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 なにしろ十年近く前のことなので今ではもうよく覚えていないのだが、事実関係を思い合わせると、たぶんその年の三月末で退社する誰かの送別会だったのだと思う。


 その金曜夜、私の勤めていた部署の飲み会は終電の時間が近づいてきても続き、それからカラオケに移行して結局朝帰りコースになった。カラオケから解放され解散となった時には、繁華街のビルの合間から見える東の空が白々と明けはじめていた。


 ハードな五連勤の後の徹夜に私は身も心も疲れきって、六本木駅のホームで――隣に女性の先輩社員が立って、一緒に電車を待っているのも関係なく――しゃがみこんで、コクリ、コクリと舟をこいでいた。


 ようやく地下鉄がホームに滑り込んできてそれに乗った私は、一も二もなく空いている座席に座って泥のように眠った。見事に乗り過ごし、目を覚ますと終点駅に着いていた。一緒に乗ったはずの先輩社員が途中で降りたことすら、記憶になかった。自分が乗り換えるべきだった駅はとっくに過ぎてしまっている。仕方なく電車を降りて反対側のホームへ向かい、今乗ってきたのとは逆の電車に乗った。


 今度は反対の終点駅まで寝過ごした。


 私は自分のうかつさにがっかりしながら、再度逆の電車に乗った。今度こそ寝過ごさずにきちんと乗り換えをし、当時住んでいたアパートの最寄り駅の、東京メトロ南北線志茂駅なんぼくせんしもえきにたどり着いたころにはもはや午前十時を回っていた。


 私は足を引きずるようにして駅構内を出入り口へと向かった。爬虫類の冬眠用の巣穴を思わせる、トンネル状になっている階段を上って四角い出口に出ると、良く晴れた春の陽が暖かく射して――徹夜明けの目に染みた。


 のろのろと足を運びアパートへ向かう。電車の中で三~四時間は眠ったのだろうが、私はまだまだ眠かった。アパートは駅近くの「志茂銀座」なる活気の無い商店街を北へ行き、そこから路地を一本、東へ折れた住宅街の中にある。


 土曜の昼前のうららかな、そしてどこか間延びした空気の商店街の道の左右には、もう開くことはないのであろうシャッターの下りた個人商店が建ち並んでいた。しかし中にはけな気に営業を続けている店もあって――安い寿司屋、不味い中華料理屋、うどん屋、「お茶」と看板に書かれたなんだかよくわからない店、銭湯、銭湯に併設されているコインランドリーなどは、この日の営業はまだ始まっていないが、開店時間を迎えればきちんと店を開けるのである。


(辞めてやる、絶対辞めてやる)


 そんな商店の並ぶ道を歩きながら、私は勤め先の会社を呪っていた。月百時間を超える残業が当たり前で、若手社員にはこうして朝までの飲み会への出席を強いる、ブラックで前時代的な今の会社を辞めて、営業職なんか辞めて、新聞社か出版社の記者かライターに転職して、文章を書く訓練をして、いつか作家になる……。それが当時の私のささやかな願いだった。


(とにかく、なんにしても、ようやく)


 コインランドリーが角にあるT字路を曲がり住宅街に入った私には、会社への恨み辛みが心に浮かぶことももはや無くなり、もうすぐベッドの中で眠れるのだという甘美な希望だけが脳内を占めるようになっていた。


 アパートに向かう住宅街の路地は、途中から若干の勾配がついている。私はその、坂ともいえないささやかな勾配を上った。やがて三階建てのアパートが右手に見えてきた。


 私の部屋はアパートの三階にあった。アパートの急な階段を、一段一段最後の力を振りしぼるようにして上った。三階の外廊下に着き、住んでいる302号室の玄関戸を開けた。


 玄関に上がってまず目に飛び込んできたのが、猫の額のように狭い靴脱ぎ場に置かれた女物の黒いブーツだった。


(……?)


 一人暮らしの私は当然不審に思った。次に、出かける時にはいつも開けっ放しにしているキッチンと部屋の間の白い引き戸が、閉まっていることにも気がついた。どうやら誰かが部屋に上がりこんでいるらしい。


 信じられないことかも知れないが、当時私にはアパートの玄関の鍵を閉める習慣が無かった。そうなったのには理由がある。私にはYさんという、高校時代から私に良くしてくれているとある先輩がいるのだが、この先輩がこのころ、高円寺のアパートでやはり一人暮らしをしていて、ある時部屋の中にいて玄関の鍵を紛失した。ふつうなら大家に言うなりなんなりするところだろうが、Yさんは、それがめんどうだったのと、そのアパートはオートロックなのでまず不審者は入ってこないだろうし、自分の部屋には金目のものがまるでなく盗みに入られても困らないから、という理由でそのまましばらく鍵無しで暮らしていたのである。


 私はYさんからこの話を聞いて、なるほどそんなものかと思い、Yさんを尊敬していることもあって――まねをすることにした。幸い私も男の一人暮らしだし、盗まれるようなものは部屋に置いていない。私は鍵をかけずに出かけるようになった。そうなってくると鍵をかけるというそのたったひと手間が、人間、めんどうくさくなってくるもので、会社に出勤するときも、また、部屋で眠る夜間も(外泊するとき以外は)そのころは鍵をかけずに過ごしていたのである。


 そのあまりに無用心で非常識な習慣の弊害が、この日、出てしまったわけである。金目当ての空き巣だろうか、それとも何か別のものが目的の不審者だろうか。私は緊張した。しかし一方で、ブーツが女物で一足だけしかないということが、やや私を安心させていた。不審者が武器さえ持っていなければ、万一取っ組み合いになってもまず負けないだろう。私には格闘技経験がある。


 革靴を脱ぎ、玄関からすぐのキッチンに上がり、キッチンをそっと歩いて部屋につながる引き戸の前に立った。思い切って、


すうーっ


素早く戸を開いた。


 六畳のフローリングの部屋の左手に、一筋の白い煙がのぼっていた。部屋の(入り口から見て)左側には、竹製のテーブルと椅子一脚が置いてある。その椅子に、当時付き合いのあった三十八歳の風俗嬢が脚を組んで座って、当然のように煙草を吸っていたのである。椅子は部屋の奥に向かって置かれていたので、こちらからは座っている風俗嬢の後姿が見えた。彼女の目の前のテーブルには、煙草の箱と、ジッポーライターと、灰皿と、飲みかけの紅茶のペットボトルが、几帳面に並べて置かれていた。部屋にはエアコンの暖房がつけられ、入った瞬間、むっと暑いくらいに感じられたことを、私は今でもありありと覚えている。


「お疲れ様! もう帰ろうかと思ってたところだったから、会えてよかった」


 トーコさんは椅子に座ったまま上半身をひねってこちらを向き、煙草を指に挟んで口から離し、笑顔を見せて言った。それからすぐまた前を向き、煙草を灰皿に押し付けて消した。灰皿には既に数本の吸殻が入っていた。


「……どうしたの?」


 私は入り口にバカのように突っ立ったまま、意外な来客に驚き、ただそう呟いた。


「メールしたじゃない?」


再び上半身をひねってこちらを向いたトーコさんに言われて、私は昨晩遅く彼女から、「いまから家に遊びに行っていいか」というメールがスマートフォンに届けられていたことを思い出した。飲み会の最中にそのメールを見て、「終電になりそうだから、その後でもよければ」というメールを返していたことも、続けて思い出された。


 私はハッとなって、そのメールを送ってから全く見ていなかったスマートフォンを確認した。一通未読のメールが入っていた。トーコさんからだった。それは私が返信してからほどない時間に届いていた。


「遅くまでお疲れ様!


実はもう向かっちゃってるから、あがって部屋の中で待っています。どうせまた、鍵かけてないんでしょう(笑)?」


 メールを読み終えると、私はスマートフォンの画面を消した。そして部屋の右手にあるベッドの上にスマートフォンを放ると、ベッドの端に腰を下ろした。そこはトーコさんとはななめ向かいの位置関係になった。


「あのさあ、メールくれてたのは分かったけど、いくらなんでも勝手に家の中に上がるっていうのは――」


 私が、こちらへななめ45度を向いているトーコさんの顔に向けてそう言いかけると、トーコさんは私の話をさえぎって、


「ねえ、私のこと好き?」


と言い出した。

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