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それから約二時間後、私は赤羽一番街商店街にある浜焼き居酒屋のトイレで、盛大に吐いていた。
結局私はトーコさんに逆らえず、三人で飲むことになり、荒川から赤羽の繁華街まで三人で歩いて、昼からやっていた浜焼き屋に入って飲み、睡眠不足と疲労から吐き気を催したのだった。
胃に入っていたものをあらかた吐いてトイレの水を流したあと、しゃがみこんで便座に両手をついたまま、私は、なんで自分がこんなに辛い思いをしなければならないのか、心からいぶかしんだ。私はただ、ベッドでたっぷり眠りたかっただけなのだ。
まだ吐くものが少し胃に残っているような感じがしたので、私は便座に座って休息しながら、吐き気が再発しないか待った。トイレの正面の扉には、「アルバイト・正社員急募!」と書かれたチラシが貼られていた。
便座に座りながら、いまごろ店のテーブル席で盛り上がっているだろう、連れの二人の女性のことを思った。私が中座するまで、トーコさんとユウミちゃんは完全に意気投合して、風俗店や援交で体を売ったときに客との間に起きた笑い話を延々としていた。二人は(特にトーコさんは)、際限なくそんな話をしたが――、どれもあまり上品な話ではないので、ここへの詳述は避けることにする。
先ほどの身の上話の中で、トーコさんは「男なんてみんなクズ」と言っていた。恐らくユウミちゃんも、同じような思いでいるのだろう。そうして自分が体を売った男たちの、陰口を叩いて気を晴らしているのだ。しかしそれは少し違うんじゃないか、と、私は便座に座って「アルバイト・正社員急募!」のチラシの募集要項を眺めながら、思った。世の中、女性をきちんと大切にする男が、いないわけではないのだ。
私は学生時代からキックボクシングを習ってきて、この当時も続けていた。その、通っていたキックボクシングジムのインストラクターで、リョウさんという人がいる。リョウさんは私と同い年で、「リョウ・ペガサス」というリングネームで当時活躍していた、プロのキックボクサーだった。リョウさんは女性に対して非常に誠実で、体目当てで付き合ったり、まして付き合いもせずに女性と関係を持ったりなど、決してしない人だった。もちろん風俗にも行かない。そのリョウさんがいつか話した、こんなエピソードがある。
その日リョウさんは、一人で歌舞伎町だったか、どこかの歓楽街を歩いていた。すると若い女の子(高校生くらいに見えたらしい)が、声をかけてきた。用件は「私と援交しませんか」というものだった。
「いくらで?」
リョウさんはそう聞き返したという。「三万円」という答えが返ってきた。リョウさんはそれを聞くと、財布を開いて三万円を出し、少女に渡し、
「これやるから、体売ったりなんてくだらないこと、もうやめろよ」
と言って颯爽とその場を去りたかったらしい。しかし実際に財布を開いてみると、四千円しか入ってなかった。そこでリョウさんは、その四千円を渡して、
「悪い、本当は三万円あげたいんだけど、いま四千円しかないから、これだけやる。体売ったりなんてくだらないこと、もうやめろよ……」
と言って、なんだかかえって格好悪い思いをしながら、その場を離れたそうである。
また、同じく私の通っていたキックボクシングジムの先輩の会員で、Sさんという人がいて、この人も女性関係について非常に謹直だった。
Sさんは私より四~五歳上で、元プロボクサーだった。本業は、アジアンレストランのコックである。
このSさんが、三十歳手前くらいだったころのことだ。ある夜、彼が住んでいたアパートに、同僚のアルバイトの女の子が遊びにきた。女の子は二十歳前後で、その晩、いつまでも帰ろうとしなかった。終電の時間になっても帰らず、要するに完全に女の子にはその気があった。
Sさんにはこの時付き合っている女性は居なかったので、この女の子に手を出しても、誰に責められることもない。しかしSさんは女の子にいくばくかの金を渡し、
「これで漫喫に泊まれよ」
と言ったのだそうである。それでも女の子は金を受け取らず、アパートを出ていこうとしなかった。とうとうSさんは、女の子を残して自分の方が漫画喫茶に出かけて、一夜を過ごしたそうである。
この話を聞いた私はびっくりして、なぜそんなおいしい状況で女の子としなかったのか、Sさんに質問した。するとSさんは、
「……九歳下かあ、って思ってね」
と言った。まだ精神的に幼い女性と都合よく寝てしまうことが、Sさんとしてはためらわれたらしい。
こういった男が、(数は少ないながらも)世の中には存在しているのである。私自身は風俗にも行くし、トーコさんとも体目当てで付き合っているし、「クズ」と言われても仕方の無い男かも知れない。だから先ほどトーコさんに面と向かって「クズ」呼ばわりされても我慢したわけだが――、そうでない男も確かにいるのだ。私は、「アルバイト・正社員急募!」のチラシを見ながら、ユウミちゃんが(ついでに言うならばトーコさんも)、そういうまともな男と出会って、できることならば付き合い、幸せになってくれることを願わないではなかった。
(よし、二人のところに戻って、リョウさんとSさんの話をして、『だからそういう男を見つけて幸せになれ』ってユウミちゃんを説得してみよう)
私はそう思って、便座から立ち、トイレを出た。