いおりん襲来
時刻が午後に差し掛かった日曜日のこと。今日も暁古書店は極々僅かな収入しか得られない、非合理的な商売を行っている真っ最中だ。現在暁が対応している客は、幸いにも商品を購入した。しかし、新規の客ではない。今後この店が新たな顧客を獲得するには、何かしらの創意工夫が求められるだろう。
目つきが悪い店主は、微塵もそれを考えてはいないのだが。
「……」
暁が何も言わずに商品を紙袋に入れて客に渡した。その姿は、見る者によっては非常に稀有な容貌に見えることだろう。
夏、それは着物でもスーツでも暑い季節。それに加えて昼時であるということも手伝って、暁は服装を変更していた。衣替えだ。
篠宮が買い与えたシャツを着ているが、その下はスラックス。足元はサンダルという酷い格好だ。特に上半身を包む千鳥格子のそれは、季節感のなさが大層人目を引くことだろう。似合うには似合ってはいたが、各パーツにおいて統一感を欠いている。
その奇妙な服装をした男、暁は無言で客を見送った。その態度は決して褒められるものではないが、今は暁にとっては鬼門とも言える時期だから仕方がない。本を売るだけの無為な日々を送ることが出来るほど、暁は楽観的ではなかった。
東北で初の死者が出た事件からそれ程時間が経っていないゆえに、ことあるごとに創造主や赤いドレスの女という単語が暁の脳内を駆け巡るのだ。
とは言え、仮にも店主なのだから、先程の客への対応を篠宮あたりが目撃すれば、叱責の一つや二つも出るかもしれない。それをしないのが篠宮なのだが。
化粧室に行った遥が戻って来るまでは、暁がレジを担当するしかなかった。一人の客を捌いた時点で裏に戻ろうかと考えていた矢先。
先程商品を購入した常連客が出て行ってから、入れ違いのように初めて見る顔を視認し、一応は引っ込むのをやめたようだ。暁は腕を組んで傲岸不遜な態度を見せている。
しかしその人物を一度チラリと見た後、いつもの冷静さを欠いてその客を二度見した。
まず目につくのは、その服装。頭部には金髪のロングヘアーを覆い隠すような派手なニット帽を被っている。そしてやたらと大きく色の濃いサングラスに、白いマスクをしている。顔を見られたくないがための処置だろうか。肌の露出がほとんど見られない。
しかし、もしそうなのだとしても、本当に隠す気があるのかという服装とのギャップが目につく。大きな水玉模様があしらわれた萌え袖のニットに、ストライプのボトムス。生地がしっかりとした高級品に身を包んだ怪しさ満点の女性は、まるで、芸能人か何かのような印象が見た目に強く出ていた。無論そうなのだが。
しかし、そういったことに疎い暁にはそれがどういう意図なのか判別できない。暁には、ただひたすらに不審な人物としか捉えられていなかった。
そして、用を足して戻って来た遥も、まさか目の前の人物をステージ上で見たことがあるなど、微塵も感じられないようだ。
「遥、明らかに不審な奴がいる。一応監視の目を緩めるなよ」
「はい……マスクにニット帽にサングラス……怪しいことこの上ありませんね。あれ、こっちを見て――」
「ちょっといい?」
すると、商品を手に取って見ては渋い顔をしていた女性が二人に話しかけて来た。彼女により幾度となく繰り返された行為をようやくしなくなった途端、レジまで直行である。それもまた不可解な行動として暁の目には映っていた。
「ここに来れば教えて貰えるって聞いたんだけどー、あんたら何か知らない? てかウケるんだけどここ。マジ意味わかんない本しかないし」
「……!?」
暁は驚愕し、困惑、動揺を隠せない。いつも以上に眉間にしわを寄せている暁は、脳内を大きく揺さぶられた。
何を言っているのか、よく分からない、と。
「だからー、おっさんはあたしらの雑誌のアレについて知ってんの、って聞いてんだけど」
「……雑誌のアレ、とはどういうことだ。もう少し微細に頼む。そのような不合理な喋り方では伝わらんのでな」
「びさい? ふごうり?」
暁はここでようやく気付いた。自分には手に負えない――
以降、暁は遥に丸投げをした。託された遥は自信なさげに尋ねる。
「えっとあのぅ、ウチに何か御用でしょうか……?」
「てか何この子かわいー。ねぇねぇ何でこんな変なとこで働いてるわけ? 名前は? どこから来たの? 芸能事務所とか興味ない?」
見るからに怪しい女は、人の話を聞いていなかった。
遥は改めて目の前の人物を見て、ふと既視感を覚えた。しかし、どこで見たのか全く思い出せない。
「あ、あの、高宮遥と言います。……あれ、この声なんか聞いたことある様な? でもそれにしては……」
ちょっとした騒ぎを聞きつけ、店の奥から休憩していたエレンが現れた。仮眠でも取っていたのか、目を擦りながらの登場だ。
「二人ともどうかしたの? って誰よその怪しい人は」
「助けてエレン!!」
遥がエレンに飛びついた。
「ちょっと、びっくりさせないでよ。それで? あなたはどちら様で――」
「は!? こっちにもやたらと可愛い子が!? バリやばいんですけど!」
「えーと……バリ?」
某アイドルは戸惑うエレンにずかずかと近づくと、なぜか握手を求めた。エレンはとりあえず差し出された手を握り返すも、やたらと嬉しそうにする女性が怪しくてしょうがなかった。おまけに体のあちこちを舐めまわすように見られ、全くどうしていいのかエレンは理解に苦しんだ。
「……ふふ」
これ以上ない程の苦笑いを見せて、エレンは出て来たことを後悔した。可愛いと言われて悪い気はしないらしいが、色々と思う所があったようだ。
「……バカげている。よりによって……」
皆が彼女に振り回されている中、一人静観を決め込んでいた暁がこの世の終わりのような顔をして、下を向いてしまった。何やら恨み言のような文言を口から吐き出している。
暁はこれまでだんまりを決め込んでいたのだが、とんでもないことに気付いてしまったのである。
というのも、自身の中に眠る力が、僅かながらに反応しているのだ。得体の知れない客から。こうなってしまっては、無視することは出来ないのである。
「……お前たち、一旦黙れ。そしてお前、まずは名を名乗れ。用があるのは、こちらも同じになった。なってしまったと言うべきか……」
「確かに! あたしの名前はね――」
そう言って、顔を隠しているアイテムを剥いでいく翔子。
マスクを取った段階で、遥が小さく「あっ、えぇ!?」とらしくもなく奇声に近い声を漏らした。
続いてサングラスを取る。その素顔が顕になると、今度はエレンが「ふっ」と小さく息を漏らした。どういう感情なのかは、本人にも分からない。手はいつの間にか離されていた。
「初めましていおりんでーす! アイドルやってまーす、よろぴくー!」
目元にピースサインを作って、いおりんこと伊織翔子は会心のポーズを決めた。彼女は彼らの反応を見て「あれ? おかしいな」と不本意そうだ。まるで平和だった世界に一つの異物が放り込まれたような店内は、収拾がつかなくなっている。
「い、いおりん! まさか本物……?」
「いおりん? いおりんとは誰だ、エレン。知っているか?」
「芸能人、いわゆるアイドルなんだけれど、暁さん、まさかこの人が依頼者だとは――」
その時、店の入り口が開かれた。
入って来たのは篠宮。あの篠宮だ。真面目だが抜けていることがあって、逞しくも優しい青年。そして、顔がそれなりにいい。
「ただいま戻りましたー。あれ、お客さんですか?」
先ほどまで自信満々に己の自己紹介をしていた翔子が、どういうわけか一瞬固まった。
「あ、あれ、えっと……何か変な女にここの名刺を渡されて、その……ここに来たんです……」
急にたどたどしくなった翔子に、一同はどうしていいのか分からなかった。状況が読めない篠宮が助けを求めるのは、当然暁だ。
「えっと、これはどういう状況ですか? そちらの方は一体?」
「ふむ、良い知らせと悪い知らせ、どちらから聞きたい?」
「良い知らせからでお願いします」
「そうか。では言うぞ。たった今、裏の仕事が入った。そして悪い知らせは、そこのしち面倒くさそうな芸能人が依頼者だということだ」
暁が珍しく破顔した。それは一般に、苦笑いと呼ばれる表情だ。
「自分から良し悪しを言っておいてなんだが、考えてみればどちらも悪い、面倒事だったな。はっはっはっ」
流石の暁でも、店に初めて訪れたエキセントリックな客を笑い飛ばすことしかなかった。
 




