7 ’Jag älskar dig’ 〜愛しています〜
最終話です。
遥が来るまで1時間。
俺は買って来た物をテーブルの上に並べ、冷やす物は冷蔵庫に入れる。それから窓を開け換気をする。
ざっと部屋の中を見回す。うん大丈夫だ。出かける前に掃除をしておいて良かった。洗濯物はまだ完全に乾いていないので、乾燥機にかける事にした。
机の上の女神へ捧げる花とポッキーはそのままでいいか。そうだ、客用スリッパがないぞ!スーツケースを開け、以前飛行機で使わず持ち帰った機内用のスリッパを引っ張り出す。
そんな風に一通り室内をチェックをして、それからシャワーを浴びる。
「ハルがいい匂いって言ってくれたぞ。良かった、俺は本当に臭くなかったんだ!」と、9年ぶりに体臭不安症から解放されて鼻歌を歌いながら全身を洗った。
そして、ほかほか湯気をたてさっぱりした風呂上がりの俺は、冷えたペリエをキュッと飲んで、濡れた髪のままコーヒーマシーンのスイッチを入れる。低く音楽をかけてからベランダに出た。風が気持ち良い。
もうすぐ遥が来る。それまでに少し頭を冷やそう。デートではない。話をしに来るだけなんだから。
そう、話をしに来るのだ。さっき遥は「聞いて欲しい事がある」「ずっと話したくて話せなかった」と言った。今更あの頃の事を何を…と思わないでもない。もう時が経ち過ぎている。そんな終わった事より、出来るなら俺は今やこれからの話をしたい。
遥は今の俺は嫌っていないようだ。仲が良かった時の様な笑顔も見せてくれる。またあの頃の様に…、いや、新しく関係を築いて行く事についてはどう思っているのか。その事の方が気になってしまう。
インターホンが鳴った。慌てて部屋に入る。右足の小指をぶつけたが痛がっている場合ではない。
「今開ける」と言いながら玄関に向かう。ドアを開けて視線を下に向けると、そこにはほぼスッピンの遥が立っていた。
「ハルだ」と俺は思った。懐かしいつるんとした頬と前髪の分け目から覗くおでこ。あの頃と同じで化粧を落とすと何とだか幼くなる。付き合い始めてから知ったほぼスッピンの無防備な表情。
「いらっしゃい」
ドキドキしているが、顔に出さずに何気なさそうに出迎える。洗ったままのおろした髪と着心地の良さそうな綿の細身のワンピース。Gジャンを羽織っているが、そのリラックス感はさてはおうちワンピースか?
「おじゃまします」
ちょっと照れくさそうに上目遣いで笑う遥を、どうぞと招き入れリビングに案内する。
「え?なんか広いんだけど。ここに一人で住んでるの?」
「うん。ちょっと急いで引っ越したから、空いてて良さそうな所なら良いやと思ってさ。こちらがリビングでございます。あ、そこのソファに座って。コーヒー淹れてあるけど飲む?一応ペリエとビールもあるけど」
「あ、コーヒーお願いします。ビールだと寝ちゃうので」
「了解」
そうだ。この人は酒を飲むとすぐ眠くなるんだった。
「お土産があります。うちにあったトマプリ持って来た。あと、冷凍庫に入れておいた冷やして食べるポッキー」
「おお、おつまみ補強だ」
「あとね、今日のお弁当用に作った一口肉じゃがと鶏肉味噌マヨと卵焼きも。多めに作ってあったやつ持って来た。良かったら夕食にどうぞ」
「いいね。じゃあさ、ご飯炊こうか。炊けたら一緒に食べよう」
「…うん!」
あ、しまった。箸がないな。割り箸あったか?あるな、よし。とりあえず炊飯セットだ。無洗米だから水を入れてスイッチオンすればいい。簡単だ。
遥は部屋の中を見回してちょっとそわそわしている。「学生の頃の部屋とは随分違うでしょ?」と言うと、「広くてびっくりした。でも、何だろう?色々違うのに何だか懐かしい気もする」と言う。あれか、カーテンの色合いや、相変わらず家具が黒なのが同じだからか?
「コーヒーそのままでいい?牛乳と蜂蜜あるからカフェオレも出来るけど?」
「ありがとう。カフェオレがいいな」
「おっけい」
牛乳を温め、いざカフェオレと思ってカップが一個しかない事に気付いた。人が来る事を想定してなかったので自分のカップしかない。カフェオレだからスープボウルで良いかとも思ったが、いや、カップを遥に進呈しよう。俺は持ち歩き用のタンブラーにした。
コーヒーを淹れて、ソファの遥と向き合うようにテーブルを挟んで床に座る。
「じゃ、まずはコーヒーで乾杯」
「「お疲れ様でした!」」ウェ〜イ!
コーヒーを飲んでプハー!というのもおかしなものだが、まあそんな感じで、まずは買って来たつまみを話題にどうでも良いおしゃべりをする。そして、こんなに近所にいたのに、全然会わなかったのも不思議だねと話し、それから肝心の話題に持って行く。
「ええと、それじゃ、さっきの話の続きを…」
「そうだね」
そう言って、遥が首のネックレスに触れた。ああ、着けて来てたんだ。緊張していて気付かなかった。
「それって、あれだよね?」と言ってみる。
「…うん」
「今日さ、ずっと着けてたでしょ」
「これは…ずっとお守りにしてて、大切な時は必ず着けるようにしてるの」
「そうなのか。俺は、まだ持ってたのかって思ったよ。ちょっとびっくりした」
「私には本当に大切な物なの。…あのね、話したい事があるって言ったけど、昔の事だし、もう今更話しても仕方ないかなとも思ったの。でも、やっぱり本当の事を聞いて欲しくて」
「それは、俺と一緒にいると辛くて無理だって言った事について?」
「うん」
「…何か言いにくい事なのかなとは思うけど、でも、流石にもう時効だしな。聞くよ」
「ありがと…。でもね、言いにくい事じゃないの。あの頃は言いにくいというか、怖くて言えないって思ってたんだけど…、でもそれが間違いだったのがわかったから」
「間違い?」
「間違いというか、誤解かな。きっとね、今の私だったらあんなに言えないなんて悩まなかったと思う。今の私だったらもっとちゃんと状況判断も出来たと思うんだけど…あの頃はそうじゃなくて。リオンにお姉さんぶってたけど、21歳ってそんなに大人じゃないんだよね」
「…」
「お別れしてからも理由が知りたいって、何かだめなら直すって一生懸命何度も言ってくれたでしょ。でも、私がリオンとお別れしたいって言ったのは、本当に私が悪かったの。リオンは何も悪くないの。あの時、ちゃんと言えなくてごめんなさい」
そして遥が話し出す。俺達が付き合い出して半年が過ぎた頃、急に彼女の様子がおかしくなった理由を。
始まりは、就職活動の流れで知り合った人達と新年会をやった日だった。
その新年会は俺も覚えている。変な男に気をつけろよと言う俺に「一次会だけ顔を出して帰って来る」と言って行ったやつだ。でも、結局終電を逃して友達の家に泊まる事になったとメールが来た。
電車は終わったけどそんなに遠いわけじゃない。タクシーで帰れば?とか、迎えに行こうかと返すと、大丈夫だよと言うので、「まあ、お泊まり女子会も良いかもね」と返事をしたのだ。
そして翌朝、今から始発で帰るねとメールが来た。その日の夕方会った時は普通だった気がする。
「引き止められて二次会まで残ってたけど、さすがに終電がなくなるから帰ろうとしたのね。でも同じ大学で参加してたユリって子が「うちに泊まりなよ」って言ってくれて。他にも違う大学だけどユリの友達だって子が泊まるって言うから一緒に泊めてもらう事にしたの」
遥が言うには、その時のユリは本当に親切で言ってくれたのだと思うと。
新年会が解散して、遥ともう一人のミクとユリの家に行き、女子3人でおしゃべりをしていた。そこに近くで遊んでいるというミクの彼氏から連絡が来た。ユリもその彼氏とは友人でよく遊びに来る仲間だったらしい。そのノリでミク彼が「俺も行く」とやって来た。
遥はミク彼だけが来るのだと思っていたら、男女合わせて友達も一緒に連れて来た。結局ユリの家に10人位が集まり宴会になった。
急な展開に驚きつつ、ユリも「こんなに来ると思わなかった」とちょっと困っている様子で、「早めにみんな帰すから。ごめんね」と言っていたそうだ。
遥は飲んでなかったが、悪ノリした奴らが遥のオレンジジュースに酒を混ぜた。飲んですぐ気付いて「これは飲めない」と断ったそうだ。その時、ユリが怒り謝らせてくれた。
「あれは演技じゃないと思う。本気で庇ってくれてた。多分自分の家でバカをやられて怒ったんだと思う」と遥は言う。
叱られた連中も不貞腐れるでもなく「悪かった」と謝ってくれた。その後も皆で遊んでいたが、遥は眠くなってしまったので、まだ皆がいるのに悪いと思いながらも、先に隣の部屋で休ませてもらった。皆は帰ると思っていたから。
そして2〜3時間して遥が目を覚ますと、男女入り混じっての雑魚寝になっていて、自分の両脇にはジュースに酒を混ぜた男達が寝ていたので驚いて、始発には早かったがそのまま皆を起こさないで部屋を出て帰った。
「泊まったのって女の子だけじゃなかったのか」と、今になって間抜けな事を言ってしまう俺。
「…うん。ただの雑魚寝だったんだけど、なんか言いにくくて。でも後で話そうと思ってはいたの」
「それはなんて言うか…、今言っても仕方ないけど、知らない連中が来て嫌だと思ったら、その時点で遠慮しちゃダメだよ。そういう時は連絡くれたら何時でも迎えに行ったよ」
今聞いても面白くない話だ。今こうなのだ。あの頃の俺が聞いたら多分「何やってんだよ!」と怒って説教をしただろう。他意は無く、遥も驚いて困ったのだとわかっていても、ヤング俺は遥を責めてしまったかもしれない。いや、多分責めた。
俺もバイトで始発待ちの時に控室で雑魚寝になった事は何回かあったが、女子スタッフもいる時は俺達の方が気を使って、安心して休める様に距離を取り、何なら廊下で寝たもんだ。雑魚寝のルールじゃないけど、俺達は暗黙の了解でしっかりとライン引きをするものだと思っていた。
女の子の方が無防備というか、色々スケベな事を考えないからなのか、職場でそんなことまさかと思うからなのか、仲間を信用しているからなのか、「別に一緒でも平気ですよ〜」なんて言うので「だめです」と皆で叱ったものだ。
眠っている女の子を、しかも彼女でもない初対面の女の子を、男が挟んで両脇に寝るなんて言語道断だ。そいつらは絶対に下心を持って意図的にそこに陣取ったのだ。
遥も起きた時にそれを感じて不快だったから、黙って抜け出し帰って来たのだろう。そして、余計に俺に言いにくかったのだと思う。
「あのね、これだけは先に言っておくけど、本当に何もなかったんだよ。でも…」と遥の顔が曇る。
結論から行くと、眠っていて何も覚えていない遥が誤解する様に仕向けた者がいた。誤解させて悩ませた者が。
それがこの時に泊めてくれたユリだった。彼女の一言で遥が悩み苦しむ日々が始まった。そしてそれは、1年後に偶然街でミクとミク彼に会って話すまで続いた。
話はこうだ。
その雑魚寝の数日後、大学で会った時にユリは遥に言う。「ねえ、うちに泊まった時さ、コング達と一緒に寝て何かしてたでしょ。酔ってたのかもしれないけど、あたしの家でああいうのはやめて欲しいな」と。
コングとは遥の飲み物に酒を入れた二人のうち一人だ。
遥は何のことか全くわからず尋ねると、「覚えてないの?」と呆れたように言われ、「もうお酒飲まない方がいいんじゃない?ああいうの彼氏に知られたら不味いと思うよ」と言われた。
記憶を辿っても何の事か本当にわからないが、何か俺に知られてはいけない事があったのかと不安になったらしい。いくら聞いてもユリは「あたしの口からは言えない」としか言わなかった。
実際には言うような事は何もなかったのだから、言えなくて当然なのだが。
だが遥は、何なのかはわからないまま、ユリの態度からして自分が相当まずい事をしたのではないかと思った。そして俺に知られたらどうしようと不安で眠れなくなり、一緒にいてもどこか落ち着かなくなっていった。
ユリは、無い事をさもあるように仄めかす事で、簡単に狼狽える遥を見て「気分が良かった」と、後に問い詰めた時に言っていたそうだ。
俺は何も知らずに、顔色が悪くなりよく眠れないという遥に、安眠に良い飲み物や寝心地の良い寝具を探したり、体の緊張をほぐそうとマッサージをしたり、眠るまで手を繋いでいたり、ただそばに一緒にいる事しか出来なかった。遥は、嬉しくはあったが、それでよけいに苦しくなったらしい…。
俺が本当は何か噂を聞いていて、遥を疑っているのではないかと思うこともあったという。メールの返信が遅れると不安でキレたのも申し訳なかったと言った。
落ち着かない不安な日が続いていた時、まずい事に遥はそのコングという奴に街でバッタリと会ってしまう。ユリに変な事を言われてから2週間ほど過ぎた頃だ。
コングは普通に友達のノリで話しかけて来た。特に含みがある感じもなかったし、酔っていない彼はしつこくするような様子もなかった。遥は思い切ってユリの家に泊まった時に両脇に彼らが寝ていて驚いてしまった事と、気不味くて皆が起きる前に帰ってしまった事を話し、あの時の事は覚えてないが何かあったか?と聞いてみたのだという。
コングは、いや、別に何も?という様子だったらしい。遥は彼も何も覚えていないのかと、または、そんなにユリが言うほどの事ではなかったのかと思い安堵した。
だが、別れ際にコングが急に思い出した様にニヤリと笑って、「そういえば遥ちゃんてさ、すっごい際どい所にほくろあるんだな。ふたつ並んで」と言った。
それを聞いた遥は戦慄した。
遥のふたつ並んだほくろ。それは、おしめを替えた事がある人か、深い仲にでもならない限り気付かないような、かなり際どい所にある。…俺が発見するまでは遥も自分で知らなかったほくろだ。
「何故、この人がそんな事を知っているの?」
ユリが言っていた「彼氏に知られたらまずい事」というのは、そのほくろを知られてしまうような行動だったのか?知らないうちに自分は何をしたのか?ユリは「コング達」と言っていた。ではコングだけでなくもう一人にも見られるようなことがあった?
驚いて固まっている遥に、そのままコングは何という感じでもなく、じゃあねと行ってしまった。だが、遥はその場で立っているのがやっとだったという。
ただ「すごい所にほくろがあるね」というだけなら、当てずっぽうで言っただけかもしれない。実際、そういう事を言って反応を見ようとする奴はいる。だが「ふたつ並んで」と言われた。
「記憶はないけど、ほくろを見られるような事があったんだって思って。ユリが言ってたのはその事なんだって。リオンに知られたらどうしようって…怖くて」
遥は更に思い悩み、眠れず痩せて、やがて挙動不審になる程に追い詰められて行った。
俺に言わずに、俺にバレない限りは何もなかったと振る舞える人なら違ったのかもしれないが、遥はそれが出来なかった。
嫌われたくない、言えない、でも嘘をつき続けるのが苦しい。怖い。知らないうちに俺を裏切ったのかと悩んで、どうして良いのかわからないままに疲弊していった。
俺がもっと大人で、遥が信頼して不安を打ち明けられるような男だったらもっと違ったのかもしれない。的外れに健康を気遣うだけで、就職活動に気合い入れすぎだとか、決まらなかったら俺に永久就職しちゃえばとか、能天気な事を言うだけで何も出来なかった自分が悔しい…。
「その後に、ユリにまた言われたの。『コングとタケちゃんがあんたのほくろのこと話してたよ。口止めしておいたけど』って。それで、言い触らされてるのをユリが止めてくれてるんだって思って、でも、もう皆に知られてるって怖くなっちゃって。
リオンも本当はもう知ってるんじゃないかって思ったり、まだ大丈夫だって思ったりして。それで、気付いたの。まだ大丈夫ってことは、いつかは知られるって事なんだって」
苦しくて怖くて、それでとうとう俺に別れを告げたのだという。
「一緒にいると辛い」とはそういう事だったのか…。
言ってくれれば良かったのにと言いかけてやめた。
そう思うのは簡単だ。言ってくれれば力になれたのにと。でも遥は言えなかった。言えないくらい悩んで追い詰められていた。それは、どれだけ苦しかっただろう。
「だから、リオンが嫌になったんじゃないの。好きだから嫌われたくなくて、もうどうしていいかわからなくて逃げ出しちゃったの。汚いって思われたくなかった」
悔しいとは思ったかもしれない。だが、汚いなんて思わない。
…でも、ダメだな。あの頃の俺では受け止められないと遥は感じたんだろう。俺の幼さは遥の救いにはなれなかった。不安にさせただけだったんだ。
俺は遥の足元に座って彼女の手を握る。
「気付けなくてごめん。俺がもっと大人だったら思い切って話すことも出来たかもしれないのに…」
上手いことが言えない。あの頃の遥を抱きしめてやりたい。大丈夫だと言ってやりたい。悪いのはユリじゃないか。遥は何も悪くないと。
「お別れするのはすごく悲しくて辛かったの。でも、もしもあのままいても、後から誤解だったってわかる前にダメになってたと思う。だから今でもね、あの時はああするしかなかったと思ってる」
そうかもしれない。あの頃に打ち明けられても、受け止めようと思っても、やっぱり俺は感情的になって遥を傷つけたかもしれない。
「別れてからもリオンが一生懸命に理由を聞こうとして追いかけてくれて、私を諦めないでいてくれて、それは辛いんだけど嬉しかったんだよ。でも、向かい合えなかった。嫌われたくなくて、自分を守りたくてリオンから離れたのよ」
ごめんなさいと言う遥。
確かに俺は急な別れに訳が分からず苦しんだが、遥が感じた不安と、誰にも言う事が出来ない苦しさとは比較にならない。
俺は辛い気持ちを表現出来た。聞いてくれる奴らもいた。だが、遥そうじゃない。一人で不安と恐れの中で心を押し殺さなければならなかった。
「俺は全然頼りにならなかったなあ…」
「リオンだけじゃなくて私も、二人ともまだ子供だったんだよ。私もね、今だったらあんなに悩む前に何かがおかしいってきっと気付けたと思う。
ほくろの事だってさ、冷静に考えれば、友達に話した事があったんだよ。私が惚気気分で自分でしゃべってたの。だからユリも誰かに聞いて知ってたみたい。
後でミクちゃん達に会って話した時にわかったんだけど、コング達にもユリが教えたんだって」
冷静になって考えれば何もなかったって気付いたかもしれないのにね、と遥が自嘲して笑う。
真実、あの夜は何もなかったのだ。ただユリの家で雑魚寝をしただけ。そのコングとタケという奴はスケベ心ありで隣に寝たのは間違いないが、何もせずただ隣で寝ただけだった。
「私、別れてからずっとリオンを避けてて、しばらくしたらリオンも私を避けるようになったでしょ?」
ああ、何とかやり直せないかと追いかけ回して避けられ、やがて俺が自棄になって行った時期だ。俺も遥を避けるようになってた。
「あの頃さ、リオンが取っ替え引っ替え女の子と遊んでるって聞いて、仕方ないんだって思ったけどすごく悲しかった」
「…」
「責めてるんじゃないの。…ただ、本当は私のリオンなのにって悲しかった。勝手だけど。ずっと好きなままだったから。すごく自分が馬鹿だって思って悲しくて」
実家の方に就職を決めたのも、もうこっちにいられないと思ったからだという。
「自分で壊して終わりにしちゃったんだからって、痛い現実から逃げようとしたんだよね。しかも上手い具合に地元で就職が決まっちゃってさ、これが運命なんだって思った」
別れてから1年が経ち、俺も自暴自棄から立ち直ってはいたものの、相変わらず遥の事は避けていた頃、遥は就職先を地元にした為、あの新年会の日の後は会う事もなかったミク(とミク彼)に街で偶然出会った。
あの日の事を知っているであろう二人に、皆がいる所で不快な事をしてしまって申し訳なかったと謝罪したらしい。ミク達が何の事だと不思議そうにしているので、ユリに聞いた事をぼかして言うと、「何言ってるの?遥ちゃん酔っちゃって先に寝ただけじゃん!」と言われた。
そしてわかった事。
「え?あの日は皆で雑魚寝になっただけだよ?あたし最後まで起きてたけど、遥ちゃんも皆もただ寝ちゃってたよ。
ああ、コングとタケね。あいつらさ遥ちゃんが可愛いって言って俺が隣に寝る、いや俺だってふざけてたけど、そのまま眠っちゃってただけ。だよね?」
「うん。俺もさ、あんまりあいつらがふざけるようだったら止めなきゃって思ったけど、でも寝ちゃったんだよ。もう、横になってすぐ。で、俺達はしばらく喋ってたんだよね。んで3時過ぎか?4時前だよな、俺達もちょっと横になろうって寝たの。
遥ちゃんが始発まで時間があるけど帰ったってんだったら、起きたのは俺達が寝てからそんなに経ってなかったんじゃないか?」
「何もなかったよ、大丈夫だよ。何でユリそんなこと言ったんだろ?え?ほくろ?ああ、それね…ユリが言ってた。本人寝てるとこでちょっとと思ったけどさ、ちょうど皆で恥ずかしい話してたとこだったから。
え?コングが言ったの?うわバカ。スケベ面してたでしょ。きもいよね。もうね、次会ったらぶん殴っていいから」
「俺ぶん殴っとこうか。な?代わりに殴っとくから、許してやって」
…だそうだ。何もなかった。
確かに無防備に寝ちゃったのは不用心ではあったが、皆そんなに変な奴らじゃなかった。
じゃあ、何故ユリがおかしな事を言ったのか、だ。
遥はユリに話しに行った。何もなかったと聞いた。何故あんな思わせぶりな事を言ったのかと問い詰めたそうだ。
理由は「嫉妬」だったそうだ。
ユリも元々は悪い気持ちはなかったのだと言う。ただ、彼女は俺に気があった。声を掛けたいと思っていたのに、いつの間にか遥と付き合っていたので悲しかったというか、がっかりした。だが仕方ないと思っていた。
そして、俺を気にかけるとともに、何となくいつも一緒にいる遥の事も気にかける様になっていたらしい。新年会の時に終電が無くなったならうちに泊まれと誘ったのも、本当に親切心からだった。
友人がなだれ込んで来てしまい申し訳ないと思ったし、そこで飲めない遥のジュースに酒を入れた友人に対しても本気で怒った。
眠そうな遥に無理せず休んでと言ったのも思いやりだった。だが、その後やたらと友人達が遥を可愛いと言い、彼氏がいると知って残念だと盛り上がる。
気安い仲間の軽口ではあるが、遥を持ち上げると共にユリやミクを下げるような事を言って笑っている。ミクはまだいい。彼氏が一緒にいてフォローしている。
ユリは笑いながらも、自分は皆を夜中に部屋に受け入れ気を遣っているのに、軽口なのはわかるが落とされて哀しくなって行った。酒が入ってたせいもあるかもしれないが「なんであたしばかり」と思った。
そしてもう寝ようとなった時、友人達は「遥ちゃんの近くで寝ちゃおうっと」と言って「お前はいいからあっちに行け」と言った。哀しさが悔しさになって怒りになった。
その怒りはふつふつと消えなかった。遥から黙って帰ってすまなかった、ありがとうと連絡があっても無視をした。そして皆には「泊めてやったのに何も言わないで帰った礼儀知らず」等と言って溜飲を下げていた。
その数日後、遥に会った時にとうとう誇張したイヤミを言ってしまった。ショックを受けている遥を見て少しスッキリしたが、遥が俺と一緒に笑っているのを見るとまたモヤモヤして、そこから止まらなくなったのだという。
それを聞いた遥は気持ちはわからないでもないが、それ以上に許せず「思い切りひっぱたいた」そうだ。
ユリは叩かれても泣きもせず、「悪かったとは思っている。でも、あたしもリオン好きだったから。彼と寝たし!」と言ったそうだ。
俺は思わず、握っていた遥の手を離して、「え?」と言った。
…俺よ。
そのユリがどんな子だったか正直よくわからないが、確かに当時の俺はやったかもしれない。
自棄になっていた数ヶ月、俺は実に派手に遊んでいたというか、来るもの拒まず去るもの追わず、寄ってくる女とは誰とでもOKという節操のない男になっていた。
昨日の子の友達?オッケー、こないだ付き合った子の姉?全然OK、母娘…は流石になかったと思うが、それはそれは沢山の女と付き合った。
小山内と大越には「お前が猛威を振るっているから、ハイエナカルテットにおこぼれが回って来ない」と苦情を言われ、内藤は「いいのか?遥先輩が悲しそうに見てたぞ」と言い、田中は「見てて痛々しいから、もう暴れん棒将軍はやめろよ」と言い。
何を上手い事言ってんだよと返しながら、そうか俺は痛々しいのかとぼんやり思っていた。
その時に俺は、遥を陥れ、俺達を引き離す元になった女とも遊んでたのか?
「ご、ごめん…」
「うん。何も知らないんだから仕方ないって頭では思っても、すごく悔しくて悲しくて腹が立ったよ。今でも思い出すとムカつく」
事実が判明して、ユリの思惑も明るみに出て、遥は俺と話さなければと思った。だが、俺はその頃には携帯番号もメアドも変えてしまって、バイトも辞めていた。
大学で会わないと話が出来なかったが、会っても俺に無視されてしまう。カルテットに伝言を頼んでも俺が聞かない。とりつく島がなくもう遅いのか、ダメなのかと諦めかけた。
ちょうどバレンタインの時期だったので、チョコを渡そうと思ったらしいが、なんとその前後の数日、俺は大学を休んで実家に引っ込んでいた。
マンションに戻った俺は郵便受けに入っていたチョコは受け取った。誰と遊んでも住んでいた所は教えなかったので、郵便受けを見た時に何となく「ハルだな」と思ったのだ。
「ええ、チョコは頂きました。…何だよって思ったし、実は毒でも入ってるんじゃないかと思ったけど、数日してからだけどちゃんと食ったよ」
「卒業式に来てくれたでしょ。あの時に何としても全部話さなきゃと思ったけど、でもリオンが「さようなら」って、私のことを「遥先輩」って呼んだから、ああもう本当に遅いんだって思って…諦めたの」
まあ、諦め切れてはいなかったんだけどね、と笑う遥。
「遅くなっちゃったけど、ちゃんと謝らせてください。あの時は私も辛かったんだけど、でもリオンをわけがわからないまま振り回して、失礼な別れ方をして…すみませんでした」
姿勢を正して頭を下げる。ああ、なんて綺麗な人なんだろう。
どうしようもなかったじゃないか。俺もダメだったじゃないか。真実がわかれば、遥が謝る必要なんてない。遥は被害者じゃないか。
「俺さ、卒業式で最後に笑顔でお別れしようと思ってたのに、泣きそうになったんだよ。それでカッコ悪いの見せたくなくて、すぐに後ろ向いて立ち去っちゃってさ。あの時にちゃんと話してれば良かったのかとも思うけど、でも、あれだな、必然ってやつだったんだな。
俺達、一回完全に離れないとダメだったんだと思う。なんか変な言い方だけど」
「うん。私もそう思う。今こうして話せてるから思えるんだろうけどね。
あのね、4月に会った時、本当に嬉しかったんだ。やっぱりこの人が好きだって、なんか湧き上がるみたいに自分の中から何かが流れ出して来て。でね、笑っちゃうけど、鐘が鳴ったみたいな気がした」
うふふと笑う顔が、本当に嬉しそうだ。
俺も鐘が鳴ったんだよ。再会した時じゃないけど。その後だけど。
「実家に帰ってからもお付き合いした人はいたし、結婚の話も出たんだけど、でもどうしても決められなかったの。親にも色々言われて、自分ってわがままで皆に心配とか迷惑かけてるんだなって思ってた。
でも、あの日リオンに会って自分は間違ってないって確信したんだよね。なんかすごくそう感じたの。力が湧いて来るっていうか、自分らしく生きようって思えた。だから、リオンは特別なんだよ。私の天使なの」
このネックレスも、宝物でお守りだってのはそういう感じなんだ、と笑う遥。 さっき俺の事を、やっぱり好きだって言ったのは自分で気付いてるのかな?
「俺も、再会した時にハルのこと天使だと思った」
え?そうなの?と言って何とも言えない恥ずかしそうな顔をするのを見て、愛しい気持ちが湧き上がって来る。
これはもう懇願するしかないだろうと思った。ソファに座っている遥に跪き、手を取って見つめる。驚いている遥に俺は言う。
「ハルに会ってからどんどん幸せになって来てるんだ。やり直すんじゃなくて、新しく始めたい。俺はこのままずっとハルと幸せになりたい。どうか俺とけ…付き合ってください」
また、結婚してくださいと言いそうになった。なんだ?もしかしたら結婚してくださいと言った方が正解なのか。いや、それはまだ早いよな。
「ハルって呼んでくれた…」と言ってポロポロ泣き出す遥、いやハル。
「私もリオンと幸せになりたい。ずっと一緒にいたい」
「うん、そうしよう」
俺はハルを抱きしめた。ハルもそっと俺の背に手を回す。そして思い出した様に言った。
「リオン、ジャー・エルスカル・デグ」
…え?
俺がきょとんと顔を覗き込むと、少し考えてから伝わっていないと気付いたのか言い直す。
「…? じ、ジャー・エルスカル・デグ?…あれ、違う?」
「もしかして、Jag älskar digって言いたい?」
「それだ!愛してますって意味だよね?」
「発音が違う。ヤ エルスカル ディ だよ」
「間違ってた!一生懸命覚えたのに、この9年ずっと間違えてた!?」
「9年前から覚えてたのか。そっか…ハルちゃん、Jag älskar dig 」
「ん」
「ちゅー?」
「…ちゅー」
俺のちゅー?の問いかけに、目を閉じて口をちゅー待機の形状にするハル。
ちゅーって何だって?馬鹿みたいなやり取りだって?だが真剣だ。かつてバカップルだった俺達の本領発揮だ。
俺はハルにキスをする。軽く触れるだけのキスで終わると思うなかれ。発進した瞬間にトップギアで爆走するぞ。一気に濃厚な大人の口づけの世界に突入だ。手加減無しだ。
どのくらいそうしていたかわからないが、やがて俺も落ち着きスローダウンして離れる。目を閉じていたハルがぼんやりと目を開けてから、口を尖らせながら俺の肩にぺったり頭をつける。なんだ、不満か?もっとする?
「どした?」と尋ねると、ハルが不機嫌そうな声で「…なんか、リオンの経験値が上がっているのが悔しい」と言った。「私の知っているリオンのキスと違う」と。
「それは…俺もまあ、色々とあれだったから」
「わかってるけどさ。でも、なんか悔しい」
「これから二人で一緒に、じっくりと経験を重ねていこうって事で、折り合いをつけてください」
「うん」
「これからずっとハルだけだからね?」
「うん」
「ハルもね?これから一生俺だけね?」
「うん。あ」
「言質を取ったぞ」
「取られた」
嬉しそうに「えへへ」と笑うハルを抱きしめる。俺にしては上出来だ。このままもっとハルを俺のものにしたい。でも、それはさすがに急ぎ過ぎなのか。それとも、もう大人なんだから良いのか。
そう思っていると、ハルが「湯上がりセクシーリオンがいい匂いをさせて私を誘う」と言いながら俺にのしかかって来て、そして俺は襲われた。
襲われた。
もう一度言う。襲われた(笑)。
俺を押し倒して、はむはむと俺の唇を自分の唇で弄ぶハル。あんまりセクシーとは言えない、子供が戯れているような甘えた動きに、「ハルちゃん、積極的」と笑うと、「今度は誰にもとられないようにマーキングしておかないと」と更に擦り寄り、そのまま首筋をはむはむする。くすぐったい。というか、そんなんでマーキングになるのか?
そのままハルが好きなようにするのを、黙って受け入れていようかと思ったがやめた。俺だってはむはむしたい。
「お嬢様、交代です」と言って、遥をギュッと抱きしめながら起き上がる。そして横抱きに抱き上げ、そのまま寝室にご招待だ。
ハルが小さな声で「え…」と言ってから俺の首にしがみついて来た時、炊飯器がご飯が炊けたと知らせて来た。だが、今はそれどころではない。
夕食はしばらく後で。
ちょっと遅れたところで大して問題はないのだから。
ルビーの指輪を買うか、ダイヤモンドにするか密かに思案中。