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血相を変えたオリアンが、もつれそうになる脚を懸命に動かしながら走ってくる。ただ事ではなさそうだ。何があったんだ?
ようやく側までたどり着いた頃には息が上がり声も出なかった。うんと背中を丸め、両膝に手を置いてぜえぜえと荒い息をしている。
ちらとオリアン夫人を見るも、彼女にも原因はわからないらしい。仕方ない、ここはオリアンの復活を待つしかないだろう。
夫人の差し出した茶を受け取り、飲み込もうとして盛大にむせている。普段走らないものが急に走るとこうなるという見本を見せられているようだ。脚を怪我しなかったことが不幸中の幸いだ。
皆言葉もなくオリアンを見守り続ける。ネリーとクラーラすらも沈黙を続けていた。
ようやく呼吸が整いだしたオリアンは、がくりと両膝をついたかと思うと、両手も地面につけ手の甲に額を乗せた。その様子はまるで土下座だ。
「このような場所に殿下を 大変なご無礼申し訳ございません」
・・・・・
はっ?
非常事態の理由はまさかそれか?
まるで土下座ではなく、正真正銘の土下座だったのか?
オリアンの言葉に工員たちの間にざわめきが起こった。
一人、二人・・・順に全ての目が私に向けられる。
立ち上がり、オリアンの側まで行って彼を起こさせた。
『皆と話をしていたところだ オリアンも加わってはどうだ?』
「は・・・はい」
よろよろと歩くオリアンのことをジェフリーが支えた。
『それと急に走っては危険だ 怪我がなくてよかった』
はっとしたような顔をしたオリアンが言いかけたところを遮る。
「大変お見苦―」
『謝罪は不要だ 怪我には気をつけろ オリアンの替わりを出来るものはいないからな』
「はい!」
「オリアンさん?」
首まで紅潮させたクラーラが瞳をギラつかせながらオリアンを見ている。
「殿下と言うのは?」
続けたのはネリーだ。この二人はどんな時でも息がぴったりなのだなと変なところで感心する。
オリアンの方はと言うと、何故聞かれているのかわからないというような顔だ。ぽかんとしたまま二人を代わる代わる見た後、夫人に視線を移した。
「殿下申し訳ございません ご紹介しそびれてしまいました」
いや違うんだ。
『私がそう仕向けたんだ 夫人のせいではないよ』
「このお方が自分達の主 王太子殿下でいらっしゃいます」
ゲイルの言葉の後、息をのむ音がしたのを最後に完全な沈黙になった。
のだが、その沈黙も長くは続かなかった。
「王 太 子 様・・・」
「この方が・・・」
「いやークラーラには参った参った 王太子様に向かってあんなこと聞くのはあんたくらいなもんだね」
「何言ってんのさ ネリーだって自分んとこのレオと比べてたじゃないかい 王太子様と自分の旦那比べるなんてあんたくらいのもんだね」
そして二人ともカカカと笑い出す。
「嫌だ 私も王太子様に騎士様ですか?なんて言ってしまったわ」
「私も騎士様だと思いこんでいたわ それに王都にはこんな美しい騎士様がいるのねって ちょっぴり妬ましく思っちゃった」
ようやくわかった。私達四人が剣を下げているから騎士だと思ったのだな。だからロニーとビルは役人か。
「いやー驚いた驚いた でもねえオリアンさん 王太子様も普通に歩いたり飲んだりするんだねえ 私が摘んできた美人の実も食べて下さったよ」
「ああ私も驚いたさ 王太子様は雲の上にお住まいだとばかり思っていたからねえ 私らとおんなじものをお飲みになるんだねえ」
そうして最後にはまた決まりのように笑いだした。
この町のものは気さくだな。よい意味で全く貴族に慣れていない。貴族に対して過度に反応しないし、無意味に怯えることもない。全くの予想外だった。
そんな中、オリアンだけが顔をすっかり白くしてわなわなしている。何度も見てきた型通りの反応に苦笑いが出る。
『オリアンとは今後の計画や要望について話し合いたかったのだが 明日にするか』
一晩おけば、彼も落ち着きを取り戻せるだろう。
でもオリアンの返事を待つより先に答えたのはノラだった。
「明日も来ていただけるのですか!」
キャー!と再び歓声が上がった。
『明日のこの時間でどうだ?』
「し..承知致しました お待ち申し上げております」
『では明日は私が差し入れを持ってこよう』
つい長居してしまった。彼女達はこの後も仕事が残っているのだったな。
『旨い茶だった 明日も楽しみにしている
それとオリアン 私はこの場所が気に入っている 手を加えようと思わなくていいからな』
青白い顔をしながらやっとの思いで頷いたオリアンと、頬を赤くして満面の笑みを浮かべた夫人、そして賑やかな七人の工員に見送られて工場を後にした。




