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「私はね、いま三十八になるけど――、生きてきて、五歳までしか良いこと無かった。私が五歳のとき両親が離婚して、私と姉は母に付いていくことになって、父と別れたの」
トーコさんは前を向き、髪をかきあげ右耳にかけた。ほっそりした脚を組んで、膝の上に両手を重ねて置いた。そして、長い話をはじめた。
「それまでは、幸せだったのをなんとなく覚えてる。鎌倉に父の実家があって、家族四人で、そのおじいちゃんおばあちゃんの家にしょっちゅう遊びに行ってた。両親、おじいちゃんおばあちゃん、姉、皆に遊んでもらって、手の込んだ料理を食べて、夜布団で眠る時、隣の布団で横になっている両親に、いつも『明日も鎌倉にいられるの?』って聞いて、『いられるよ』って返事が返ってくると、『その次の日は?』ってまた聞いて――、それくらい楽しかった。
それが、大好きだった父が不倫して母と離婚して、それからはまともな良い思い出なんて、ほとんど無い。母は私が八歳の時に再婚して、……その義父が最低な男だった。
義父は姉のことを早くからやらしい目で見てて、多分、姉の初めての相手は義父だと思う。姉は私の二つ上だったけど、そんな義父にうんざりしたんだろうね、高校を中退して家を出て行って、音信不通になった。そのあと義父の標的は私になった。おとなしかった姉とは違って、私は反抗的で気が強い部分があったから、犯されるところまではいかなかったけど、夏なんかに露出の多いパジャマでいるといやらしい目でじろじろ見られたり、ちょっとした拍子に体を触られたり、私の部屋のたんすの中の、下着の位置が変わってる痕跡がしょっちゅうあったりして、私は、姉みたいに家を出ていきたいって、毎日思ってた。
それをがまんできたのは、高校に入ってから付き合いだした彼氏がいたからだった。初めての彼氏で、私は彼のことが大好きだったし、彼が、『将来結婚しよう』って言ってくれたこともあって、私は他愛なくその言葉を信じてた。その彼との付き合いを続けたくて、家にいるのを我慢していたようなものだった。
高校を卒業してから私はある工務店の事務職に就職して、家を出た。彼は都内の大学に入学して、そうなるとなんていうのかな、お互いの世界が違っちゃって、だんだん疎遠になった。そのうち私は工務店の茨城の支店に勤務していた、十も年上の先輩社員と付き合うようなって、一緒に暮らさないかって言い寄られて、工務店の仕事も辛かったから辞めて、土浦のその人のアパートに転がり込んだ。でも二年経って結局うまく行かなくて、関係が冷えてきたとき、高校時代付き合ってた彼氏から、やり直そうって連絡をもらったの。就職が決まったから、これからは前みたいにトーコにばっかりお金出させたりしないからって。
私はもうのぼせあがっちゃって、彼が大学を卒業した三月に高円寺に二人で住むアパートを借りて、のこのこ東京に戻って二人で住みだした。彼はきちんとした会社で働き出して、私はアルバイトをはじめた。……それで私は、幸せだった、自分が小さかったころのような家庭をこのまま作れるんじゃないか、って思っていた。
バカみたいな話だよ。彼は半年もしないうちに会社辞めて、私を初めはキャバクラに、そのうちヘルスで働かせるようになった。会社を辞めてすぐのころは転職活動もしてたんだけど、そのうちそれもしなくなって、完全なヒモになった。私はより給料の良かったヘルス一本に仕事を絞って、働いて、それでも高校時代に彼が言ってくれた『将来結婚しよう』っていう言葉を信じ続けてた。
そうなって二年近く経ったころ、二十四の時に私は妊娠した。気をつけてはいたし、働いてる店のルールは守っていたんだけど、仕事が仕事だから、客との間の子である疑いも周りから見たら否定できないじゃない? 彼氏に相談したら、堕ろしてくれって、簡単に言われた。
一人で産婦人科に行って、全身麻酔を受けて眠っている間に中絶手術を終えて、目が覚めてしばらくしたら、お医者さんが『赤ちゃん見ておきますか』って言ったの。私は、普通見るものなのかな? って思って、軽い気持ちで見てみたんだけど――、その、赤い、小さな、全然可愛くないグロテスクなものを見た時に、なんだか、『パーン』って、頭の中がはじけちゃって。私何してるんだろう、って思って、涙が次から次へと溢れてきた。
その三ヶ月後に、私は子宮摘出手術を受けた。もう、あんな思いは二度としたくないと思ったから。本来なら子宮の病気がある人が受ける手術だけど、仕事柄妊娠したくないって理由で摘出手術を受けた同僚の女の子がいて、その子から、病気じゃなくても手術をしてくれる病院を紹介してもらったの。
手術が終わって退院して、高円寺のアパートに戻ったとき、ああもうこれで自分は一生幸せな家庭は作れないんだな、って、すごく虚しくなった。でもそれ以上に、堕ろしちゃった赤ちゃんに悪くて悪くて、二度とああいう子を作らないようにしないといけない、私にはその義務がある、って思っていた。
手術でできたお腹の傷の抜糸が済んでから、私は風俗の仕事に戻って、彼との付き合いはそれからも少し続いた。だけど――、ある秋の夜のことだった。私がお風呂から出たら彼がリビングで友達と電話をしていたから、私はリビングにつながる扉の前で、なんとなく立ち止まって耳をすませた。で、聞いちゃったの。彼が、『……だって、病気でもないのに、二度と妊娠したくないからとかいう理由で、子宮取っちゃったんだぜ。マジやばい女。金さえあったら、いいかげん別れるんだけどな、ははは』って言ってるのを。
私はなんだか、それまでずっと大切にしまっていた何かが、がらがら音立てて崩れていくのを感じた。扉の前で立ち尽くして、目の前が真白になった。次の日、すぐ荷物をまとめてアパートを出た。
それからは本当、何もない。何もないよ。風俗である程度長く働いちゃって、他の仕事ができなくなっていた私は、都内の風俗の店を転々として、数え切れないくらいの客を取って、さんざん男と付き合ったり別れたり……、ただ、齢を取ってきただけ。本当、何も良いことなかった。だからユウミちゃんの気持ちはすごくよく分かる。もう、なんで生きていかなきゃならないのか、なんのために生きていけばいいのか、私も分からない。でも、こんな私でも、まだ、生きてる。生きてるから、生きていかなきゃならないの。ユウミちゃん?」
そこまで話して、トーコさんは言葉を切り、隣に座る援交少女の顔を見た。
「あなたはまだだいじょうぶだよ。私なんかでも生きていけてるんだから。きっとなんとかなる。あなたは若くて、お母さんがいて、子宮だってあるんでしょう?」
「……」
「……」
私とユウミちゃんは黙った。
「ふっ、ここ笑うところよ。あなたも援交なんてやってたら分かると思うけど、男なんてみんなクズ。私の経験上はね。お父さんも、義父も、結婚しようって言ってくれた彼氏も、その他の男たちも、この人も(そう言ってトーコさんは私をちらりと見てきたのである)、みんなクズだった。でも、世の中には男の他にもきっと良いことがあるのよ。ユウミちゃんがきちんと求めて努力していけば、必ずそれにたどり着くから」
これで三十八歳の風俗嬢の話はおしまいだった。
私は、さすがトーコさんだな、と感嘆した。眠気も何も、吹っ飛んでしまった。ユウミちゃんの身の上話も重かったが、トーコさんの話の暗さは圧倒的だった。ユウミちゃんがメンヘラ界の小結とすれば、トーコさんは間違いなく横綱である。
一方でユウミちゃんは、トーコさんの話をどう受け取ったか――ユウミちゃんがトーコさんの方を向いていて、私からはその横顔が良く見えなかったので、はっきりとは分からないが――、私が見た限りでは、教師の説教を良く聞いている小学生のように、時々こくん、こくんとうなずいて、おとなしく話を聞いていた。どうやらトーコさんの話はユウミちゃんの心に深く突き刺さったようだった。トーコさんの話が終わるとユウミちゃんはこう聞いた。
「その、『男の人以外の良いこと』って、例えばなんなんですか?」
その問いに、トーコさんはちょっと困った表情をしてみせてから、
「例えば? 例えば――、そう、これから私たち三人は赤羽の居酒屋で気の済むまで飲む、ってことよ。この人のおごりで。正巳くん、いいでしょ? 私さっき川にバッグ落として、財布もキャッシュカードもマンションの鍵も、全部失くしちゃったから」
と言ったのである。