[166]
今朝は冷え込んだな。
カーテンの隙間から外の様子を窺う。暗闇の中霧のような雪が舞うように降っていた。
とうとう降ったか。
昨日まで毎日観察を続けていたが、三人に変わった様子は一切見られなかった。日々を慎ましく誠実に生きる善良なものたちだ。私には彼女たちが毒を手にして平静を保てるとは思えなかった。
まだ黒幕と接触してはいないか。
毒が渡ったと確信したらヴィルホに伝えるつもりでいた。その後のことも全て騎士団に任せて私は引こう、そう考えていた。
三人とは言っているが、実際はほぼ一人に絞りつつあった。毎日の行動を見ているうちに、勤務表には載らない細かな規則のようなものがあることに気がついたのだ。給仕にはどうやら決められた持ち場があるらしい。日によって違った席に座っていれば気がつかなかったかもしれないが、私達が座る席は毎日同じ場所だった。観察を始めてから昨日までの間、三人のうち私達の席へ給仕に来たものは一人だけだ。
部屋を出て訓練場へ向かう。窓の外は白一色だった。心臓をキュッと掴まれたような衝撃が走る。
(今日・・・なのか?!)
どうして毒を渡してから猶予があると思っていたのだろう。即実行させるに決まっているではないか。黒幕から指示を受けたのは昨日、若しくは今朝これからの時間、そして今日それを・・・?!
どうする、どうすればいい。
「お早うレオ どうした?そんなに雪が嫌だったのか?」
窓の外を見たまま立ち尽くしていた私のことを揶揄いながら、アレクシーが近づいてきた。
『お早うアレクシー アレクシーがここに来るのも大変だろうと思ってな』
「雪を嫌がっていて騎士が務まるかってな さあ早く行こうぜ」
『ああ 行こう』
訓練場へ向かい並んで歩く。
アレクシーが前を向いたまま言った。
「レオ瘦せたな」
『そうか?』
「言おうか迷ってたけど 最近痩せすぎだと思う
・・・体調管理は騎士の基本だぜ」
体重が落ちていることは勿論自覚していた。いつかロニーにも指摘されたことがあった。
アレクシーの言う通りだ。体調管理も出来ないようでは、守れるものも守れない。
『その通りだな 気を付ける』
「気を付けるって言うより しっかり食えって言いたいだけなんだけどな」
『ああ つい後回しにしてた 忘れずに食うよ』
「そうしてくれ どんなに忙しくても健康があってこそ だぞ」
アレクシーが何を知っていてこの話をしたのかはわからない。でも以前約束した。次何かに悩んだ時には打ち明けると。それを信じているから何も聞かないのだ。
大丈夫だアレクシー、それよりもさらに前に約束したことも必ず守る。
アレクシーの大切な妹、スイーリのことは絶対に守ってみせるよ。
鍛錬を終えて訓練場を出ると、既に雪はほぼ溶けきっていた。まだ陽も出ていないというのに珍しいこともあるのだな。すっかり雪に翻弄されている。今日ではない、ということか。だが用心はしなくてならない。今まで以上にしっかりと観察しなければ。
馬車の中で、ロニーにそのことを伝える。
『今日 かもしれない』
ロニーの目に緊張の色が走った。
「いつそれに」
いつ気がついたかということか。
『昨日までは全くその素振りはなかった 信じられないかもしれないが勘だ』
『当たるかどうか 昼にはわかるさ 私としては試験の後にしてもらいたいけどね』
空気の重さに、敢えて軽口をたたくように付け足した。
でも本当にそうしてもらいたい。二日後から試験が始まるのだ。試験の前に騒動などまっぴらだ。
学園に到着した。
『行ってくる』
「レオ様 お気をつけて」
いつもと変わらないやり取りだが、ロニーの目には普段よりも力がこもっていた。
『ロニーらしくないぞ』
「・・・失礼致しました 昼にまた参ります」
『うん 頼む』
午前の授業の間、気になって何度か窓の外を見た。あれから雪は降っていない。あの時間起きていたもの以外は、今朝雪が積もっていたことなど知りもしないだろう。
(今日ではなかったか・・・)
先延ばしにして良いことではないが、すっかり出来たと思っていた心の準備がまだ整っていなかったことに気がつかされた。
だが恐らくはスイーリも今朝の雪のことを知らない。それならばスイーリの知らないうちに終わらせてやりたいとも思う。
気もそぞろなまま午前の授業が終わった。今から食堂へ向かえばはっきりする。
これから毎日こんな思いをしながら過ごすくらいなら、今日のうちに全部終わればいい。
気持ちが二転三転する。主導権を握られることはこんなにももどかしいことなのだと、改めて実感した。二度と御免だ。
「どうしたレオ 行こうぜ」
『ああ 今行く』
食堂へ行き、いつもの席に座る。
ああ・・・
見たくなかった。昨日まではなかったクマが目の下にくっきりと浮いている。彼女も被害者なのだ。今からでも救う方法はないのか。もし、もし決行が今日ではなかったら、そうすれば何かきっと方法があるはずだ。
「おまたせー今朝は寒かったね」
イクセルとスイーリ、ソフィアが食堂に入ってきた。
「もう完全に冬だな」
「お待たせしました レオ様」
スイーリがにっこり笑いながら隣の席に座る。それでいい、スイーリに気がつかれないように済ませたい。
往生際が悪く、まだ決行が明日以降である可能性に期待していた。彼女の顔色が悪いのは動揺しているからだ、今から恐ろしい犯罪を犯そうとしているからではない、と。
大抵の日は食後に茶が用意される。しかし今日は数少ない最初に茶が配られる日だった。
人数分のカップをトレーに乗せた彼女が近づいてくる。最初に来たのは私の席だ。重ねておいている皿の上にカップを一つ置いて、皿ごと私の前に置く。続いて隣のスイーリ・・・彼女の手は気の毒なほどに震えていた。
ようやく全てのカップを配り終えたところへ、ポットを持った別の給仕が茶を注いで回る。
やはり設定された出来事は変えられないのだ。
[初めて雪が積もった日、学園の食堂で毒に倒れるものがいる]
変えられるのはそれに関わる人物だけだ。仕方ない・・・
今立ち去ろうとしている背中に向かって声をかけた。
『パラ=カトゥムス 忙しい時間に申し訳ないが もう暫くそこにいるように』
トレーを震える両手で抱え、必死に落とさないようにしている。目には痛ましいほどに怯えが浮かんでいた。あなたへの怒りはない。だが、それを指示した人物―よくもスイーリを。今すぐ斬り伏せたいほどの怒りがこみ上げる。
私の言葉に皆も不思議そうに動きを止めている。このまま止まってしまえばいいのに。
スイーリの前に置かれたカップに手を伸ばす。当然スイーリは驚いてこちらを向いた。
(大丈夫だスイーリ)
「レオ様?」
「レオ様!駄目!」
スイーリが慌てて手を伸ばしてくる。
「飲まないで!飲んでは駄目ー!」
スイーリが叫んだのと同時に、私の喉を茶が通り過ぎた。
おかしな香りはしない。腹立たしいほどに私の好みの茶だった。だが味は確じつに・・・
視界がゆがむ。酷い眩暈がする。
持ったままだったカップを投げ捨てるようにテーブルの上に置いた。両手で支えていなければ座っているのも難しい。
まずいな、しっかりしないと。
一口しか飲んでいない、大したことはないは・ずだ・・・
ゴホッ、ゴホッゴフッ
視界が赤い、急に力がはいらなく・・・
嫌ー------!!
遠くでスイーリの悲鳴が聞こえた気がする。
悲鳴を聞きつけた騎士が駆け付けるよりも早くイクセルがカトゥムスを拘束し、制服を血まみれにしながらもベンヤミンが毒を吐かせようとし続けたことを私が知ることはなかった。




