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八時間目のピアノの授業が終了した。
三年目は選抜を受けるものもおらず、今年はオーケストラのための伴奏はない。時々声楽の伴奏を引き受ける程度で、後は気楽なものだ。
教室を出ると、先に授業が終わっていたベンヤミンとヘルミが待っていた。
『二人は今から食堂だな』
「レオ様 ビョルケイさんにお会いになると伺いました」
ヘルミが眉を八の字にしている。
『心配しなくても大丈夫だ 学園内で話を聞くだけだからね』
「はい 食堂でお待ちしておりますわ」
『ああ 出来るだけ早く行くよ』
ビョルケイには放課後としか言っていない。どこにいるのかわからないが、心配しなくても向こうからやってくるだろう。そう思いベンヤミンやヘルミと食堂へ向かい歩き始めていたら、やはり音楽棟にまで来ていたようだ。向こうから得意げに歩いてくるビョルケイと目が合った。
『ベンヤミン ヘルミまた後で』
「気を付けろよレオ」「レオ様お気をつけて」
二人と別れて立ち止まった。
「レオ様 お迎えに来ましたよ」
『私がこの時間音楽だったとよく知っているな』
「当然です ヴァイオリンの授業ですよね?」
『いいや 私はヴァイオリンを弾いたことがない』
「嘘・・・?」
驚いているところを見ると、レオはヴァイオリンを弾いていたのだな。まあどうでもいいな。私には関係のない話だ。
『行くぞ 早く話をしよう』
「はあーい!」
「レオ様 出口はそちらではないですよ」
『そうだな』
「レオ様 どのカフェがいいですか?私行ってみたいところがあるんです」
『話をするのではなかったのか?カフェに行く用事があるのなら話は明日で構わないが』
「違いますよ!だって二人きりで八番街へ行くのでしょう?」
・・・言ったか?そんなこと。
『話は教室で聞く 今の時間ならどこの教室でも空いているだろう』
何やらぶつくさ言っているようだが、聞く必要はない。足早に本科の棟を目指して歩く。
ここでいいか。
ホベック語の教室の扉を開けた。
中に入ると不満そうな顔をしながらもビョルケイが入ってきた。その後ろからヨアヒムとゲイルが入り扉を閉める。
「ちょっと!どうしてあんた達までついてくるのよ!」
『ビョルケイ嬢 この二人は私の護衛だ この場にいていい権利がある』
「だって二人きりって言ったのに!」
『話は正しく記憶することだ 私は放課後に時間を取るとしか言っていない
まあ彼らは護衛だ 私に危害が及ばない限り動くことはないし 勿論会話に加わることもない 壁だとでも思えばいい』
壁って言ったって・・・と、またぶつくさ言い始める。
文句は一切無視して机に向かった。椅子を引いてビョルケイを呼ぶ。
『どうぞ 座って』
途端満面の笑みを浮かべ、跳ねるように近寄ってきたかと思うと、素直にその椅子に座った。私は三つ離れた椅子に座る。この教室は大きな丸い机を囲む形式だ。三つ開けた場所はほぼ対角の位置だ。ここならいきなり触れられる心配もない。
『さて 先にビョルケイ嬢の話を聞こうか』
「レオ様!一緒に地方校へ行きませんか?」
・・・そう来たか。
『私には地方校へ移る理由がない』
「ありますよ!大ありです!こんな危険な学園にいてはいけないわ」
『・・・ああ そうかビョルケイ嬢はお父上から転校するように言われたのだったな』
学園に怒鳴り込んできたと言っていたことを思い出した。
「ご存じだったのですね やっぱりレオ様は私のことが心配なのね」
ビョルケイの前向きさは私以上かもしれないな。この点だけは尊敬に値するかもしれない。
「どこにしますか?出来るだけ王都から遠いところがいいわ」
『ビョルケイ嬢はダールイベック領出身ではないのか?ダールイベック校へ行けばいいだろう』
正直どこへ移ろうが私には関係ない。
「ダールイベック校はあの女が付きまとうみたいでなんだか嫌だわ 別の学園にしましょうよ」
あの女・・・
『ビョルケイ嬢が今言っているのは ダールイベック公爵令嬢のことか?』
「ええ!あの勘違い女のことよ!」
落ち着け。この後こちらからも聞き出したいことがあるんだ。いやそれが本題だ。その話が終わるまでは冷静に対応するんだ。
『まあこの話はいい お父上と相談の上決めるといい』
「父さんはどこでもいいと言うに決まってるわ 私達に任せると言っていたもの」
『ああ お母上と決めるということか どちらにせよ好きにしろ』
「違います!レオ様と二人で決めるのよ!」
『何故私がビョルケイ嬢の転校先を考えなくてはならないのだ』
「だってレオ様も一緒に行くから」
『聞いていなかったのか 私は地方校へ移る理由がないとはっきり言った 本校で卒業する』
「じゃあ私もここにいるわ」
・・・・・
『お父上から命じられたのだろう?』
「レオ様と一緒なら転校するって言いました 父さんもそれでいいって言ってたわ」
言いたいことはあれこれと浮かぶがもうやめた。これ以上は時間の無駄だ。
『話を変えよう この話には永遠に答えが出そうもないからな』
「レオ様が決めていいですよ」
毎度のことだがこうも人の話を聞かないで、よく今まで会話が成立してきたものだ。
『私からも聞きたいことがある』
「何でも聞いてください!」
『私とビョルケイ嬢が飲まされた毒について聞きたい』
ビョルケイの顔が一瞬強張った。私とビョルケイが飲んだものは別のものだとわかっている。そのことはビョルケイも知っているはずだ。だがそれに気がついていないふりをすることにした。
『数日寝込んでしまい憶えていないのだ ビョルケイ嬢が頼りだ 犯人が見つかれば王都の学園の安全も証明される』
強張っていた顔が一気に輝く。両手を握り締めて身を乗り出してきた。
「そうね!そうすれば父さんも安心するわ!本当は王都の学園にいてほしいはずだもの 転校しろなんて言わなくなるわ!」
ノートを広げてペンを持った。
『私は毒の知識が全くないものでね ビョルケイ嬢から聞いたことをそのまま専門家に伝えるからメモを取らせてもらう 今からビョルケイ嬢が話すことは公的な記録として全て残る 依って万が一嘘を吐いた場合は偽証罪に問われることになる』
輝いていた表情が一気に陰る。脅しすぎも良くない。
『心配することはない 事実をそのまま話してくれたらいいだけだ ビョルケイ嬢は私に嘘を吐くつもりなどないだろう?』
「ええ!当然だわ」
このくらいでいいか。どこまで正直に話すかは賭けだ。
『まず味はどうだっただろうか』
「全く感じませんでした 喉が渇いていたので一気に飲んでしまったわ」
『そう言われたら そうだったかもしれないな』
無味。これで残り四種。
『においはなかったように思うのだが どうだろう?』
「ええ 紅茶の香りしかしなかったわ」
全ての薬が無臭だ。これも問題ない。今のところ正直に話しているようだ。
『視界が歪んだりブレたりと言った症状はあったか?』
「なかったわ それよりも喉がキュッと閉まるような感じがして苦しくなりませんでしたか?」
成程。こちらから聞く前に言ってくれるとは有り難い。
『ああ 確かに喉に異変が起きたな』
あと二種類。次が最後の質問だ。
『身体に痺れは生じたか?』
「ええ!血が逆流してるような感覚だったわ 指の先まで痺れてきて恐ろしくなったの あのまま死んでしまうかと思ったわ」
― 見つけた。
今の言い方だと正直に話したと思っていいだろう。根が非常に単純な令嬢なのだ。駆け引きや裏をかくようなことは不得手だろう。助かった。
『助かった ビョルケイ嬢感謝する 私が全部憶えていれば済んだことなのだが憶えていなくてね』
「いいえ 当然のことだわ 私達のことですもの」
『これが犯人に繋がるとよいが ビョルケイ嬢も引き続き気を付けて行動してくれ』
気を付けろ・・・騒動を起こさず静かにしろと言う意味なのだが、どう捉えるかは自由だ。
「私怖いです きっと犯人は私がレオ様の真の恋人だって知っているのよ それで私を消そうとしたんだわ そんなことする女は―」
『ビョルケイ嬢 全て記録すると言ったことを忘れたのか それは根拠ある発言か?犯人を確証しているのなら理由と共に今すぐ発言するといい』
再びペンをインク瓶へと浸す。さあ言えるものなら言ってみろ。一字一句余さず記録してやる。
「な ないわ」
引き下がったか。だが苛立ちが収まらない。先程の分も合わせて一言だけ言わせてもらおう。
『ビョルケイ嬢 貴族を名乗るのならば発言には責任を持つことだ 今まで学ぶ機会がなかっただろうと大目に見てきたが 言動に非常に問題が多い 今後も王都で貴族として扱われたいのなら一から学ぶことを勧める』
「わかったわ!必ず身につけるわ!レオ様のために私だって努力しなくてはいけないもの」
また面倒な思い込みをしていることがわかる返答だ。揚げ足を取られるようなことは一切言っていないが、私を理由にされるのは迷惑だ。ここはきっぱりと否定しておくとするか。
『私を理由にする必要はない 自分にとって必要な知識だと思えば学ぶといい』
言うだけ言って立ち上がった。思っていたよりも時間がかかってしまった。早く食堂へ行こう。
『では失礼する』
慌てたビョルケイも立ち上がって走り寄ってきたが、ゲイルが行く手を遮った。
「邪魔よどいて 待ってレオ様!私も一緒に帰るわ!帰りましょうレオ様!帰りにお茶でも―」
『私はまだ勉強が残っている ビョルケイ嬢は先に帰れ』
ゲイルが足止めをしている間にヨアヒムが扉を開けた。そのまま廊下へ出ると、外には数人の令嬢が立っていた。ビョルケイの友人だろうか、二年生や三年生も交じっているが意外と交友関係が広かったのだな。
「レオ様 ご無事で良かったですわ」
「ビョルケイさんが暴れたらお助けしようと思っておりました」
「中で暴れているみたいだわ 騎士の方が止めて下さっているみたい」
「危なかったですわ 騎士様がいらして下さって良かったですわ」
違った。
『もしかして心配してくれていたのか?』
「ええ お二人が歩いているところをお見かけ致しましたので」
そうだ、ビョルケイは学園中に知れ渡っている存在だった。令嬢に助けを求めるような機会はまずないだろうが、ねじ曲がった噂が流れることを防ぐ助けにはなってくれそうだ。有難い。
『ありがとう 遅くまで済まなかったね もう話は済んだから大丈夫だよ 皆気を付けて帰ってくれ』
「私スイーリ様にお伝えして差し上げたいですわ」
「私も参ります 今日は食堂にいらっしゃるはずですもの」
「スイーリ様のお耳に間違った噂が届く前にお伝えして参りましょう」
「私もスイーリ様にお会いしたいです ご一緒します」
ビョルケイではなくスイーリの友人だったのか。皆直接会いたいような口ぶりだ。
『私もこれから向かうと伝えておいてもらえるかな』
「承知致しました 必ずお伝えいたしますわ」
「レオ様お先に失礼致します」
「お伝えして参ります」
スイーリを慕うものが学年を問わずいることを知り、更に安心できた。私が側にいることにも限界がある。数多くの令嬢が見守ってくれることは心強い限りだ。
「殿下 ビョルケイ嬢の方は任せておけば問題ありません 今のうちに移動致しましょう」
『わかった』
ヨアヒムと食堂へ向かう。途中人気のない廊下で立ち止まり振り返った。
『ラーディロル』
「はい 間違いないかと」
ビョルケイが使用した薬の名だ。
ラーディロル、呼吸困難を引き起こす危険な薬物。生産国はパルード。




