暁古書店
「私は今非常に困窮した状況にある。全てを取り戻すにはここしかないという紹介を受け、やって来た。本当に君が? まさか公的機関ですらないというのか? 一体どうやって――」
男の言葉を店主は遮る。その表情には、一分の変化も見られない。
「御託はいいから事の仔細を話してくれ。さっさとこの問題を解決したいのだろう?」
「……ふん、恐らくまだ若いだろうに、えらく上からの物言いだな。まあ仕方がない。私も切羽詰まっている状況であるからな」
男が語ったのは自身のことと、数カ月前に起きたある事件についてだ。
名は後藤、職業は小説家であり、ふと自作を読み返していると、ある文章が抜けていることに気付いた。男の渾身の一作であったから、文章の全てとは言わないが気に入っている一節は記憶していたのだ。であるから、当然間違いに気付く。
これはおかしい、誤字脱字なんていう所の騒ぎではないと確信した後藤は即座に端末を取り出し、電子書籍でもその一文を確認するが、やはりその一文は抜けていた。
ただ一つ男に心当たりがあるとすれば、自著では珍しく売り上げもそこそこにあった作品であるため、一度改定を行ったということだ。事実、現在その作品は第3刷で改版済であることが記述されていた。
後藤は改定時の校正がおかしかったのだろうと当たりを付けた。ことの真偽を確かめるべく最初に連絡を取ったのは、とある編集者だ。印刷ミスである可能性も考慮に入れ、はじめに連絡することにしたのだ。今一度、改定が必要である旨を伝えるためである。
しかし後藤が連絡を取ると、当時その作品を担当していた編集者はそんなことはあり得ないと彼の願いを突っぱねて、一方的に連絡を絶ち切った。あんまりなその対応に疑問を覚えた後藤は、妻にも確認を取ることにした。確実に自作に目を通している妻が言うにも、そのような瑕疵はこの作品には認められない、というものだったらしい。事実、もう一度確認した時には、いつしか文章は復活していた。
後藤は自分が勘違いでもしていたのかと思いしばらくはそのことを放っていたが、後日作品を読み返してみると、またもや発見してしまう。それも、前回では見つけられなったものだ。
前回の違和感ではちょっとしたお気に入りの描写が消えていただけだが、今回は明確におかしいと確信していた。
何しろ、彼が一切手を抜くことなく編集とも何度も会議を重ねて改稿した書き出しの文章が、完全に崩壊していたのだ。意味不明な言葉の羅列と化していたその一節は、出版物としては常識外れですらある。
彼はもはや自分に非はなく、出版社側の過失だろうということで訴えを唱えたのだが、あろうことか、そのような作品は当社では出版していないという驚愕の返事がなされた。
今一度妻に確認を取るのだが、呆れたような目線を向けて妻は後藤に言い放つ。
「あなたが小説家であることは知っているし全作目を通しているが、そのような作品は知らない」という気のない返事を。
これを受けていよいよ自分の頭がおかしくなったのでは、と記憶の整理を付けるも、そもそも原稿が自身のパソコンに残っているうえ、その文庫本が自室にあるのだ。
おかしくなったのは、世界の方だった。
それから男はいつしか妻からも無視されるようになり、業界からも干されかけていた。頭のおかしい売れない小説家がいるぞ、とさえ噂されるようになり、いつしか仕事は激減し、生活は苦しく、精神的にも疲弊していた。
そうして、後藤はいつしか多くのものを失っていたのであった。
「だから、とある先生に相談したのだ。私では中々お会いすることも出来ない高名な先生で、神妙な顔をなされたと思うと、ここを紹介された。それも、深夜の丁度十二時にここへ赴くようにと」
「……なるほど。事情は理解した。報酬額はどうする?」
「いきなり報酬の話とは、せっかちな男だ。しかし、相場も、君が一体どういった形で私の信頼を取り戻してくれるのかも検討が付かん。任せるほかないだろう」
それは彼の本心から出た言葉なのだろう。事実、現在店主が何者なのかもはっきりしていないのだ。当然の疑問である。
「別に構わん。だが、こちらはとある段階までは一定の報酬を頂戴しているゆえ、安くなるということはないぞ。なに、それ程高額ではないし、支払いは遅れても構わん。ゆえに、金銭的な問題は発生しないだろう」
「それは助かる。ではまず、文章が抜け落ちた私の書籍を確認してくれ。題名は……」
「その必要はない」
そう言って店主がテーブルの上に無造作に置かれていた文庫本を手に取った。それを見て、後藤は酷く驚いたように数度の瞬きをした。なにせ店主が持っているのは、男が用意していた原本とそっくりそのまま同じものだ。驚愕の表情を浮かべた男に大して、店主は全くの無表情。その本からは、背表紙の煽りすら抜け落ちていることが確認できる。
「あんた、どうやってそれを!? そこら中の本屋を回ってもついぞ見つけられなったというのに――」
「暁さん、例のやつ持ってきましたよ」
突如その場に現れたのは、暁古書店の常連客からは一応当たりの方と呼ばれている男だ。眠そうに欠伸などしながらソファーまで歩みを進めた彼は、数冊の書籍を手に持っている。
それを見て、またもや後藤は驚愕していた。なにせ、全て過去に自信が発表した作品だったからだ。既に廃部となったものも多数あり、非情に入手は困難であることは明白。
「……何者だ、お前たちは」
「何、ただのしがない古書店の店主とアルバイトの学生だ。さあ、早速仕事に取り掛かりたいから、今日のところはお引き取り願おう。進捗の報告は電話で行う」
「任せていいんだな? 先生に紹介されたように、君らの詳細を聞くことは控える。だが、仕事だけは頼むぞ。このままでは、私は破滅だ」
「任せて下さい。ここは、文字狩りを狩る専門の――」
「文字狩り? なんだそれは」
「あ、えーとそれはその……」
言葉に詰まった若い男は暁に襟元を引っ張られ、あえなく退場した。後藤は呆気に取られてしまう。
後藤はその後店主と連絡先の交換を済ませると、心配そうな表情をしながら店を後にした。彼は、新たに不安を抱えることになってしまうのであった。
その心配とは当然、彼らに任せて良いのかというものだ。
帰路に着く間も、後藤は気が気ではなかったようだ。
「まったく、いつになったらそのドジが治るんだ、篠宮。呆れてしまうぞ」
「すみません! でも、つい……」
「つい、もクソもあるか。とにかく、彼の書籍をもう一度確認するぞ」
「はい!」
そして篠宮が本に手をかざすと、何やら不思議な緑の光が出現し、触れてもいないのにページが捲れていく。あっという間に脱落した文章があるページに、突如出現した栞が挟まれていく。
光とともに音もなく現れる栞は、幻想的ですらあった。
「分かりました。今回は酷いですよ。もはや作品としての体をなしていませんね、これ」
篠宮が暁にその本を渡すと、いつの間にか光は消えていた。
それから暁が篠宮と同じように本へ手をかざすと、今度は赤い光が本を包み込んだ。しばらくすると、栞が変色して、その姿を現した。栞はひとりでに本から引き抜かれていくと、暁の体に吸い込まれていった。
いくつかの書籍でその作業を行った彼らは、一体何をしているのだろうか。このある種異様な光景を見ても、常人には到底理解が及ばないだろう。
二人が最後の一冊でも作業を終えると、暁が一瞬怪訝な表情を見せる。
「篠宮、報告と違うのではないか。確か全部で三百文字程度だと言って……どうした、そんな顔をして」
「……間違えてませんよ。暁さんが持ってるのそれ、あなたがいつも持ち歩いているヤツですよ。それじゃなくて、こっちのヤツです。ほら、あの人書き出しがどうのって喋ってた時に、タイトルも言ってたじゃないですか」
篠宮の言うことが完全に正しいため、己の非を認めた暁は多少恥ずかしそうにも見える顔をして、素直な気持ちを吐露する。
「……見なかったことにしてくれ」
「はいはい。それじゃ、明日はエレンちゃんも交えて作戦を練りましょうか」
果たして彼らは大丈夫なのだろうか。