Heaven and Hell
エレンと遙の姿を見つけた朝比奈は、嬉しそうに大きく手を振った。
「お待たせ」
「今日午前中部活でさー。疲れちゃったよ……ってそっちの可愛い子は一体だれ?」
「電話で言ってなかったっけ? バイト先の子で、丁度お昼食べてなかったからついでに。ほら、自己紹介なさい」
「あ、あの、そのう……高宮遥ですぅ……」
「よろしく。私は朝比奈千秋だよ。エレンにはヒナって呼ばれてるから、遙さんも気軽にそう呼んでね」
「は、はい! ヒナ……さん」
「あはは、ま、取り敢えずそれでいっか。行こ、二人とも」
三人の昼食タイムである。
サンストリート最寄りの朝日駅前に集合した彼女たち。向かったのは、ややひっそりとした裏通りにある、暁と篠宮も時折訪れる飲食店である。客の入りは悪くなく、笑顔の素敵な年配の女性が経営している店舗だ。
その名を芙蓉亭という。二代に渡って古川区に居を構える老舗で、名店としてこの地域では名高い。雰囲気は暁の店に多少似ているようだ。店内には、名が示す通り芙蓉の花が飾られており、小さな音で、ボーカル入りのジャズが流れていた。
ここで提供しているメニューは主に洋食。西洋の料理を和風に改造し、独自の進化を遂げた料理だ。歴史は古い。
エレンの案内で、席に案内されることもなく空いているテーブル席に座ると、厨房から出て来た店主が近付いて来た。ニコニコと優しげな笑顔が、人柄の良さを感じさせる。
「いらっしゃいエレンちゃん。おや、今日は暁の坊主はいないのか。二人はお友達かい?」
「ハーイ、持田さん。今日もお元気そうで何よりね」
店主の名前は持田というようだ。注文を取りに来た持田へ気さくに挨拶を返したエレン。彼女は暁ほど通っているわけではないが、既に顔は覚えられていた。
三人はメニューを見やる。
エレンがエビフライ定食、朝比奈はビーフカツ定食、遙はオムライスを注文した。
厨房では持田がたった一人でテキパキと作業をこなしていった。紛うことのない職人技だ。
その後、ほぼ同時に運ばれてきた料理を見て、全員がおいしそうだという当たり前のような感想を抱いたのだが、事実、明らかに見た目がいいのであった。料理から立ち込める湯気が、三人の鼻腔をくすぐる。
「さ、食べましょうか」
しばし歓談も含めて落ち着いた食事のひと時を楽しんだ三人。顔を見れば、満足したことは明らかである。その間、部活の話になって遙が黙ってしまう一場面もあったようだ。しかし結局、朝比奈はエレンからの説明を受け、簡単に受け入れた。彼女達は、とても優しい。
三人は会計を済ませて感謝を口にした。ごちそうさまでした、と。
「また、いらっしゃい」
笑顔で見送られ店を後にした。
それからエレンのマンションに向かった一行。電車で一駅から徒歩であっという間である。
現在彼女達はエレンの部屋の前に立っている。
遙は感慨深そうにドアを見つめていた。何やら緊張している様子。
「ここがエレンのおうちかぁ……!」
「綺麗にはしてるけど、あんまり面白みはないわよ」
遙は怜奈以外の家に行くことは殆どなかったので、緊張しているようだ。
エレンが電子ロックを解除してドアを開くと、いい香りが共用の廊下に漏れ出た。
スリッパがいくつも置かれており、靴は脱ぐ形式のようだ。フワフワのファーが付いているそれを見て、朝比奈は相変わらず可愛い趣味だなぁと微笑んだ。それを指摘するとあれこれ言われるので言わないのだが、そこも含めて朝比奈はエレンが好きだ。
玄関、靴箱の上には某有名キャラクターのぬいぐるみが置かれている。ファンシー。
部屋は単身者向けであるから当然狭いが、ワンルームは整理整頓が行き届いている。本棚には様々なジャンルの書籍が網羅されており、漫画も多い。冷蔵庫からよく冷えたアイスティーを取り出し、エレンは二人に振る舞った。いい香りが漂う。
落ち着きながら他愛もない会話を楽しんでいた三人だが、積み重ねられたボードゲームの山を見て、朝比奈が勝負を挑む。
「オセロ、やろうよ。今度こそ負けないよ。あ、でも遙さんが参加できないか」
「いいんじゃない? 交代してやりましょう」
「私、オセロは経験ないなぁ……」
三人はオセロに興じるようだ。
種々のボードゲームはエレンの得意とする分野である。それを知らない遙は朝比奈とエレンの対局を見て、端的に言って驚いていた。
先手は朝比奈、後手はエレンである。対局開始。
序盤はサクサクと進み、打つ場所が決まっていたかのように置いて行く。対戦慣れしていることが窺える。
それから中盤までは互いにほとんど淀みがなかった打ち手だが、徐々にペースが落ちていく。そして、エレンが置くたびに朝比奈の打つ手が無くなっていく。
「あっ、ヒナさんの置くところが無くなった。凄い……」
「もー、エレン本当強いんだから。このままどうせ一手も打てないんでしょ、知ってる」
「イグザクトリー。ようやく気付いたのね……フフ」
トントンと小気味よく石を置きひっくり返して行くと、盤面の実に九割が白に染まっていた。
おー、と小さな拍手など遙から漏れるほどには、鮮やかな手並みであった。
「コツ、みたいなのってあるの?」
「そうね、一概にそうしろ、とは言い切れないけれど、一度に沢山石が取れるからってそこに手を出しちゃダメなの。目先の石より、後の盤面を想像して打つことが大切ね」
「私だってそれが出来たらやってるよー。エレンが強いだけ」
「そう? アプリシエイト、二人とも」
エレンはオセロを始めとするボードゲームにめっぽう強かった。それは、あらゆるシーンで彼女の手助けになる特技である。理詰めの思考は彼女の得意とするところだ。千里眼に頼らないゲームがエレンは好きなのだ。
そんなエレンお得意の科目は、数学と物理だ。以前文字狩りを追い詰める際、暁と篠宮が目標を見失わずに済んだのも、彼女の手腕による所が大きかった。千里眼を使いつつも手元の端末で彼らの位置情報を同時に把握するなど、エレンはデキる女だった。この年齢にしては働き過ぎとも言えるが。ハイスぺ系女子である。
諸般の事情により古川学園高校に通っているものの、実は学校以上の実力を持つのがエレンだ。そしてそのことを全く鼻にかけることがないのも、エレンの良き点である。
そして交代してから、当然のように遥もボコボコにされた。実は、ストーキング行為に対応するため、千里眼を使い過ぎて疲れていたことを思い出してのささやかな報復であったことは、本人以外誰も知らない。容赦ない攻めにより、遙の黒石は一つたりとも残らなかったという。
その後涙目になっていた遙を宥めることに朝比奈も参加し、色々な意味で楽しそうな風景が繰り広げられていた。
――
某大学の図書館にて。
「加藤、首尾はどう?」
「……ダメだ、終わりが見えねぇ。俺に哲学は向いてないというのか……お前はどうよ、篠宮」
「芳しくないけど、まだ間に合うはずだよ。残りは二時間。諦めたらそれで終わるんだ、共にやって行こう。僕たちは同士だ」
「おう。……っしゃあ、いっちょやるか!」
「じゃあ早速新しい文献を見つけないと……」
進捗、レポート提出完了まで残り45パーセント。
――
一方、女子の世界では。
既に三人は仲良しこよし、とまではいかないものの、大分距離が縮まっていた。波長が合うのだろう。
「遙ちゃんは音楽とか聴かないの?」
「私、お母さんが日舞やってたから、その影響で聞くのも和の音楽ばっかりだったんだ。だから疎いの。剣道もそこから始めたし……」
「へー、じゃ今流行ってるのとかも知らないんだ、アイドルのいおりんとかも。結構珍しい。エレンと違って伸び代があるね」
「ちょっと何それ、どういうことよ」
「だってエレンが好きなの、英語の曲ばっかりでわかんないんだもん。ジャズとかが好きなんでしょ?」
「ジャズかぁ、私全然分かんないや……」
「あらそう。じゃあ、パ……お父さんから貰ったレコードでも掛けてみる?」
「あ、私それ気になってたの。おっきなプレーヤーだなぁと思って……」
部屋の広さに若干釣り合っていないレコードプレーヤーは、控えめなスピーカーに接続されている。
エレンは棚から古びた一枚のレコードを取りだした。
ターンテーブルにレコードを載せる。回転する盤に針を落とすと、軽快なリズムが鳴り始める。流れて来たのは、演奏されたのは最近、曲自体はスタンダードと呼ばれるものだ。例えば、モダン・ジャズ集といったオムニバス作品などに収録されるような。
「うん、聞きなれないけど落ち着く……物知りで凄いね、エレンは」
「私は別に凄くないわよ。凄いのは、音楽。さ、耳を澄ませて聴きましょう」
手狭なワンルームは、とてもピースフルで素晴らしい空間が形成されていた。平和そのものである。
――
一時間が経過した。
「これは……まずい!」
「どうした!? まさかトラブルでも――」
「このままじゃどう考えても、提出する直前に完成するペースだ! そっちは、って聞くまでもないか……」
「ああ、ちなみに俺も、見た所お前と同じ部分までしか書けてない。つまり、話している暇もないってことだ」
「絶望的、か……」
進捗、レポート提出完了まで残り20パーセント。
地獄が始まった。
それから数十分後、提出が締め切られる直前に研究室に駆け込んだ二人を見て、講義担当の准教授は苦笑いをするしかない。
二人には、満身創痍という言葉がお似合いだった。眠りに就いた方がいい。
完徹していた二人は、研究室を出てから小さく息を吐くと、戦友と勝利の喜びを分かち合った。
地獄は、終わったのだ。
――
「あー楽しかった! それじゃまたね!」
「エレン、また来るね。明日もお店で会おうね。絶対だよ」
「絶対、ね。私はどこにも行かないから、安心なさい。それじゃ二人ともグッバイ。夜道には気を付けるのよ」
楽しい時間というのは、あっという間に過ぎ去るものだ。
「さて、と」
エレンは目を閉じて集中し始めた。一体何に千里眼を使おうというのか。
「駅までは、私が安全を確保するわ。だから、安心して」
プライベートに配慮するため、遠巻きからの俯瞰で不審者をチェックし始めるエレン。
エレンはデキる女だが、少々過保護な所が玉に瑕だった。




