何でもない一日
里中から暁古書店に忍び寄る影の存在を知らされたエレン。
それからというもの、エレンは定期的に千里眼を使用していた。自衛の為だ。
警察機関から釘を刺されたからというのもあるが、彼女自身も気が気でない瞬間がある。
いつもは暁たちの所にいるのが好きなエレンだが、今は学校という空間に身を置くことで安心感を得られるようだ。別に状況が切迫しているわけではないが。不安は隠せないようだった。
暁古書店は、サンストリートという商店街に所在している。場所は古川区朝日町。
エレンが通っているのは、古川学園高校という。偏差値はまずまず、校風はそれなりの自由が約束された共学の高校だ。制服はブレザーで、周囲の高校の中でも人気が高いデザインである。エレンにはそれが良く似合っていたので、自身でもお気に入りとしている。
そんな彼女は現在、授業間にある休み時間にて、まどろみに身を委ねていた。
授業開始時間が近づいても起きない彼女を見かねて、友人の朝比奈千秋は動いた。ポンポンとエレンの頭を小突く。
「エレン、起きないともう授業始まっちゃうよ」
「……ん、ヒナ。ちょっと寝ちゃってたみたい。起こしてくれてありがと」
エレンは寝ぼけ眼を擦る。彼女は本来、決して寝ぼけてばかりの怠け者ではない。平常通りなら。
当然これには原因がある。連日の深夜労働が祟って、単純に彼女は疲れていたのだ。文字狩りを尾行する際に、長時間能力を使用していたことも眠気に繋がっている要因だろう。エレンは現在、とても眠かった。
それは、学校の勉強にもあまり集中できない程度には。
おまけに、数日に渡る千里眼の連続使用。無理が祟って疲労が蓄積しているエレンの目の下には、彼女の類稀な美貌を損なうものが。
「大丈夫? なんか目の下に隈が……」
「は、いや何でもないのよ。ちょっと最近夜中まで起きてるだけ」
「そうかあ、だったらいいんだけどね。もう、折角の綺麗なお肌が台無しだよ?」
そう言って朝比奈は優しくエレンの頬をつまんだ。彼女は時折このようなおふざけに走ることがある。朝比奈はモチモチした肌の感触に恍惚としている。しかしエレンは眠気のせいか、いつものような元気がない。朝比奈はそれを残念がる。
「やめてよー……」
しかしデレデレと触られ続けるエレン。じゃれ合う気力もない。
彼女は眠かった。
その後物理や現国といった種々の授業が進行していく。
午前の授業が終わり昼休みに入ると、それぞれ弁当を取り出すクラスメイトたち。エレンが取り出したのは、コンビニのビニール袋だ。中身は具材の少ない総菜パンに、なけなしの健康への配慮を考えたサラダ。
エレンがプラスチックのシールを切り、パックを開けた。付属の小さなドレッシングを掛ける。
もそもそとキャベツやトマトを食べてからパンに手を付けると、あっという間に食べ終わる。一緒に昼食を取っていた朝比奈は、落涙を禁じえなかった。
「エレン、独り暮らしだからってそんな雑なお昼を……」
「うるさいわね。私が料理出来ないの、知ってるでしょう。これでもステイツにいた頃よりはマシなのよ」
それからペットボトルのミネラルティーをグビりと飲み、エレンは気合を入れ直す。
「よし、午後は頑張ろうっと」
結局、エレンは授業中にまでうたた寝をしてしまった。
学内に終業のチャイムが鳴る。
それは放課後になったことを示す合図。また、大抵の生徒は図書館で友人との勉強をしたり、所属している部活動に参加する時間の合図でもある。
しかし、エレンはそういったことにはあまり縁がない。
皆が部活に向かう中、完全に無所属のエレンは席でタブレットを操作していた。アルバイトの一環だ。
「何してるの?」
「うーん? データ整理」
ほら、とエレンはタブレットの画面を朝比奈に見せる。そこでは表計算ソフトが稼働しており、月ごとの売り上げや、蔵書数管理といった項目のタブが並んでいる。一般に広く使用されているアプリケーションだ。
「ひえー、こんなことまでするんだ、例のバイト先。大変だね」
「まあ、ちょっとね……」
それから一通り会話をこなした後、朝比奈は部活の時間が迫っていることに気付き、慌てたように荷物をまとめて駆けだす。
「いけない、もう時間だ! じゃあ私部活行くから、またねー」
「シーユー、ヒナ」
カタカナ英語でまたね、とエレンが言った。控えめに手など振りながら。
朝比奈が去る。
高校に入学してから数カ月の間に、何人かの友人を作ったエレン。中でも彼女は朝比奈、もといヒナがお気に入りだ。今度お店に連れて行こうとさえ思っているらしい。彼女が暁の店に興味を示す可能性とは……
さて、とタブレットを仕舞って教室を出たエレン。彼女は部活には所属しておらず、陸上部で活躍する朝比奈とはいつも一緒に帰ることが出来ない。仕方がないと割り切ってはいるが、時々切なくなる時もあるのだろう。だからこそ、休日に一度サンストリートにでも誘おうかと彼女は計画しているのだ。
エレンは校門近くでグラウンドを少し眺めてから。学校の敷地を抜けた。
学校を出て歩くこと十分。
エレンの目の前には、一棟のマンションがある。小奇麗で、建築されてからそれ程経っていないことが窺える。主に単身者や大学生を対象としている賃貸物件である。
オートロックを解除して進み、エレベーターに乗り込む。
五階にあるエレンの部屋、その玄関を開けて中に入ると、彼女は一抹の寂しさが去来する。今日はアルバイトも休みで、朝比奈も夜間練習に励むためもう何の用事もないのだ。誰かに会うこともない。
エレンはクローゼットを開けて部屋着に着替えた。それから、学校指定のカバンからある物を取り出す。
それはスタンガン。
エレンには千里眼という先天的に備わっていた力はある。が、しかし。彼女は直接的な戦闘能力は持たないのだ。そのためエレンは、自衛の為に物騒なシロモノを入手、携行していた。それを使わない日常を送ることが出来たことで、緊張の糸が切れたようだ。エレンの腹が鳴る。
「食材、何があったかな……」
今日も無事一日が終わったと、食事の準備に取り掛かる。
彼女が普段からとっている夕食は、実に簡素に済ませられる類の料理が多い。
熱したフライパンで肉を焼き、野菜を焼く。ただ、焼く。
火が通っていることだけは入念にチェックして。そして食材を市販のタレに付けて食べる。
昼間の食事と同様に、野菜だけは取ることにしているようだ。エレンはやや大人びた言動と容姿からは想像されにくいことがある。その年齢は十五歳とうら若いが、いっぱしの高校生。健康にはある程度気を使っているようだ。野菜を取れば健康にいい、というのは実に適当な理論だが。
しかしエレンは実に満足げ。だが、彼女自身にも適当な料理には飽きが来ているのも事実。だが止められない。楽だからだ。
食事後、エレンはタブレットで作業を開始した。だが、身が入らない。
エレンは食後の眠気も手伝って面倒に思い、作業は明日に持ち越すことにしたようだ。
ベッドにフワリと飛び乗る。
これで、一日が終わる。後はシャワーを浴びて寝るだけ。
多少変わった生い立ちとは言え、彼女の一日はこのようなものだ。
エレンが食事を終えてダラダラとしていると、携帯が鳴る。着信相手は篠宮だ。エレンはふっ、と鼻を鳴らして電話に出た。舐めているとしか言えないだろう。
しかしそれは、非日常を告げる一報だった。
「ハロー、エレンよ」
「もしもし、篠宮だけど今ちょっと出られないかな? いつもの店なんだけど」
「……りょうかーい」
エレンは気怠さを隠すこともなくそう言い放つと、やや乱暴に電話を切った。