせるんだね。
今夜は抱きしめたい気持ちを抑えることにするよ。手を繋いでゆっくりと歩いていこう。
「恋人繋ぎって言うんです」
『そうか 初めて聞いたよ もっと早く知っておけばよかったな』
スイーリがしたように、キュッと握り返すとスイーリがまた握り返した。
ゆっくりと一歩一歩の時間を楽しむように並んで歩いた。
『夜はもう秋だな』
最南端の町から戻ったばかりだからだろうか。急速に季節が進んだ気がした。
「今年の秋は楽しいことが沢山あります よね?」
スイーリのその言葉にはどれほどの想いが込められているのだろう。去年は色々あったな。決して楽しい思い出ばかりでない一年だったけれど、私達にとって忘れてはいけない重要な年でもあった。
『ああ 今年の秋は二年分楽しんでおかないとな』
「ふふ」と頬を緩めたスイーリが今考えていることを当ててやろうか。
『去年カールが焼いたあのアップルパイ 今年はブルーノに焼いてもらわなくてはな』
「わあ!嬉しいです!内緒ですがあのアップルパイは王都一だと私は思っています」
『そうか それはカールが喜びそうだ』
「でもあのアップルパイのカフェにも行きましょうね レオ様」
『うん 必ず行こう』
憶えているよ、あの店はスイーリが初めて私を連れて行った店だ。今まで数えきれないほど通ったし、これからもそれ以上に足を運ぶはずさ。
馬車の中でも手を繋いだ。手のひらから伝わるスイーリの温かさが心地よかった。
『おやすみスイーリ 今日はありがとう』
「おやすみなさいレオ様 良い夢を」




