覚醒の時来たれり
「あなたが祈りを捧げる神とやらは、あなたを通して今私たちに何をしているのよ。言ってみなさい」
エレンは虚勢を張る。しかし相手の返答はといえば――
「何を言うか。我が主は貴様ら人間にも、世界の一部を――、一部、を……」
明らかに、言うことが変わる。
「……? いえ、だからあなたの言う創造主が一体何を私たちにしているか、と聞いているのよ。どんな理想があるのかは知らないけれど、自身の庇護下にない人間は見捨てるというの? そんなのおかし――」
「創造主について話すことは出来ない。貴様らには死んでもらう」
明らかに発言の前後における整合性が認められない。
その様子がおかしいことには、エレンがすぐに気付いた。これまでの彼は、その発言こそ彼女にとって認めることは出来なかった。それが一応は自身の意思によるものだとエレンは解釈し、問答の余地があると見ていた。ゆえに、意味があるかどうかも定かでない時間稼ぎに固執していた。
だが、今の文字狩りは。
「わ、私は、創造主、について、話すことは、出来ない」
「あなた……」
徐々に、その声にはノイズが混じっていく。
エレンはこの時、一つの仮説に思い当たっていた。何者かが、干渉している可能性がある。それは新たな敵か、確認する必要がある。にわかに文字狩りの挙動が狂ったことを確認したエレンは、隙を見て、一か八か遥に駆け寄ろうとする。そのまま逃亡する算段を付けたのだ。
それを同時に千里眼を発動して、店の周りを視る。
そこに映るのは、店の周りに集う野次馬と、それを遠ざける警察官の姿。特対班の要請により必死に周囲の安全を確保している。逃亡に成功すれば見方が増えるだろう。
そこに敵の姿はない。エレンは視点を移す。地下室を除く店内にも、何者かの姿は映らなかった。
エレンは瞬時に結論を出す。増援がないことを。そして恐らく、この文字狩りは遠方からの干渉が施されていることを。今回、店に襲い掛かってきたのは一体だけで、創造主とやらが背後にいる、確実に。
そして、これ以上の問答に受け答えが出来るほどの権限は、与えられていないのだということを確信した。
命のやり取り、その高揚感が与える作用によって、もう少しで遥の所に辿り着こうかとする時までに、情報を得たエレン。そしてその途中、文字狩りの視線が遥に向いていることを視認してしまう。
ほんの一瞬の間沈黙していたついに文字狩りが動いた。ターゲットを遥に変更したのだ。
「面倒だね――おまけに、我が同胞もたった今討たれようとしている。急がねばならん――そろそろ片付けないと――」
二つの声が混線している。
そして、遂にエレンが遥に駆け寄るが、時すでに遅し。逃亡は間に合わない。
「では、さらばだ」
「……!!」
覚悟を決める。
エレンは、遥の前に立つ。両手を広げて、彼女の盾となる。
彼女は目を瞑らない。最後を迎える時まで、己の意思の強さを、その姿勢を崩さない。
文字狩りが、柄を握る力を強める。最後の時が訪れる。それを見て、ようやく遥は体を動かすことに成功する。口を開いて、叫ぶ。
「いや! やめて、やめて!」
ようやく前を見据えた遥の視界には、スローモーションのような風景が流れていた。
「ごめん、皆――」
無慈悲に振り下ろされた一太刀が正確にエレンの胴体を薙ぐ瞬間。必死にそれを止めようと、遥は得物を突き出す。剣先が僅かに文字狩りの斬撃を逸らすも、直撃は避けられない。
非情な一撃が、エレンの胴体を切り捨てた。
鮮血が飛ぶ。
「あ、あ、あ……」
遥がエレンを見る。動けない。
そのままエレンは腹部を抑えてその場に崩れ落ちた。
だが、蹲りながらもまだ命は失われていない。僅かに軌道が逸れた剣先は、浅く切り裂くに止まったのだ。それでも、刀傷など受けたことのないエレンにとっては、未知の激痛が走る。
「ふむ、入りが浅かったか。胴体ごと切断する心算であったのだが……まあよい、放って置けば死するだろう。次は貴様だ、臆病者の娘」
いつしか、文字狩りは元の人格を取り戻していた。
再度、刃が遥に向けられる。遥はエレンから目線を外すと、文字狩りに憎悪の籠った視線を向けた。
自分でも分かっていない間に、体が動き出していた。
「あああぁぁぁ!!」
震える手のことなど忘れてしまったかのように、獣が如き咆哮と共に、遥は文字狩りに切りかかった。半狂乱のような状態に陥ってしまっている。まるで怒り狂った野獣のように、剣を振るう。
「ふむ、獣か!」
文字狩りは遥を敵としてようやく認識した。だがそれは、知性ある武芸者に行う対応ではない。自身と同じ、化け物を相手取る時の構えだ。
遥は刀を振り回す。文字狩りはそれを回避しつつも、遠くの文字狩りの気配を探っていた。つまり、多分に余裕があるということ。次々と振るわれる技術無き刃を、軽々といなしていく。時に打ち落とし、時に打ち払う。
部屋中を、足元など気にせず縦横無尽に動き回る。
そして、文字狩りは防御を忘れた武者の剣のその合間、次々に返す刀で反撃に転じる。何度となく頬や腕を掠めた一撃が、少しずつ遥の体力を奪っていく。
遥の剣勢は徐々に弱まり、つばぜり合いになった途端、凄まじい膂力によって後方へと吹き飛ばされた。文字狩りは、起きた所を狙う魂胆なのだろう。攻撃方法を突きに偏重させた構えに戻す。一歩で相手を串刺しに出来る体制を整えたのだ。
無様にも転がされた遥は、鈍い痛みによって幾ばくかの正気を取り戻そうとしていた。怒りだけでは化け物には勝てない。追撃に備えたいが、本来強さとは、健全な精神にこそ宿る物である。自分らしさを取り戻すことこそ、今の遥に必要なことだった。
追撃が来るまでの一瞬の時間が、永遠かと思えるほどに引き伸ばされる。その最中。
「獣の剣では私には届かなんだ。さあ立て、引導を渡してやろう」
光が、溢れ始める。
「あれ、この、声は――暖かくて、なんていうか――」
遥は、徐々に光に包まれていった。
「む! これは何事か……!!」
「は、るか……?」
エレンですら、その異様さに痛むわき腹を押さえつけながら遥を見た。遥の全身が、ついに光で覆われる。
その紅玉が如き彩には、思わず文字狩りも目を奪われてしまう。
遥にはこの時、誰かの声が聞こえていた。
「これは……そうか。そうだったんだね」
傍には誰もいないというのに、会話を始めた。そこに巻き起こっていたのは、紛れもない奇跡だ。
「暁さん、ありがとうございます」
この場にはいない筈の暁に感謝を述べた遥は、悲しいようで、何かを愛おしむように笑みを浮かべた。
声が、聞こえる。
『はるちゃん、久し振り』
「うん、久し振りだね。一体どうやったの……?」
『私にも何だかよく分からないや。でも、私は今ここにいる。あなたの側にいるんだよ、はるちゃん。きっと、暁って人のお陰なんだと思うな』
「うん、うん……!」
『ほら、泣かないの。せっかくまた会えたんだから』
遥は涙を堪える。気勢を張りなおし、すぐに泣き止む。許せない奴がいるから。
「ねぇ怜奈。私の前に今、許せない奴がいるの。でもそれは決してあなたの復讐の為じゃない。私は友達を救いたいの」
『分かってるよ。はるちゃんは――』
「そう、私は――」
思いは、繋がっている。
暁の残した力の残滓が、希望の力を遥に与える。現在に至るまで意識不明であるはずの怜奈を、遥の中にだけ呼び出した。
遥の頭の中に怜奈の声が反響する。忘れられた思い出がこだまとなって轟く。
「それでも手が震えちゃうから助けて欲しいの、あの時みたいに」
『もう、仕方ないなぁ』
遥は、かつての記憶を鮮明に思い出した。
それは、部として初めて出場した全国大会のこと。勝敗を気にするあまり体が固まり、緊張で震えていた遥の手を、怜奈がそっと握ってくれたこと。そのまま一緒に竹刀を構えて勝利を誓った、ある夏の日の出来事を。
『そうじゃないよ、もっと強く』
「こう、だよね」
それはかつて二人がしたことの再現。
『いいよ、それでこそ高宮遥だよ。さあ、やっちゃって!』
「うん、やるよ」
『あ、そうだ』
「なに?」
『あの時のことだけど、ああしないと私の家族が死んじゃう所だったんだよ? 遥は悪くないの。悪いのは――』
怜奈の件に関する復讐でも、己の力への不安でもない。
敵は、悪いのは、仲間を傷付けたあいつだ。
「見てて、怜奈……私の希望を、私の力で救うの」
遥は一度、鞘に刀を納めた。そして、律儀に型を守り姿勢を正してから、素早く流麗な動作で刀身を抜き放ち、正眼に構えた。
そのお淑やかさすら感じさせる所作は、まるで神話に語られる伝説上の戦士を再現しているかのようだった。強かった頃に己を回帰させ、さらに新たな強さを手に入れた遥は、あらゆる面において以前の彼女より優れていた。
その威風堂々とした立ち振る舞いは化け者すら畏怖させる。ここまで手を出さずにいてくれたのは、武士としての矜持、そして興味のようなものだった。しかし、これからは違う。文字狩りは目の前にいる遥を、明確な脅威として認識した。
「むう、覇気があるな。面白い、名乗れ小娘」
「私は戦う……誰かを傷付けるためでも、勝つためだけでもない。大切な人達を守るために戦うの」
冷たい床に、強く足を踏みしめる。
「私は高宮遥! 目の前の敵を――」
己を鼓舞し、闘気を持った全てを切り裂く光へと昇華させる。
遥は白刃を煌めかせて、それを振りかぶった。
「斬る!」
最早、その手に震えなど残されていなかった。ただ一つの思いが目の前の敵を斬れと、力強く宣言する。
遥はもう、一人ではないのだから。
「来るか、小娘」
「やあぁぁぁ!!」
エレンを守るために敵を切り伏せる、ただそれだけだ。
これまでとは、まるで訳の違う遥の剣。
磨き上げられた技術が、鋭い斬撃となり文字狩りを襲う。剣での勝負においては、まさに互角としか言いようがなかった。
武器のリーチによる差は、完全に技量によって埋められていた。文字狩りは、そのことにかすかに苛立ちを覚えていた。しかし、冷酷なまでに主の命を完遂するはずの自分が、どうして人間のような物言いをし、少女の手数に少々攻めあぐねているのか、考えても分からない。
文字狩りはそのことに、わずかではあるが苛立ちを覚えていた。それはまるで、人間であるかのように。
一方の遥は、生まれてこの方激怒などしたことがない。それ程に温和で、辛いことも悲しいことも、いつも自身の中に隠しこんでしまうきらいがあった。そして、それゆえに相手を容赦なく攻撃することが出来ずにいた。それが全国大会で敗北した最大の理由である。勝利への執念が足りていなかったのだ。
だが、今は違う。友を守るために全力で剣を振るう遥は、過去最高のパフォーマンスを見せていた。
「やるな。これならどうだ?」
しかし、文字狩りとてそう簡単にやられるような強さではない。これまでとは違い、完全に全力となったその力は、人間を、並の文字狩りですら軽く凌駕している。手数は減るが、一撃の重さが増していく。力と力の応酬では、遥には分が悪い。
「だったらこれで……!」
地下室には、明かりが灯っている。であれば当然、そこには光に反するモノが生まれる。これが、明暗のはっきりしない地上であれば話は違っていただろう。
影だ。遥は自身にある影に潜り込んだ。
これは、以前の遥には出来なかったことだ。ほんのわずかな影をも逃さず、そこに潜り込むことが出来るようになっていた。今、完全に遥の能力は開花している。
「どこへ消えた――」
「はっ!」
背後からの強襲。遥がかつて自身の必殺技として練習していたこの技は、完全に文字狩りの虚をつくことに成功した。
遥は影から出つつも、刀を振り上げながら背中を斬りつけた。初のダメージを与えることに成功する。決して浅くはない刀傷が、流血を促す。
「おのれ……やるな、小娘」
文字狩りは年若い少女へと、素直に称賛の言葉を送った。
一見押しているように見えるのだが、遥は内心で、次の一手に迷っていた。これまでと全く同じことをしていては、いずれ人外の体力とパワーに圧し負けるであろうことは彼女には分かっていたのだ。決めきることが出来ない。
おまけに、渾身の不意打ちは致命傷を与えるに至らなかった。それでも油断なく、攻撃は熱く、頭は冷静に、思考を巡らせる。
その時、遥は一つの策を思いついた。
同時に、速攻で作戦を決行しにかかる。急いで決着を付けなければ、エレンが失血死する可能性があるのだ。しかしそれは、傍目にはこれまでとほとんど変わらない戦法のようだ。
再度攻防が繰り広げられると、遥は再び影へと身をくらませた。しかし、それは読まれていた。
「またか、そう何度も通用するものではないぞ!」
金属同士が擦れあう音と共に、背後からの一撃は逸らされた。分かっていても、そう簡単に対処できないのが遥の能力ではある。以前暁と篠宮が交戦した際は、精彩を欠き、攻撃に躊躇があった頃だから対処を可能としていたのだ。
ならば、それにたった一度だけで対応できる文字狩りは一体。凄まじい適応能力を持っているとしか言いようがないだろう。
このままでは、遥に勝ちの目が生まれるとは思えない、はずだ。
「……失望したぞ」
同じ攻撃を繰り返す遥に落胆の色を隠せない文字狩り。既に彼は、遥の能力が持つ弱点を捉えていたからだ。影とはつまり、自身の背後からしか現れないこと、また消えてから登場するまでにタイムラグがあることを。強敵として認めつつあった少女は底を見せてしまった、そう言いたいのだろう。
次は何を見せてくれるのかワクワクしている自分に、彼は気付いていなかった。
文字狩りの繰り出す中段蹴りを身を低くすることで回避した遥は、そのまま影へと沈んでいく。
この時文字狩りは、付き合うのを止めて勝負を決めに掛かった。
よって、三度目は迎撃ではなく攻撃に転じ、万策尽きたらしい相手を真っ二つにするつもりで、振り返りながら背後を薙ぎ払った。
文字狩りは勝利を確信する。見事なまでのタイミング、力が籠った、全身全霊の斬撃だ。避けられるはずがない。
「これで、最後――だ?」
だが、そこに手応えはなかった。あるのは、何も切り裂くことなく宙を切った己の得物と、抜刀後に出来た隙だけだった。
その背後。
遥は元いた場所に、ある構えを取った状態で立っていた。
つまり、フェイク。遥は、背後に回ったのではなく、ただ一度影に潜っただけだ。
幾度となく繰り返された背後からの強襲は、このための布石。
遥は刀を影の中で一度納めていた。腰を落とし、柄に手を掛けた状態で、瞬時に抜刀可能な体勢を取っている。
居合だ。
そこから繰り出される剣の速度は、遥が知る技の中でも最速。空気を切り裂く音が響く。
音が聞こえた直後、文字狩りは振り返っていた。その目に見えたのは、既に刀を振り抜いた状態で立っている遥の姿。
そして気付く。動けぬほどの痛みが、蝕むように全身に纏わりついていることを。
研ぎ澄まされた一撃は、文字狩りの胴を深く、苛烈なまでに切り裂いていた。
「私の勝ち、だね」
「……見事なり」
文字狩りが倒れる。派手な音と共に、巨体が揺れた。
もう、動くことはない。
遥は刀身から血を払い、納刀する。
もう、戦闘になった途端に震える少女はどこにもいない。人を守るために剣を振るうことの出来る、ただ一人の剣士がいるだけだ。
遥はふぅ、と息を吐き、既に去ってしまった怜奈に無言で礼をし、感謝を示した。
それはとても、とても美しい友情の証だった。




