10. ココロ
“シャッ……シャッ……シャッ”
夜中にリコは包丁を研ぐ。
“シャッ……シャッ……シャッ”
包丁を研ぐと、いつもなら心がスッキリしてくるのに、今日は一向に晴れてこない。
(ワシが作ったんじゃ、、ワシが。倫也のために……)
今日、倫也は 松野が料理をつくる姿を見て、今までの料理も 松野が作ってくれていたと思ったようだ。
松野という 編集者の女。
亜麻色の髪はさらりと美しく、先の方は自然と弧を描き、ゆるり、柔らかく流れていた。
物怖じしない強い眼差し、意思の強そうな眉。
なのに嫌みを感じさせないのは、澄んだ瞳のせいだろう。
内側から滲み出る凛とした雰囲気は 明るく、好ましいものだった。
いるだけでその場が華やぐ。
スラリとした身体、なのに 女性らしい肉感を感じる曲線とくびれ。
長く細い指は、爪の先まで美しい。
清潔感があり、媚びているわけでもないのに、匂いたつような 色気。
あぶらのりのいい、女盛りの美しい女。
その精気に触れた時、リコは松野の優しい心根にも触れた。
心までも美しい女。
松野の純粋に倫也を思う心が リコ自信の恋心を気づかせてくれた。
(……いい女じゃった。それにひきかえ、ワシは……)
リコは包丁を研ぐ手を止める。
目に写るのは 小さなタヌキの黒い手。
(うっ、、)
倫也の前で、可愛くありたい。
せめて倫也の前で、女の子の姿 “リコ” でいられたら、松野と張り合えたのに
(ううっ、、)
ひっく、ぐすん。
リコの目に涙がにじみ、小さな嗚咽があがる。
しかし、口から出るのは、キューン、キューンと、ケモノが鼻を鳴らす鳴き声。
それが一層リコを悲しくさせる。
(うううっ、、)
そう、姿だけではないのだ。
あの、松野と倫也の 親しげな会話……
リコは倫也と話すことなどできない。
“おめでとう”
“がんばったね”
“よくやった”
リコがもらった嬉しい言葉、しあわせのしあわせのかけら達。
リコの溢れる心を言葉にしてそ、倫也に伝えたい。
だけど、リコは、倫也の名前を呼ぶことすら出来ない。
(ワシは、、ワシは、、)
切なさが込み上げる。
(トモヤ……)
倫也が、好きだ。
【あの女のかわりに、彼の隣にいたい?】
ふいに、リコの背後から声がかかった。
キッチンの隅、光の届かない場所で、どろりと深い闇が蠢く。
【あの女のかわりに、彼の隣にいたいか?】
その者は影の中からリコにもう一度問いかけてきた。
「だ、誰じゃ!?」
ヒタ、、ヒタ、、ズルリ。
水の滴る音と共に 身体を引きずるように現れたのは、紫色の濡れた髪を顔にはりつかせた、下半身がタコの女――
「オマエは、、海の魔女!」
人魚姫から声を奪い、人の脚を与えた海の魔女。
人魚姫の姉達の髪とひきかえに、人魚姫が戻れるよう、魔法の短剣を渡した、あの魔女だ。
【あの女のかわりに、彼の隣にいたくないか?】
三度、魔女がリコに問う。
松野のかわりに 倫也の隣に――
(イカン、この女の言葉を聞いちゃイカン。この女の甘言を聞いたばかりに、幼い人魚の姫は――)
「寄るな!海の魔女、オマエのせいで人魚の姫は破滅においやれたんじゃ」
【フフフ、、私は方法を教えただけ。選んだのは、彼女……】
そう、選んだのは人魚の姫だ。
聞くだけなら聞いても良いのかも。
魔女に渡す対価にもよる。
人魚の姫は『声』を奪われたが、もともとリコは喋れない。
リコは魔女に聞いてしまう。
イケナイと頭でわかってはいても、心が誘惑に負けてしまう。
「そんな事が 出来るのか?」
海の魔女がニヤリと嗤った。
【その包丁で、あの女を刺すがいい】
「なんじゃと!?あの女を殺せというのか!!」
驚くリコに、魔女は懐から紫色の小瓶を取り出し、指でつまんでリコの前に掲げて見せた。
【死にはしない。この薬をその包丁に塗り、あの女の肚に突き立てろ。
そして、飛び出した精気を余すことなく吸い上げ、かわりにお前の精気をあの女の身体に降り注げ。
そうすれば、入れ替わることが出来る】
リコは『松野』として、倫也の隣に
松野は倫也の犬『マイ』として、倫也の隣に
「海の魔女、オマエは見返りに、ワシに何を求める」
【私は古狸のチカラを貰おう。人間として生きるなら必要ないもの。フフフ、悪い話ではないだろう?】
そう、悪い話ではない。
人として、倫也と共に生き、共に老い、安らかな死を迎える。
松野だって、死ぬわけではない。
倫也のそばにはいられるのだ。
リコは魔女の小瓶に手を伸ばす。
だけど――
【どうした?これが欲しくないのか?】
戸惑い、悩み、手を止めるリコに 海の魔女がささやく。
【彼の隣にいたくないのか?】
そんなの、いたいに決まっている。
だけど――
「ワシには、出来ん」
【何故?チカラが惜しい?永遠に近しい命が、惜しい?】
リコは首を横に振る。
「トモヤと共にいれるのなら、そんなものいらん。だけど、、だけど、、ワシではトモヤをシアワセには出来ん。ワシはシアワセになれても、トモヤはシアワセになれんのじゃ」
【……】
「ワシではトモヤを『しょうせつか』にする事は出来ん。だけど、松野ならそれが出来る。トモヤをシアワセに出来るのじゃ」
【リコ……】
リコの目から涙が溢れる。
ぎゅっと拳を作り、下を向いて泣きながら海の魔女に訴える。
「嗤うか?嗤うがいい。ワシも人魚の姫を嗤うとった。人のシアワセを、願う。フン、そんなの、己のシアワセがあって、余裕があるから願うのじゃ、偽善じゃと。そう、思っとった。だけど、この世界に来て、人々とふれあい、生活し、ワシはやっとわかった」
【リコ、、】
「心は、動くものじゃ、己の意思とは関係なく、な」
【……】
「ワシはトモヤのシアワセを心から願う。トモヤには夢を叶えて欲しい、シアワセに、、シアワセになって、欲しい」
【リコ、顔をあげなさい】
泣きじゃくるリコに 海の魔女が言葉をかける。
顔を上げたリコ。
目の前が眩しく輝いている。
「え?」
【合格ですね、リコ】
光の中の人物は輝いていてよく見えないが、聞き覚えのある声に変わっていた。
「もしかして、、神、、か?」