2-1
トーコさんは志茂駅の隣の赤羽岩淵駅近くに住んでいた。私のアパートからは歩いて二~三十分程度といったところだ。私はちょっと迷ってスーツ姿のまま、革靴で歩くのは嫌だったのでスニーカーを履いて、アパートの玄関を出た。トーコさんはセーターの上にグレーのコートを羽織り、トートバッグを肩からさげた。また誰かに勝手に部屋に上がられるのが嫌だったので、出る時にはさすがに鍵をかけた。
トーコさんが「ちょっと遠回りにはなるけど荒川の土手を歩きたい」と言い出して、もはやどうでも良くなった私はそれに従うことにした。
トーコさんと付き合いはじめたばかりのある夜に、やはり私がアパートからトーコさんのマンションまで彼女を送っていったことがある。その時私の発案で荒川の土手に寄った。月と星と、荒川の対岸に見える埼玉県川口市のビル群の灯りが、綺麗だった。その時のことを、トーコさんは懐かしく思い出したらしい。
数分後、私たちは住宅街を抜け、荒川近くの堤防沿いの細道を上流へと歩いていた。堤防は正確には荒川のものではない。荒川のすぐ隣、こちら側に、荒川と平行してもう一本川が流れており、堤防はその川のものなのである。堤防のある川は隅田川で、後述するが上流へ向かううち、途中、新河岸川と名称が変わる。
灰色の壁をしたその堤防が、私たちの歩く道の右手に続いていた。左手には住宅が建ち並んでいた。しばらくこの道を行くと、堤防の上まで登れるスロープがついている箇所があって、そのスロープを登ると新河岸川に架かる橋に出る。その橋を渡れば、荒川の土手へ行くことができる。
春めいた、すばらしい陽気だった。暖かい太陽がぽかんと中天に浮かんで、私たちの歩く堤防沿いの細道を柔らかく照らしていた。トーコさんは私の隣でしきりに、良い天気ね、と上機嫌に言った。私は、これで寝不足じゃなかったら自分もこの陽気を心から楽しめただろうに、と思った。
途中、ポケットに入れていたスマートフォンが振動したので、確認すると、Mという友人からの電話だった。歩きながら、出ると、
「久しぶり! 元気? 今日さあ、そっち行っていい?」
テンション高めでハキハキそう言ってくる。私はトーコさんを送ってから、帰って十二時間は寝てやろうと思っていたので、とてもそんな気にはなれない。
「ごめん、今日は先約があってちょっと無理」
私は微妙に嘘をついた。
「明日は?」
「明日――明日も、無理かも。明日になってみないと分からないけど。悪い、いま人といるから、また連絡する」
Mが何か言いかけていたのにもかまわず、私は電話を切った。スマートフォンはバッテリーがほとんど無くなっていた。恐らく、アパートに帰る前にバッテリーが切れるだろう。
「いいの? 電話切っちゃって」
トーコさんが言った。
「いいんだよ。大学時代からの友達なんだけど、いつも大した用はないから。Mくんって言ってね……」
それから私はMと私との交友について、トーコさんに少し話した。
どういうわけかMは大学一年生のころから私にまとわりついてきて(という言い方はMに失礼だけれども)、生来友達のあまり多くない私もそんな彼の存在がありがたく、いつも二人で遊んでいた。
大学時代は住んでいた場所も近く、しょっちゅう私たちはお互いのアパートを行き来した。しかし元々人付き合いの良くなかった私は、時々Mとのそんな親密な付き合いが疎ましく思えてしまうこともあった。
「みんなそうだと思うけど、『今日は誰にも会いたくない、一人でいたい』って時、あるじゃん?」
私は左隣を歩くトーコさんの横顔を見ながら言った。
「ある」
「Mくんにはどうもそれが分からないところがあってね。……いまもそうなんだと思うけど。俺とMくんが学生だったころのある夕方に――」
私は思い出しながらしゃべった。
その夕方、私は当時住んでいたボロボロの学生アパートの部屋で、ゆっくりしていた。私の室は一階にあった。私はちょっと風邪気味でもあり、早々と布団を畳に延べて横になっていた。すると携帯電話に、
「いまからそっち行っていい?」
というMからのメールが入った。
繰り返すがその日私は風邪気味で、その上その日はトーコさんに言ったところの「誰にも会いたくない」日だった。私は断りのメールを返信した。すると再びMから、
「いま家出たとこ! あと三十分で着くと思う」
という、私のメールを読んだのか、疑わしくなるようなメールが届いたのである。
私はちょっと怖くすらなって、きちんと断ろうとMに電話した。出なかった。もう一度、
「風邪を引いてるから今日は遊べない」
という意味のメールを送った。しかしいつまで待っても、そのメールに対する返信が無かった。
(仕方ない、もしMくんが来ても、居留守をしよう)
と、私は毛布にくるまりながら思った。
するとしばらく経ってから案の定、
どんどんどん
アパートの玄関戸がノックされた。Mだろう。私は布団に入ったまま、無視した。もう一度、
どんどん……
ノックが続いたが、それも私は無視した。
ノックは止み、あと、静かになった。
(良かった、帰ったか)
私は安心して、ちょうどむらむらしてきたこともあり、一人ですることにした。本棚の引出しに隠していたポルノ雑誌をひっぱり出し、ズボンを下ろそうとしたところで――、
こんこんこんっ
部屋の南窓がノックされたのである。ビクッとして見てみると、閉めていたカーテンとカーテンとのわずかな隙間から、Mのにやけた顔が覗いていた。
「やあ。来ちゃった」
私が窓を開けると、Mはうれしそうに言ったのだった。
「……それで結局、その日も朝まで家飲みに付き合わされたよ」
私はいったんMの話を締めた。するとトーコさんが、
「ふふふ。いまはなにしてるの? そのMくんは」
そう聞くので、私は話を続けた。
大学卒業後、Mは、工事機械のモーターの製造を主力事業にしている、東証二部上場メーカーに就職した。横浜の営業所に配属され、顧客の元に出向いて納品しているモーターを修理する職務に就いた。
この職務が、良くなかった。新人で分からないことだらけでただでさえ仕事は辛い上、Mが出向く時、機械は故障しているのでお客さんの気持ちは一様に荒れており、朝は早く、帰りは遅く、睡眠もろくに取れない。営業所に帰ると先輩になじられる。
……私がトーコさんにこの話をした時点で、Mにはそんな状態が約二年間続いていた。勤続日数を増すごとにMは元気を無くしていき、私と会うときにも後ろ向きな発言が増えていった。
Mと私はある時街コンに参加したが、女の子と話していてもMは仕事の愚痴に入ってしまい、しまいには「本当、死にたいですよねえ」などと女の子に言い出すので、私はフォローに困ってしまったことがある。
それから、Mと会っていない時も、私のスマートフォンにMから突然「死にたい」というメールが届いたこともあった。私は慌てて電話をかけ、しかしつながらなかったので、「とにかく明日仕事を休め」とメールを返し、それにもMからの返信は無く、結局数日後「今度遊ぼう!」というけろっとしたメールがMから来たり、まあそんな精神的に良くない状態が続いていた。
私は親友としてMのことを心配する一方で、この当時は、もう、Mに頻繁に会わないようにしていた。私自身、心身が壊れそうな激務をしているのに、その上友人の心のケアなど、なかなかできるものではない。最近は会ってもお互い仕事の愚痴ばかりで、楽しく過ごした記憶がない。だからこの日も、私はMからの誘いを(翌日の日曜日なら会えないことも無かったのだが)断ってしまったのである。
……と、こんなことをトーコさんにかいつまんで話すと、トーコさんは、
「そうなんだ。結局、引き寄せられてるのよね」
「引き寄せられる?」
「悪い方向に。マイナスな体質の人はそうやってブラックな仕事に就いたり、根暗な恋人や友達と付き合ったり、マイナスな方向に行っちゃうものなんだよ。自分からそっちに引き寄せられて行くの。しかも、マイナスな体質になる大抵の原因は、子供のころの家庭環境の悪さや、トラウマだったりするから、体質を改善するのはすごく大変なの」
発達心理学にでもありそうな話だったが、トーコさんが話すと、いくぶんスピリチュアルな感じがしないでもなかった。いずれにせよ、当を得ていないこともないように思われた。しかし私は、親友をそうやって「マイナスな体質の人間」とやらに簡単に分類されたことに、少し反発を覚えた。
「つまり、俺もMくんの友達ってことは、その『マイナスな体質』の人間の一人ってこと?」
私は若干不満を込めてそう聞いた。するとトーコさんはあっさり、
「うん。自分でそう思わない?」
「……。トーコさんはどうなの」
「私? ふっ。私はあなたたちなんかとは比べ物にならないわよ。マイナスもいいとこ」
そこまで話すうちに私たちは新河岸川の橋を渡り、その先にある荒川の土手の上へつながる階段を登った。登りきると目の前に荒川の風景が開けた。
悠々と流れる川の手前に、短い丈の草が一面に生えた河川敷が控えて、私たちの立つ土手に続いていた。太陽の光をきらきら反射する幅の広い川面の向こうには、やはり河川敷と土手があって、その先に川口のマンションのビルが建ち並んでいた。そのビル群の上に、ところどころ雲の湧いた青い空が、どこまでも広がっている。
「んー」
トーコさんは伸びをして、鼻から大きく息を吸った。