風とささくれ
彼はペットボトルをゴミ箱の中に放り投げ、いつものように重ねた本を枕元に置く。男の日常だ。何も変わりなく過ごしている。彼の人生に変化は訪れない。彼はジャズを好んだ。彼が1人で聞いていたのではなく、母親、父親共にジャズを愛好していたため、半遺伝的に好むようになった。そういう家柄なのだ。 普段はレコードで聞いているだけなのだが、たまたま近くのコンサート会場にプロの楽団が来るらしいので向かうことにしたのだった。いつも家で聞いている曲と同じものがいくつか演奏されたが、やはり生で聞くのは違う。臨場感だとか、それを聞いている周りの観客の雰囲気だとか。コンサートは予定通り終了し、余韻に浸っていると、
「失礼するわ。隣で聞いてた人よ。ちょっといいかしら?」と、声がした。
「ああ、いいよ。」よく分からないが、とりあえず流れに身を任せることにした。
そこから後はよく覚えていない。恐らく酒店に向かい、今日の感想を存分に語り合った後、彼女の家に向かい、行為を致したのだろう。そのまま眠り、朝起きて意識を取り戻した。枕元には、「夕日のスニーカー」という題名の本が置いてあった。彼女は「これ、私が書いたのよ。詩集なんだけどね。」
中を開き、目を通す。
【ナイーブな思考は彼の脳裏を切り裂いた。 ナイロンの糸とアイロニーの意図。】
【強かな愛を作る方法は、愛に弱く、気持ちに勝ること。】
と、短い詩が80から85程載っていた。
「いいんじゃないかな、僕は好きだよ。」と、褒めると彼女は激しく喜んだ。
これやこれが良いよ、と彼女なりの厳選をしたであろう3.4つを紹介されたが、そこまでだった。
彼女はそれを酷評したが、一つだけ食い入ってしまう文章があった。
【気の向くままに、宇宙へ行け。空高く。骸に捧げる傷跡の旋律を。】
「これいいね。どういう解釈で書いたの?」と彼女に尋ねる。
「風とささくれ。それだけよ。」
彼女の言った意味が当時の僕には理解出来なかった。今なら出来るかもしれない。しかしその言葉は僕の心の井戸の奥底に潜って行ってしまった。それから二度と彼女と会うことはなかった。名前も知らないし、宵越しの記憶は持ち合わせていなかったため、家もあまり覚えていない。彼の人生の出会いの一つとして、終わったのだ。空の欠片となり。井戸の奥底に落ちていったその言葉を拾うこともなく。
彼は仕事を終えると本屋に向かう。月に一度か二度通い、本を購入する。今日は何を買おうか。好きな著者の新刊や、ジャズ愛好家の妄想記事等を手に取り、一度足を止めたがその後も音を刻むように本を重ね六冊購入した。
そうして家に帰ると、仕事場で購入したペットボトルをゴミ箱の中に放り投げ、いつものように重ねた本を枕元に置く。一番上に置かれた本には、「風とささくれ」という題名が書かれていた。