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(まずいな、ますます帰りそうになくなってきたぞ)
うどんを食べながら黙って泣き続ける彼女を眺めつつ、私は思った。特に憐みを感じなかったし、なぐさめるのもめんどうだったので、何も声はかけなかった。
そうこうしているうちにトーコさんがうどんを食べ終わった。椅子から立ち上がって、私の座るベッドのヘッドボードに置いてあったティッシュ箱から、二~三枚ティッシュを抜き取った。再び椅子に座り、ティッシュで涙を拭いて鼻をかんだ。
「ふふ、ごめん」
そう言って泣き笑いすると、右手で目を覆った。まだ涙が出てくるようだった。
(どうしよう、一回抱けば帰ってくれるかな)
私はちょっと考えた。しかし泣いている女性を抱くのが、私は好きではない。
「……酒でも飲む?」
結局私は思ってもいなかったことをまた言ってしまったのである。
トーコさんは右手を目から離し、私の顔を見て、こくん、と小動物のように素直にうなずいた。
(本当、なんで俺は)
眠りたいから帰ってくれ、というひと言が言えないんだ、と、私は自分を罵りながらキッチンでグラスに氷を入れた。
言えないのは私の生来の気の弱さと、トーコさんと私の力関係にあった。私と彼女との付き合いのイニシアチブは、トーコさんが握っているのである。私にとってトーコさんとの付き合いは、ほとんど体目的で、そういう点ではトーコさんは理想に近いパートナーだった。金も手間もかからず、金曜か土曜の夜になるとふらっと私のアパートにやってきて、たっぷりすることをして、朝帰っていく。そんな彼女と別れてしまうと、私は再び金のかかる風俗に通うか、一から手間ひまかけて適当な女性をみつくろうかして、性欲と寂しさを解消させるようにしなければならない。そうなるのは私にはけっこうな痛手だった。だからここでトーコさんに「帰ってくれ」などとへたに言って、機嫌を損じ、彼女との関係を失うわけにはいかなかった。
私はたっぷり氷の入ったグラス二つと、ウィスキーと、炭酸水を部屋に持って行った。テーブルの高さを調節してローテーブルのような高さにし、トーコさんに椅子を片付けてもらい、代わりに座布団を二枚用意して、二人、テーブルの周りにななめ向かいに座った。グラスにウィスキー、炭酸水を注いで、ハイボールを作った。
「つまみが何もなくて悪いけど」
「いい。うどんでお腹一杯だし。ありがとう」
グラスとグラスを合わせて乾杯すると、キン、と虚しい音がした。
それから私は、営業職で身につけたコミュニケーション能力を総動員して、当たりさわりが無くくだらない、しかし笑える話をいくつもし続け、トーコさんの機嫌を直そうと試みた。それは一見、落ち込んで泣いている恋人を元気づけようとする優しい彼氏に見えたかも知れないが、私の心の中には、一刻も早くトーコさんに機嫌を直して帰ってもらって自分はベッドでぐっすり寝たい、という自己中心的な欲望しかうずまいていなかった。
トーコさんが泣き止み、私の話にだいぶ笑ってくれるようになってから、私は「赤羽のUFO」の話をした。
「そういえばさあ、就職してこのアパートに引っ越してきてすぐのころだったんだけど、UFOを見てね」
「……なに言ってるの?」
トーコさんは宗教に勧誘されて「あなた神様信じますか」とでも言われたかのように、ちょっと身を引いた感じで答えた。
「いや、その日休みで夜に友達とここで電話しててね。電話しながらコンビ二に行きたくなって外に出たんだ。で、夜道を歩いてふっと空見たら、もう、青と赤の光がいくつか集まって、ピカピカ点滅してる物体が夜空に浮いていたんだよ」
「へえー」
トーコさんは相変わらず引きぎみに答える。
「それで電話してた友達にさ、『あ、UFOだ、UFO飛んでる』って言っちゃって。友達、引いちゃってね。でも仕方ないじゃん、実際にUFO浮いてたんだから」
「ふうん」
「それで、後で知ったんだけど――、清野とおるっていう人の漫画で『東京都北区赤羽』っていうエッセイ漫画があってね。その漫画に描いてあったんだけど、その作者、赤羽に住んでて(注:私の住んでいた志茂と赤羽はすぐ近所である)、ある夜やっぱりUFOを見たんだって。そうして、UFOの飛んでるその真下まで行ってみたら、荒川の土手にたどり着いて、よく見ると土手の上でおじさんが電飾付きのでっかい凧を飛ばしてたんだってさ」
「それがUFO?」
「そう。『赤羽のUFO』って、けっこう有名らしいよ。しかもそのおじさん、凧あげの名人で、どんどんどんどんその凧を高く飛ばすようになって、ある夜赤羽駅からもその凧が飛んでいるのが見えるくらいの高さまで飛ばしちゃって。それで赤羽駅前に居たたくさんの人が『UFOだ!』って大騒ぎして、そのあとワイドショーにも『赤羽駅付近の上空で、謎の飛行物体が確認されました』って取り上げられたんだって。さすがにそれは迷惑だから、それからは赤羽駅から見えない程度の高さまでしか揚げないようにしてるらしいよ」
「ふうん。……ふふふ」
私は話にトーコさんが笑ってくれたことに満足して、何杯めかのハイボールをあおった。するとトーコさんが、
「……そろそろ帰ろうかな」
と呟いたので、私は心の中で福原愛ばりに(サァッ!)とガッツポーズした。しかし続けてトーコさんが、
「家まで送ってくれない? 天気が良いし、二人で歩きたいな」
と言ってきて――そう言われると女性を家まで送るという行為はなかなか断りづらいもので――、私はげんなりした。