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「ねえのど渇かない? どこかに自販機あるといいんだけど。無い?」
「この辺には無いでしょ。がまんしようよ」
「そう。ユウミちゃんも、のど渇いてない? だいじょうぶ?」
「はい、だいじょうぶです」
トーコさんがそんなどうでもいいことをしきりにしゃべるのは、本当にのどが渇いているからではなく、場を和まそうとして言っているのが明らかで、そうやって気を遣える彼女に私は少し好感を抱いた。
少女を助けたあと、私たちは水門の先の小島――正式名称は「荒川赤水門緑地」というらしい――にあるベンチに座って、少女から自殺未遂をしたいきさつを聞いていた。私たちは名前を紹介しあって、私とトーコさんは少女がユウミという名前だと知った。
小島は「緑地」という名の通り草で覆われ、樹が何本か繁っている。水面の上に出ている上面は二~三十畳ほどといった広さで、錆びた金属のような素材でできている塔型のオブジェと、石碑がある。
ベンチはこの緑地の中央にある。木製の、背もたれが無い長椅子が三つ、コの字型に組み合わさっているかたちだ。ベンチの置かれた床は石造りで周囲から一段高くなっており、藁葺きの屋根がついている。
私たちは三つある長椅子のうちのひとつに、左から私、ユウミちゃん、トーコさんの順で並んで座った。座ると緑地の樹のこずえが目の前に見え、その合い間から春風にさざ波立つ川の水面がのぞいていた。
ユウミちゃんを助けたあと、私はすぐ警察か彼女の家族に連絡しようとトーコさんに主張した。しかし、トーコさんが「この子にもいろいろ事情があるだろうから、まずは私たちが話を聞いてやるべきだ」と言って、結局目についたこのベンチで話を聞くことになったのだった。
「それで、なんであんなことしたの?」
のどが渇いたという会話が済んだ後で、トーコさんはいよいよそう質問した。ユウミちゃんは目を伏せた。まつ毛が長かった。私はそういうユウミちゃんの表情を横目で見ながら、(かわいいな)と、場の状況と関係の無いことを不謹慎に思った。
「はい。……私、いま高校二年なんですけど、留年が決まって」
ユウミちゃんがしゃべりだした。やや低い、齢の割に落ち着いた声をしていた。少女はとつとつとしゃべった。
彼女が出席日数不足で留年が決まったのは、この一月のことだったそうである。そのため来月(四月)からは、一歳年下の生徒ばかりのクラスで、友達も全くいないなか学校生活を送らなければならない。それを思うと絶望的になって、自殺を考えた……。
かいつまんで言えば、それがユウミちゃんの自殺未遂をした理由だった。トーコさんはユウミちゃんの方を向いて、しつこいくらい丁寧に相づちを打ってそれを聞いていた。ふと私が見ると、トーコさんは、ワンピースの生地に隠れたユウミちゃんの膝に片手を置いていた。
「なんで、出席日数が足りなくなっちゃったのかな」
ユウミちゃんの話がいったん途切れたので、私が聞いた。
「……」
彼女は答えてくれなかった。
「どうして?」
トーコさんが促すと、少女は口を開いた。
「二学期のはじめくらいから、病気で学校、ずっと休んじゃったんです」
「そう――病気じゃ、仕方ないね」
私は上っ面だけでそう言った。読者からひんしゅくを買うかも知れないが、この時の私の心境を説明すると、実際のところ私はユウミちゃんの話を聞くのがだんだんめんどうくさくなりはじめていた。彼女の自殺を止めたその瞬間は、興奮もしたし、その後しばらくの間は彼女に対して非常に親身な気持ちにもなったが、こうして少し時間が経つと、気が抜けて例の強力な眠気と疲労が復活してきていた。正直さっさと話を切り上げて、ユウミちゃんを家に帰し、トーコさんにも帰ってもらってベッドで眠りたい、と私は思いはじめていたのである。
「でも留年したって、いや、たとえ高校辞めたとしたって、いくらでもやり直しはきくんだから。長い人生の中のたった一年、二年のことだよ。考えようによっちゃ、大学受験で一~二年浪人するなんて当たり前のことじゃん。その浪人生たちと、同じスタートラインに立ったと思えばいい。だからそんなことで――いや『そんなこと』って言ったら悪いけど――、死ぬことないよ」
「……」
ユウミちゃんは分かってくれたのか、それとも心に響かなかったのか、長いまつ毛をしばたたかせて私の説教を黙って聞いていた。するとそこでトーコさんが、
「本当にそれが死のうとした理由? 何か他にあるんじゃないの」
と言い出した。
「……」
「だいじょうぶ、私は誰にも言わないし、あなたが何をしていてもあなたのことを軽蔑したりもしない。こうしてたまたま会っただけで、利害関係も何もないんだから、言っちゃえばいいでしょ」
すると、そうトーコさんに諭されたユウミちゃんが、
「……出席日数を水増ししてくれそうだったから、担任の先生と、したんです、何回か」
と打ち明けはじめたから、私は驚いた。
「そう」
見ると、相変わらずトーコさんはその手をユウミちゃんの膝に置いていた。
「なのに結局、留年するのは変わらなくて……。私、だまされたって気づいて、『このままだと私としたこと、教育委員会に言いますよ』って、一ヶ月くらい前だったかな、言ったら、なんだかその場はうまくごまかされて、後になって……その担任、私が他の男の人と援交してる時の写真を出してきて『これ以上脅すとこの写真を親や友達、学校にばらまくからね』って脅し返してきたんです。それが昨日だったんです」
「それで死にたくなっちゃったのね?」
「はい」
「先生はいくつくらい?」
「齢ですか? 四十二、って聞きました」
「そう。援交してる他の男の人も、おじさんばっかり?」
「はい。……齢とってるほうが、危なくないし、お金も持ってるじゃないですか」
トーコさんの手が、ユウミちゃんの膝頭を軽く掴んだ。
「そうじゃないでしょ? いや、それはそうかもしれないけど――、あなた、お父さんがいないんじゃない?」
ユウミちゃんはトーコさんの顔を見たまま、黙った。
「そうなのね? それでそうやって、年上の人に魅かれちゃうんだ」
「……はい。そうかも知れません」
占い師か心理カウンセラー顔負けに、ばんばんユウミちゃんのことを言い当てるので、私はびっくりした。あとでトーコさんにそう言うと、「長年風俗嬢やってると、体売ってる女の子のことは、だいたい勘で分かっちゃうのよ」と答えが返ってきた。
「お父さんはなんでいらっしゃらないの? 離婚?」
「……去年、血圧の薬をいっぱい飲んで」
「亡くなったの? そう」
トーコさんは尻を援交少女のそばに移動させて、少女の膝に置いていた右手を引っ込めた。代わりに左腕を少女の肩に回した。
ユウミちゃんは泣くわけでも取り乱すわけでもなく、ただちょっとうつむき加減に下を向いて、その低い声で話を続けた。
「それで私、お母さんと引越して、転校して――そうしたら学校に友達もいないし、お父さんのことを思い出すとどんどん辛くなってきちゃって。学校休むようになって、去年の秋ごろお母さんに心療内科に連れていかれて、『抑うつ状態』って診断を受けたんです。そうしたら、お母さん、お父さん死んでから一年も経たないのに新しい彼氏を私に紹介してきて、『これからはこの人がいろいろ助けてくれるから』って言うんです。たぶん、お父さんが死ぬ前から、付き合ってたんだと思います。それで私、本当に嫌になって、お父さんいなくなってから、うちお金も無くなっちゃったし、援はじめて……」
そこまで話して、ユウミちゃんは話を途切れさせた。最後は少し、声が震えを帯びたようだった。なかなかヘビーな話だな、と私は思った。何も、かけてやる言葉が見当たらなかった。
しばらく三人で沈黙したあとで、ユウミちゃんが、
「だから私、もう生きていたくないんです。どうして私ばっかり……」
と小声で言った。するとトーコさんが、そのユウミちゃんの顔をのぞきこみながら、微笑んで、
「そんなことないわよ。だいじょうぶだよ」
と言いだした。