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パルードの船が出港した。
「一年後に会いましょう」と笑顔で手を振るフレッドを乗せて。
アンナも最後までにこやかな笑顔を浮かべていた。
「アンナ様 ご無理なさってはいませんか?」
ヘルミが気遣うように寄り添っているが、アンナはしっかりとした口調で全員に聞かせるように言った。
「ヘルミ様ありがとうございます でも私は大丈夫ですわ これからも頑張らなくてはいけないことが山のようにあるのですもの それを思うと一年などあっという間に過ぎてしまいますわ」
「そうだよねアンナちゃん!アンナちゃんにはオーケストラに入ってもらわなくちゃいけないしね!」
「ええ イクセル様!私きっと合格してみせますわ 待っていてくださいね」
『そうだなアンナ この旅から戻ればアンナも学園生だ 忙しくなるな』
「はい!ようやく ようやくですわレオ様!』
アンナのことは全員で見守ると約束した。かと言って特別なことをする必要はない。今までと変わらず大切な仲間の一人として接していればいい。
『せっかく港へ来たことだし もう少し見て行こうか』
「いいね 市場見に行こうぜ」
「行こう行こう!」
翌日はメルトルッカタウンを散策した。こちらもまた独特の建物に食文化、得難い体験となった。
イクセルが「ダールイベックへ来ただけで世界旅行をしたみたいだよ」と言っていたが、大袈裟だと笑うものはいなかった。王都にいては知ることのできなかった異国の文化。見聞きだけではわからなかったことも、この町では目の前に答えがある。
もっともっと大勢のもの達にこの町にことを知ってほしい。この町を訪れることが出来るようにしたい。
運河はそれへの大きな一歩だ。運河が開通すれば、王都からこの町へ来ることが格段に楽になる。勿論この町から王都へも。
『スイーリ 気軽に旅が楽しめるようにしたいな』
「旅 ですか?」
ごく一部の貴族だけではなく、もっと気軽に旅を。
だがそれを今口にするのは躊躇われた。それを言うには私はあまりに平民の暮らしを知らない。平民は別の地へ行ってみたいと考えたりするのだろうか。仕事を休み、家族と旅に出るということは、果たして手に届く贅沢なのだろうか。
『もう少し先になるかな いつかはそうなればいいと思っている』
「そうですね 自由に旅が楽しめるような時代が来ることを信じています」
港を離れ、次は北の町へ向かった。ダールイベック北部は近隣諸国を含めても最大の蕎麦の産地だ。貴重な輸出品でもあるわけだが、もっと国内での需要も高めたいところだ。
本邸を訪問した時、自分も含めて蕎麦は非常に好意的に受け入れられていたように思う。それだけに、何故王都で敬遠されているのか、その理由がわからなかった。
北部の町のものに聞いてみても、今一つすっきりしない。どうやら何代も前の世代に王都へ持ち込んだもの達がいたが、失敗に終わったということが未だ尾を引いているらしいということはわかった。
北部の町から王都まで荷を運ぶことは大変だ。それならば港から他国へ売ればいいと考えるのも至極当然の流れだと思う。
やはり運河だ。運河が通れば港まで運んでいくのと変わらなくなるのだ。運河が完成するまでに王都で蕎麦を受け入れる準備を整えたい。皆が運河の開通を、蕎麦がやって来るのを待ちわびるように。
それまでの間、港から王都へ運ぶ荷物の中に、蕎麦も加えるよう頼んだ。僅かな量でも構わない。寧ろその方が好都合だ。珍しいもの、希少なものほど喜ぶのが貴族と言う生き物だ。ゆくゆく十分な量が確保できるようになった時、平民が気軽に口に出来るようになったその時になってようやく、王都の民が蕎麦を食べるようになった、と言えるだろう。
北部の次は南部の町を目指す。その前に一日海辺の小さな町に立ち寄った。どこまでも白い砂浜が続くその町で見た海は、今まで見たどの海よりも青かった。
これがスイーリが見たいと言っていた夏の海。
「こんなにも青い海があったのですね」
暫くの間スイーリは言葉もなく海を見つめていた。
「この町を旅程に加えて下さってありがとうございました」
そう言いながら私の顔を覗き込んだかと思うと、ニッコリと笑った。
「やっぱり! この町の海はレオ様の瞳と同じ色をしています 私の大好きな色です」
不意打ちすぎて返す言葉も探せずにいた私は、どんな顔をしていたんだろうな。
馬車に戻る道すがら「さっきスイーリと何話してたんだよ」と、ベンヤミンからしつこく聞かれた。勿論答えられるはずがない。
せっかく海まで来たんだ、人の顔じゃなく海を見ればいいと思う。
そしてたどり着いたダールイベック南部最大の町。
ここは人間よりも馬の数が多い、ステファンマルクで最大の馬の産地だ。農耕馬から輓馬、そして騎乗馬と、様々な種類の馬が生育されている。アレクシーが一番訪れたいと言っていた町だ。
「馬と言っても全く違うんだな」
今私達は農耕馬の牧場に来ている。ここでのんびりと草を食んでいる馬の姿は、私達が知っている馬とはかなり違う見た目をしていた。
「短いよね・・・」
「そして太いな」
足が太くて短い。なんとも安定感のある姿だ。
「なんだか愛嬌のある顔ですね 可愛いわ」
などと令嬢達から言われていたのは、そこにいたのが育成中の仔馬だったからだ。まさか成長した馬があれほど大きいとは・・・思わず私も後ずさりしてしまった。
輓馬は一番見慣れている馬かもしれない。馬車を引くための馬だ。
ここでは訓練を見学した。ある程度まで育った馬は、訓練を経た後買われていくのだそうだ。馬ならすぐに荷を引けるものと思っていたが、そうではないのだな。また、ここで性格に問題がないかも念入りに確認していると言う。荒々しかったり、逆に神経質なものは売れずに残ることもあると聞いた。生き物なのに個性的だと問題視されるというのは気の毒なことだ。でもそのおかげで日々安心して馬車に乗れるのだ。難しいな。
最後は騎乗馬の育成場だ。今までの二ヵ所を回った時に比べ、明らかに真剣な表情のアレクシー。
ここでは輓馬よりも細かく分けられたグループ毎に放牧、訓練が行われていた。騎乗馬は他の馬に比べ持久力とスピードに優れていて、身体も幾分小さめなのが特徴だ。
体格も見事に揃った黒鹿毛が・・・一体何頭いるのだろう。数えることが出来ないが、二桁以上はいそうだ。そこから一頭ずつ順に引かれて柵の中を歩いている。
立派に見えるがまだ一歳なのだそうだ。今訓練の真っ最中で、秋になると人を乗せる訓練に移行する予定らしい。
同じ毛色の馬のみが産まれるのだと思ったら、そうではないと言う。ここでは特別に集められた馬を育成しているのだと説明を受けた。なるほど次に案内された柵では、様々な毛色をした馬が騎乗訓練を行っていた。このグループは最終訓練の終盤を迎えたそうで、ここでは乗り手の指示通りに走る馬の姿が見られた。
「僕 これから馬を見る目が変わりそうだよ こんなにも時間をかけて訓練していたんだね」
「私は農耕馬が一番衝撃でしたわ 騎乗馬の倍はありそうなのですもの」
「ステファンマルクの馬が寒さに強いと言うのも驚きました 全ての馬が寒さに強いわけではなかったのですね」
「それは俺も思った 寒さに強いのが馬の特徴だと思っていたが そうではなかったんだな」
皆それぞれに様々な感想を口にしていた。
本邸の湖に始まり、港、北部の大農業地帯そして南部の広大な牧場。これが一公爵家の領地なのだから、いかにダールイベックが大貴族なのかということがわかる旅だった。
次に向かうのは最終目的地、二度目のダールイベック本邸だ。
 




