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1-2

「……」


 私は黙った。おかしいな、こんな面倒くさいことを言うような女性じゃないし、言われるような関係じゃなかったはずだけどな、と思った。


「好きじゃないんだ?」


 トーコさんがそう言って、ふっと自嘲気味に笑ったので、私は慌てた。


「いや……、前にも言ったと思うけど、好きっていうのがよく分からないんだ」


「ふうん?」


「前に、すごく好きだった子と付き合ったことがあって、その子のことは確かに好きだったと思うんだけど、これまで付き合ってきた他の女の子のことは、本当に好きだったかって言われると自信が無いかな。でもトーコさんのことは全然嫌いじゃないし、一緒にいると楽しいよ」


「要するに、好きじゃないってことでしょ」


「いや別に……、どうしたの今日、なんかあった?」


私はどうにか話題を転換させようとして、そう聞き返した。


「何が」


「突然うちに来てこんな時間になるまで居て――、俺を待ってる間ちゃんと夜寝たの?」


「ああそうだ、ベッドお借りしました。シャワーも。勝手にごめんなさい」


 その言い方がちっとも感謝している風でなく、白々として、むしろ私を責めているようなのである。


「それはまあいいけど。で、何があったの?」


「昨日の夜、仕事あがってから友達の家に遊びに行ったんだけど、喧嘩しちゃった」


「そう、なんで?」


「……簡単に言うとお金のこと。貸してくれってしつこいの。それもけっこうな額で。断ったら、私の性格とか、風俗やってることとか、散々バカにしてくるから、こっちも頭にきて」


「うん」


「それで友達の家を出て、気が滅入って、正巳くんに会いたくなったからタクシー呼んでここに来た。それだけ」


「友達のうちはどこ? 近く?」


トーコさんは一瞬間を置いてから、


「……赤羽(あかばね)岩淵(いわぶち)


「そう。仕事のこと、バカにされたの?」


「うん――」


 それから私は彼女に、昨晩の喧嘩や喧嘩をした友達に関して、二~三質問した。それでなんとなく想像がついた。質問に対するトーコさんの答えは部分部分でどこか具体性に欠け、作ったような感がある。彼女は私に何か隠しているようである。恐らく――これは想像に過ぎないが――、その「友達」というのが、実は男なのだろう。私とは別の男と痴話喧嘩をして、それに傷ついた気持ちを慰めてもらうため私のアパートに向かった、というのが本当のところではないだろうか。であれば私こそいい(つら)の皮である。


 トーコさんは必死に私の質問に答えようとし、いかにも本当らしく昨晩のことを事細かに話した。それはだんだん愚痴と化していって、そのうち聞いている私の方が次第にどうでもよくなってきた。彼女に私の他に男が居ようが居まいが、私にはあまり関係がない。風俗店で客と風俗嬢として出会って、たまたまお互いの第一印象と、体の相性の良さ等に多少魅かれあって店の外で会うようになり、時々飲んだり、私のアパートでセックスをするようになっただけの関係なのである。いちいち他の男の出入りを気にしていたら、風俗嬢と付き合ってなどいられない。


 連綿と作り話を吐き出すために動き続ける、暗めの赤の口紅が塗られたトーコさんの唇を見つめながら、私は(この話、俺が聞かないといけないかな)と思いはじめていた。部屋への侵入者が知り合いだったことへの安堵感で気が抜けて、暖房のついた部屋の暖かさもあり、再び強い眠気が私を襲ってきていた。いますぐにでもコートとスーツを脱いで、ベッドに横になってしまいたかった。


「うん、……うん」


 私はトーコさんの話に適当に相づちを打ちながら、増大してくる眠気と闘っていた。その眠気をぶつりと断ったのは、


「ねえ、今から鎌倉に行かない?」


という、喧嘩の話から突然切り替わった、トーコさんからの問いだった。


「鎌倉? ……いや、行かない」


 唐突な提案に私は多少びっくりして答えた。まためんどうなことを言いはじめたな、と思った。トーコさんが時々鎌倉へ一人で出かける習慣を持っていることは、それ以前に彼女から聞いていた。なぜ鎌倉を好むのかは、知らない。


「そう」


 トーコさんは能面のような無表情を作って言った。


「ごめん、今日はちょっと。また今度行こうよ」


 私はやんわりとそう答えながら、心の中では(こっちは寝てないんだよ! この人、いいかげん帰ってくれないかな)と悪態をついていた。


「……」


 トーコさんは不機嫌そうに黙って、部屋に沈黙が訪れた。


「お腹減ってない? 何か食べる?」


 沈黙に耐えられなくなった私は、思っていたこととは全然違うことを言った。何か食べさせれば彼女が帰ってくれるかも知れないという期待が、なんとなく心をよぎったからだった。トーコさんはちょっと黙ってから、


「うん」


とうなずいた。


 キッチンへ行って冷蔵庫の中を見た。冷凍庫に冷凍うどんがあったので、めんつゆと水で鍋にだしを張り、葱と大根と人参を細かく切って煮こみ、そのだし汁にうどんを直接入れて温めた。ぐつぐつ再沸騰したところでどんぶりに盛り、最後に卵を落とした。


「あなたは? 食べないの」


 部屋に戻ってテーブルにうどんを置くと、トーコさんが言った。


「腹減ってないんだ」


「そう。……ありがとう」


 すそそそ、すそそそ、とかすかに音を立ててトーコさんがうどんをすするのを、ベッドの端に座って眺めた。


 トーコさんはスキニージーンズに、体にぴったりした黒のタートルネックセーターという格好をしていた。四十手前にしてはよく引き締まった細身の体をしている。小顔で、顎のラインがシュッとして、薄い目鼻立ちを濃い化粧で映えさせて、若い頃はモテただろうなと思わせる顔だ。しかしこうして昼の陽光にさらされると、目尻の皺やほうれい線が目立ち、肌のきめも粗く、三十八歳という年齢は隠しきれていなかった。髪はセミロングの黒髪で、いつもはヘアアイロンでウェーブをつけているが、この時は(ヘアアイロンを持ってきていなかったためだろう)ただまっすぐ下ろして、髪先がやや毛羽立っていた。総じて言えば――赤羽の場末の風俗店の風俗嬢としては、接客された男ががっかりはしないだろうが、「こんな美人に当たってラッキー」とも思えないほどの、そこそこのレベルの容貌をしていた。


 私が彼女を買うようになったのは、その見た目というよりも、彼女が子宮を取ってしまっていて、気に入った客にはコンドーム無しで本番行為をさせてくれるためだった(なぜ子宮を取ってしまったのかは、私は知らなかった。トーコさんは自分の過去についてあまり話したがらない人だったし、私も強いて詮索してこなかったからだ)。それで何度か指名をしていたら、ある時トーコさんの方から私を食事に誘ってきた。その夜私たちはトーコさんが仕事を終えた後で、彼女が働く店のすぐ近くの、赤羽の沖縄料理屋で飲んだ。


 ……その子宮の無い風俗嬢が、部屋の南窓からの陽射しに体を照らされながら、するする、うどんをすするのを私は眺めていた。きっと昨晩は彼女にもいろいろあって、思うところもあるのだろう、と多少同情しないでもなかった。だがやはりその同情心より眠気が勝って、(うどんを食べたらいいかげん帰ってくれるかな)と、思わざるを得なかった。


 しかしそう事は簡単に進まなかった。トーコさんはうどんを食べ進めるうち、うどんをすするその合い間に、ずっ、ずっ、と鼻をすするようになった。透明な鼻水が、小ぶりな鼻から見え隠れしている。ふと私が気づくと、彼女の目からもしずくがこぼれ落ちて――泣きはじめていた。

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