2-2
私たちのいる地点から少し下流――私たちから見て右手――のところで、荒川は二つの流れに分岐している。分岐した手前側の川は隅田川と名前が変わり、その後すぐ新河岸川と合流し、そこから先も隅田川という名称で通っている。奥に流れる川が(名称変わらず)荒川である。
荒川と隅田川の分岐点の近くに、水門が二つある。分岐したばかりの隅田川に架かっているのが「岩淵水門」。青色の門扉をしているので、青水門とも呼ばれている。
そこからやや上流、分岐点のほんの手前に、青水門より小ぶりな、赤色の門扉が目立つ水門がある。「旧岩淵水門」と言って、赤水門とも呼ばれている。
赤水門は、私とトーコさんが立つ土手を途中まで降りたところから伸び、荒川の中ほどにある小島まで架かっている。この小島は、かつては荒川と隅田川を分岐する陸地の先端部分だったそうである。しかし青水門の完成とともに地形を(人間の手で)変えられ、周囲の陸地は数十メートル下流まで削られて、水の底に沈んだ。そして赤水門の架かるわずかな部分だけ、小島となって取り残された、というわけだ。
つまり赤水門は現在の青水門と同じように、かつては分岐したばかりの隅田川の端から端まで架かって、水量調節する役目を担っていたのである。しかし現在はその役目を青水門に譲って、文化的価値という観点から取り壊されることも無く、川の半ばに取り残された妙な小島に架かって、物好きな観光客がちらほら通りかかるのを待っているのだ。もちろん仮に門扉を閉めても、島の向こう側は水が流れっぱなしになるので水を堰き止めることはできず、水門としての役割は果たせない。
「あそこ、あそこに行きたい」
トーコさんがそう言ってその赤水門を指差したので、私はうんざりした。
「まっすぐ帰ろうよ」
「いいじゃない、あそこくらい。すぐだよ、すぐ」
トーコさんはもう土手の階段を降りて、水門へ向かっていた。
河川敷へ降りて、水門に付いている石造りの橋を渡りはじめた。水門は橋の左手(上流側)に、真っ赤なペンキで塗られた五連構えの門扉をそびえさせている。橋の欄干はやはり頑丈そうな石造りで、しかし大人の腰の高さほどしかない。
橋を渡りはじめてすぐ、私は胃の辺りからむっとこみあげてくるものを感じ、吐き気を催した。アパートを出てから感じなくなっていた疲労が、一気に噴出してきたのだった。私は足を止め、前かがみになって吐こうとした。
「ちょっと、だいじょうぶ?」
トーコさんが驚きながら私の背中に手のひらを置き、なでた。
口からは胃液と唾液が混ざったものが少し出ただけだった。喉奥から口の中にかけて、胃液独特の酸っぱさが広がった。
私は吐き気の上に立ちくらみも覚えながら、少しの間立ち止まり、気分が和らぐと再び歩きだした。とにかくこの水門橋を渡ってトーコさんを満足させ、早くマンションまで送ってしまいたい。
「どうしたの」
「なんでもない。だいじょうぶ」
私が前を向くと、橋の半分からやや奥、右側の欄干のそばに、若い女性が立ってこちらを見ていた。女性は紺のニットワンピースにカーディガンを羽織り、足元はコンバースのスニーカー。どういうわけかハンドバッグを橋の石床の上に置いて、手ぶらでいた。女性は彼女のいる方へ向かって歩いていく私たちを、じっ、と見つめてくる。
(吐こうとしてかがみこんだの、変に思われたかな?)
私はそう思って女性から視線を外して歩いた。そして女性のそばを通り過ぎるとき、一瞬女性を再度見た。黒のショートボブ。卵型のつるんとした顔は、雪のように肌が白い。見る者が吸い込まれそうな、大きくぱっちりした二重の瞳。――遠目に見た時より彼女はずっと幼かった。恐らく十代で、女性というより少女と言った方が正しいだろう。
少女は私と目が合うと、無表情で軽く会釈してきた。私とトーコさんもそれに応じて会釈を返した。そのまま私たちは少女の前を通り過ぎた。
「ねえ、なんだかあの女の人、変じゃない?」
もうすぐ水門橋を渡り終え小島にたどり着く、といったところで、トーコさんが私にささやいた。少女の前を通り過ぎた直後から、トーコさんはちらちら少女のことを振り返って見ていた。
「そう?」
私は口の中に広がった胃液の酸味が気持ち悪く、それどころではなかった。相変わらず気分も悪い。
「絶対変だって、ちょっと戻って――」
トーコさんはそこまで言って、また後ろを振り向いた。すると次の瞬間、
「あっ!」
叫び、くるりと方向転換していま来た橋を戻るように走りだした。カッカッカッカッ、と、ブーツのヒールが石造りの橋を踏んづけ、音立てた。
「だめ! だめ!」
トーコさんは全力で走りながらそう叫んだ。走るのに邪魔だったのだろう、パッと、左肩にさげていたトートバッグを放り投げた。トートバッグは宙を舞い、欄干の外へ落下して、ドパン、と派手な水音を立てた。
あっけにとられた私が見てみると、先ほどの少女が橋の欄干を跨ぎ、右半身を欄干の外へ移動させているところだったのである。
私も慌ててトーコさんの後を追った。
少女の右半身はすでに欄干の外に出てしまっていた。少女は欄干を跨ぎ、前かがみになって手前側の欄干を両手で掴んでいる。あと、左脚を持ち上げて欄干を乗り越えてしまえば、少女の体は空を舞って川の水面へと落ちていってしまうだろう。
(間に合わない)
私は走りながらそう思った。
しかしさすがに命を捨てる恐怖にためらいを覚えたか、少女はその欄干に跨った状態で少し静止した。その一瞬を突いて、トーコさんが少女の体にむしゃぶりついた。
「……っ」
トーコさんは少女の右肩と腰のあたりを掴み、有無を言わさずこちら側へ引っ張り込もうとした。しかし少女が抵抗し、欄干の上から動こうとしない。そこへ私もたどり着き、トーコさんと二人がかりで少女を引っ張った。
少女の体はぐるりと半回転して欄干の内側へと落ちた。落ちた、といっても欄干は一メートルほどの高さだから、怪我などはないだろうと思われた。
少女は仰向けに倒れたが、すぐ体の右側を下にして横向きになって上半身を起こし、はっ、はっ、はっ、と息を荒らげた。その大きな瞳を鈍く光らせて、トーコさんをキッと見上げた。私とトーコさんも、呆然とする思いで、はあはあ、息を切らした。
「なんで……」
それがどういう意味だったのか、分からないが、少女はぼそりとそうひと言呟いた。