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あの日から三週間が過ぎた。
昨日の昼からようやく形のある具の入ったスープが出されるようになった。それまでの二日間はポタージュのようなとろとろのスープだった。形が違うだけで入ってるものは同じだろうなどと思っていた自分の無知さが恥ずかしい。
人間にとって咀嚼とは重要な行動なのだと初めて知った。自分で嚙み砕いて食べると言う、ただそれだけのことで確実に体力が戻ってきたことが実感できた。まだ通常の頃の食事には戻っていないが、それもあと数日のことらしい。医者の言うことには素直に従おう、これも今回身に染みて感じたことだった。
鍛錬も再開したかったが、いきなりアレクシーと打ち合う自信はまだない。まずは落ちてしまった筋力を取り戻すところから始めようと思う。
学園は明日から通常授業に戻るそうだ。休校最終日の今日、午後から数日ぶりに皆が顔を出すことになっている。その前にスイーリに確認したいことがあり、少しだけ早く来るよう頼んであった。
「レオ様 スイーリ様がお見えになりました」
『わかった 談話室へ案内してほしい』
そう伝え、談話室へ向かう。
コートを手に入ってきたスイーリは五日前に会った時に比べ、ずっと顔色も良くなっていた。疲労が滲み疲れ切っていた瞳も、以前のような澄んだ清らかな瞳に戻りつつあるように見える。
『来てくれてありがとうスイーリ ゆっくり休めたか?』
なのにスイーリは顔をこわばらせたかと思うと私のことを凝視したまま、つーと涙を落とした。
『ど どうした?』
「よかった・・・よかったです レオ様もうこんなに回復されたのですね もうお歩きになれるのですね 私毎日恐ろしい夢ばかり見て お手紙も頂きましたのにそれでも不安で―」
たまらず強く抱き締めた。
『心配かけてごめん 悪かった もう安心してほしい』
抱き締めたスイーリの身体はいつもより細く感じた。
『とりあえず座ろう おいで』
少し落ち着いたスイーリの手を取り長椅子へ向かった。
テーブルの上を整えていた侍女達が静かに出ていく。
「皆様がお見えになりましたらお迎えに参ります」
それだけを告げるとロニーも辞した。
すぐ本題に入るつもりでいたが、私が何も知らずに寝ていた間、スイーリがどれだけ心を痛めたのかと思うと、どう謝っても足りない気がした。
『軽率だった ここまで大事になると思ってなかったんだ 赦してもらえるだろうか』
「止めて下さい どうしてレオ様が頭をお下げになるのですか 私のせいでこんなにも・・・ もう目を開けて下さらないのではないかと恐ろしくて怖くて不安で でも何もできませんでした 私のせいなのに ごめんなさいレオ様 私のためにごめんなさい」
『何一つスイーリの責任ではないよ スイーリが無事でいてくれて良かった』
物語を鵜吞みにした私が迂闊すぎたのだ。翌朝には意識が戻ったと言うその話を信じ切っていたのが、私の一番の失敗だ。今回はたまたま不運が重なったわけだったが、このような改変もあり得るということを頭に入れておかなければならなかった。
『時間もあまりない 話を進めていいかな』
「はい 取り乱して申し訳ありませんでした もう大丈夫です」
『スイーリ 今回のことどう考えている?スイーリの考えを聞かせてほしい』
「はい 最初は他の事件と同じようにビョルケイさんが騒動を起こすのだろうと考えていました」
『うん』
「ですが まさかビョルケイさんが狙われてしまうだなんて・・・ソフィア様からそのことを聞いたときは頭の中が真っ白になってしまいました」
『ああ 私もそれを聞いた時は頭を殴られたような衝撃だった』
僅かの間沈黙が流れた後、再びスイーリが話しを続けた。
「原作通りビョルケイさんが狙われたということなのかとも考えました」
『でもそうではない と?』
「はい 犯人の狙いは私一人だったと聞きました」
『ああ 実行したカトゥムスの供述も指示する手紙からもそれは間違いないらしい』
思い出すだけで震えるほど怒りが込み上げる。
「レオ様 犯人は一人ではないのではないでしょうか」
『やはりスイーリもそう考えていたか 私も犯人は二人いると思う』
どう考えてもビョルケイの話が繋がらないのだ。繋がらないのは元々が別の話だからではないだろうか。
原作の通りに[初めて雪の積もった日に学園の食堂で毒に倒れるものがいる]それをなぞるように導かれ実行したものが二人いた―
より原作に近く、食堂の給仕を利用してスイーリに毒を盛ったものが一人。
そして原作で言うところの主人公に当たるビョルケイが、その原作通り毒に倒れた。だがビョルケイに毒を盛った犯人の手掛かりは今のところ何一つ見つかっていない。
『ビョルケイもこの世界の仕組みを知っている つまり前世でのゲームの記憶があると仮定すると 主人公は毒に倒れなければならない』
「レオ様 まさかビョルケイさんはご自分で毒を用意して飲んだと?」
『そう考えると全てのつじつまが合うとは思わないか?どこまで聞き出せるかはわからないが このことは私が直接ビョルケイから聞き出す予定だ』
「レオ様がですか?」
『ああ ビョルケイは呆れるほど私に執着しているからな 他のものが聞くよりもぼろを出す確率が高いだろう 心配しなくていい護衛もいる学園の中で会うだけだ』
「わかりました レオ様お願い致します」
『今後何かの意図を持ってビョルケイと二人で会うことがあるかもしれない
スイーリ 私を信じてもらえるね?私の気持ちが揺れることは決してない』
一度不安にさせてしまった。同じ過ちは決して繰り返さない。
「はい大丈夫です 以前の愚かな振る舞いをお許しください」
『スイーリは何も悪くない 必ず乗り越えよう 私達になら出来るよ』
「はい 必ず」
もう一つだけ皆が来る前に聞いておくことがあった。
『それとスイーリ 学園では私が毒を盛られたという話になっているのかな』
「はい ロニーさんの指示です 私達以外に真実を知る方はおりません」
『アレクシーとデニスはどうだ?正しく伝えてあるか?』
「はい 兄様とデニス様はご存じです」
『わかった その方が都合がいい』
ロニーの機転に感謝した。
突飛な言動の数々、凡そ貴族の令嬢とは思えぬ振る舞い。いや貴族だ平民だという以前の問題の気もする。
『スイーリを池に落とそうとしたのは何故だったんだろうな』
「えっ?」
『自分が物語の主人公だと信じているのなら スイーリを狙うのも変だなと思ったのだが 相手はあのビョルケイだからな・・・池のほとりに立っていたスイーリを見て衝動的に動いただけかもしれないな』
「はい あの・・・ビョルケイさんはあまりに私の知っていたヒロインとは雰囲気が違いまして 私にも何をお考えなのかわからないのです」
『それはきっとビョルケイが主人公とは別人格だからなのだろう スイーリや私が原作とは違うように』
「ええ そう思うと全てに納得ができました」
『ビョルケイには前世の記憶があり この世界についての知識を持っている そして自分のことを主人公だと信じていて対象は私 と言うことで間違いないだろうか』
「はい 私もその通りだと思います」
『ではスイーリ 倒れた主人公を介抱するはずだった私も倒れていたと知ったら ビョルケイはどう思っただろう』
あのビョルケイの気持ちになって考えることなど私にもスイーリにも不可能だ。正解を求めて聞いたわけではない。だがゲームを知っているスイーリならではの考えがあるかもしれない。
スイーリは少しの間考え込んでいたが、ふっと顔を上げると酷く落ち着いた声で言った。
「ビョルケイさんは私のことを敵視し 憎悪を募らせております レオ様に毒を盛ったのも私だと考えるかもしれません」
やはりそうか、私も同じ考えだ。スイーリに毒を盛らせた黒幕がビョルケイではなかった場合、スイーリを犯人だと思い込んでいる可能性が高いと思う。
『側で守ってやれない ビョルケイの戯言など信じるものはいないだろうが それでも明日スイーリが嫌な目に遭うとわかっていて助けてやることが出来ない 済まない』
本当は無理をしてでも明日学園へ行きたい。ビョルケイが何をしでかすか不安でならなかった。
だがスイーリの目には少しの怯えもなかった。
「レオ様 私これでも公爵令嬢なのですよ 俄か男爵令嬢などに負けるわけには参りません」
『スイーリ―』
「今までは不意打ちのような出来事ばかりでしたので 私も戸惑うことが多かったですが 今回は考える時間がありました ご安心ください ビョルケイさんに負けませんから」
『わかった スイーリを信じている でも危険なことだけはしないでくれ』
「はい お約束致します 貴族令嬢の武器は毒でも暴力でもないことをビョルケイさんに教えて差し上げますわ」




