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右手に流れる小川は県境をなす一級河川と平行して南に走る。かつては水質の汚さで有名であったそうだが、今ではその面影もなく底まで見通せる澄んだ水の上を野鴨が優雅にたゆたっている。

両岸に植えられた桜並木もいよいよ蕾が綻びはじめ、湿度の高い土と緑葉に誘うような甘さが混ざりツンと小生意気な芳香となって鼻孔を刺激するが、それも静かな小道を行く間だけのことで大通りに突き当たると、目の前をけたたましく横切る乗用車の排ガスに春の息吹は途端に蹴散らされてしまった。


日曜日の午後。晴天の下、麗らかな陽気と休日の安息に促されて道行くは快活な人、人、人ばかりの駅前通りを、細い腰にぐるりと咲き乱れる蒲公英の帯が、緋色と紺の縦縞KIMONOのわびとさびを押しのけて娘盛りに見合った華やかさを振り撒きながら、糸井秋琉(いといあきる)は今や珍しい古風な大和撫子に見とれる周囲の眼差しもすっかり慣れっこ、白足袋によく映える真っ赤な下駄をカランコロンと運んでいた。

秋琉に向けられた視線は老若と男女の区別を問わず、頭から足元へ下り、また戻って玉面に眼福を味わうと、そこに留まることなくさっさと隣へと移ってしまう。

それもまたいつものこと。自分の右には岡田詩琉(おかだしえる)という百合の花が咲いているから仕方がない。

今日の詩琉は、腰まで真っ直ぐ伸びる絹のような黒髪は後ろで束ねている。鳩羽色に白銀の扇が右肩から左の裾へと流れる着物に藤色の帯と比較的シンプルな装いは、かえってそれが素材の良さを引き立てるようで、若年の無邪気さと生来の気品が混在する凛とした器量が存分に際立っていた。かといって鮮やかな柄を召した日には、余計に見目が麗しくなるのは当たり前の話で、ようするに何を着ようが人目を引いてしまう佳人なのだ。


茶道の習いは後ろにずらして、そのまま向かった日舞の稽古を小一時間ほど早くお暇させてもらったのは、買い物ついでに久々の外食を楽しもうと二人して数日前の晩に計画したことで、まだまだ日が高いおやつ時、おやつどころかお昼御飯も取れていないけど、かといってお腹を鳴らせるなどはしたない真似をする訳もなく、二人は楚々として地元の駅近くに鎮座する大型デパートへと向かっていた。


「何の音だろう、随分と賑やかね」


「うん。そうだね」


遠くから春風に乗って届く軽快な音楽に促され、歩みはそのまま顔だけ少し向けて声を掛けると、少ない口数と、その代りと言わんばかりに親愛の情が込められた微笑みが返ってきた。詩琉はかなりの引っ込み思案な上に、感情表現も下手というかぎこちないというかで、こんな自然で安心しきった表情が見れるのは、もしかしたら地球上でただ秋琉だけかもしれない。

「何か催し物でもやってるのかしら」と、これは問わず語りの独り言。

スピーカーから街に放たれるカラオケとマイクに増幅された若い女性の歌声は、一歩一歩、踏み出すごとに大きくなっていく。どうやら音楽の発信地は自分たちの目的地に程近いみたいで、鼓膜をたたくサウンドは、やがて全身にズンズンと音圧を感じさせるようになり、秋琉は音とはすなわち空気の振動であーるという高校物理で習った内容を身体で実感しながら進んでいると、ついにその音源に行き当たった。そこは、秋琉たちが向かっていたデパート、志摩屋(しまや)の入り口前広場だった。


車止めの柵には横並びに貼られた二枚の紙。右はただ無料アイドルライブとだけ黒文字で印刷されており、左は出演者とその出演時間が事務的に書き下しただけと、なんとも素っ気ないものだ。


小さなステージが設営され、その上で少女が三人、歌い踊っている。

お揃いのステージ衣装は、Tシャツとミニのプリーツスカートで色がそれぞれ赤・青・黄色。年齢は見たところ秋琉と同じか少し下かで、十七、八だろう。

ステージ前に用意されたパイプ椅子に座る観客は数人。その後ろで立ったまま眺めている幾人の内訳は、熱心にスマートフォンで写真か動画か撮影しているのが一人二人と、ペンライトを両手に一緒になって踊っているのがまた一人二人、残りはショッピングの行きに帰りにちょっとした興味からしばし足を止めているだけのようで、その傍を通る人は大抵ちらと一瞥だけくれて過ぎて行くが、なかには一顧だにせず歩む人もいて秋琉はよくもまあこれだけの騒ぎに気を止めないものだと感心してしまった。


詩琉は毎週日曜の茶道と日舞、だけでなく華道にお琴にピアノにバレエにと、洋の東西も構わずやたらめったら習い事に忙しく、それでなくても、いやいやそんなお稽古漬けの生活を幼少より送ってきたためか、ミドルティーンの女の子には珍しく普段の生活でテレビ番組を嗜む習慣はほとんどなかった。当然、アイドル(ましてや女性の)になど興味あろうはずもないので、秋琉はステージを横目で流し見つつも躊躇なく志摩屋の入り口へと歩を進めながら、一応はと思い確認してみる。


「しえ、少し観ていく?」


と問うた先に詩琉の姿はない。あれっと振り返ると来た道筋の5メートルほど手前に立ち止まり、初めての光景に少し面食らっているのか元々ぱっちりと大きな目をさらに大きくしてパチクリしばたたせながら、心ここにあらずといった面持ちでステージを眺めていた。

秋琉は引き返して隣に並ぶと、いくらおっとり系でスキの多い詩琉でも深紅の唇をぽかんと半開きにした御尊顔はなかなか拝見できませんぞと、思わず自分もだらしない顔の綻び方をしていることに気付かず、血は繋がらずとも妹同様に固い絆で結ばれた少女の、その油断しきった横顔を堪能した。


詩琉専属メイドとして、住込みで岡田家に雇われてから早三年。その間'お嬢様'にくっついて、センスはなくとも石の上に幾つか習い事を嗜んできたことから芸事には一家言あるつもりの秋琉だが、ステージ上のパフォーマンスがお世辞にも褒められたものでないのは彼女の審美眼を拝借するまでもなく一目瞭然であった。

下手だけど一生懸命さが伝わって心打つ、かというと残念ながらそんなこともない。フリフリの衣装はかわいくて、思い切り踊るのは快感だろうし、それで聴衆の注目を浴びるのだから高揚すると思う。彼女たちが楽しんでいるのは大いに伝わってくるけど、悲しいかな、彼女たちの楽しさは秋琉の醒めた目線との落差をより鮮明にしてしまう。突き放して言えばようするに自己満足で、なるほど見ている人を楽しませることができるかがプロとアマを分かつ分水嶺なのか、たまには素人芸を見るのも勉強になるものだと秋琉は妙な感心をしてしまった。


日舞の教室を出たのが15時前だからレストランの予約時間まであと10分くらい余裕あるはず。曲が終わり区切りがついたところで、巾着袋に入れたスマホで時間を確認せず目算だけして声を掛けた。


「しえ、アイドルなんか興味あるんだ。もう少し見ていこっか?」


「う、ううん大丈夫。行こ、あきねえ。お腹すいちゃった」


まだ釘付けになっていた詩琉は聴きなれた声に我を取り戻したのか、はっとへっの中間といった気の抜けた反応を示し、それを照れているのか誤魔化しているのか早口で答えると、秋琉の手を取って微笑み、くるりと向き直って歩き始めた。


志摩屋に入った秋琉たちは地上10階、西は県境の河川を越え昔ながらの低い瓦屋根が並ぶ寺町から二棟のタワーマンションが背を競う新開発地域まで、南は住宅街の向こうにこんもりと緑が茂る丘陵まで、遠く見晴らしが自慢のイタリアンレストランに直行すると、いつも通りフロアの中央も中央に座を占めたのは二人して高いところが苦手だから。

お昼時を過ぎたとはいえ日曜日は客の入りが良い。幼稚園くらいの子供も何人かいて、その爛漫たる活力に感化されるように、二人も山海の幸に舌鼓を打ちながら半月後に迫った新生活について会話を弾ませた。


春は出会いと別れの季節。大学1年生の秋琉に大きな変化は訪れないが、詩琉は4月から高校生となる。

制服はもちろん鞄や靴なども学校で指定のものを購入するし、身の回りの物品も内部進学なので中学から引き続き使えるものも多い。とはいえ衣類や文房具など心機一転これを機に新調しようと、今日待望のお出かけに相成った。

パジャマにソックスに、具体的なサイズは内緒だけどブラは秋琉が羨むカップ数からもうワンサイズ大きいものにして、その発育を支える日々のお弁当箱も今よりいっぱい入るものを等々、あらかじめリストは作成してきたものの乙女の買い物が予定調和に終わるはずもない。

卒業&入学の目出度きこと、気前よく奨励された散財は元来物持ちのよい詩琉をして富豪の箱入娘に似つかわしい強欲を呼び覚ましたようで、あれが可愛いこれが素敵といつにも増して足を止め手に取るも、やっぱりレジへはなかなか向かわないからどうにも慎ましい。唯一の戦利品は、こぐまのゆいぐるみ。体高は20センチくらいで両手両足を前に伸ばしてお尻で座っている。あとなんか尻尾が長い。

詩琉の気に入りようは相当なもので、店員とのやりとりは臆して連れに任せるのが普段な彼女が、赤面しながらもなんとか自分で会計を済ませたくらいだ。レジのお姉さんにギフトかと聞かれると「ううん、私の」と嬉しそうに目を輝かせていた。


お目当てのショップは一通り見て回ったので中央エスカレーターで1階に降りると、店内に流れる優美なピアノの調べと張り合うように、外から溌溂としたアイドルの歌声が届いている。

水と油を無理やり混ぜたようなBGMを聴きながら出入口隣のエレベーターホールで岡田の家に電話したのは18時をとうに過ぎた黄昏時であった。いつもはそこで迎えを待つのだが、ガラス越しに屋外のライブステージが見えたので、せっかくだからと車が到着するまでの間、観客席に賑わいを加えることにした。


スピーカーから流れるメロディはアイドルシーンにさして詳しくない秋琉でもなんとなく聞き覚えがあったので、おそらく有名な曲のカバーなのだろう。夕闇のなか薄暗いステージで、中学生くらいの女の子が歌いながら元気に踊っていた。

白いTシャツに黄色いミニスカートはショートカットに良く似合う。しかし、それはどう贔屓目に見てもステージ衣装と呼べるような代物ではなく、むしろ普段着と言われてこそ納得する質だ。それを眺める秋琉たちの和装の方がよっぽど目立っていたのは言わずもがな。


ご存知の通り、日曜日の夕方はなんとも憂鬱な時間帯。否が応でも休日の終わりを意識して街全体に生ぬるい倦怠感がねっとりと絡みつく。

そんななか、ただ一人ステージ上の少女は悲嘆なんてどこ吹く風と喜怒哀楽から喜と楽だけを選り抜いて、日の沈みゆく街に振り撒いていた。

彼女のパフォーマンスは先程のアイドル三人に輪をかけて素人然としたものだったが、なぜだろう、秋琉は自分が不思議と彼女に惹かれていることに気付く。

昼間考えたように、今目の前の女の子は観客を楽しませようと意識できているから?

答えはたぶんYES。でも本質的にはそんなこと関係ないのだ。


直観的に思った。

世の中にはこういう人がいる。その人が楽しければ周りのみんなも楽しくなる、その人が笑えば周りのみんなも一緒に笑う。そして、その人が悲しむと、みんなまるで自分のことのように悲しくなる。なぜだか、自然自然に感情を伝播させてしまう人。

ステージ上の女の子もそういう天賦を授かっているのではないか。彼女が、踊っているのが楽しくて仕方ないから、歌っているのが幸せでしょうがないから、それだけで自分も満ち足りてしまう。一人一人にそう思わせる人。

そして、そういう人が本物のアイドルなのかもしれない。

などとアイドルというさして興味のない存在について気まぐれに考えを巡らせていると、いつの間にか曲が終わっていた。


「みなさんはじめまして。鈴木香深(すずきかふか)っていいます。みんなに元気とハッピーを届けたくて一人でソロアイドルやってます。私の歌で元気でハッピーになれたら、次もまたライブがあるからフライヤーだけでも貰っていってください。今日は聴いてくれてありがとうございました」


はきはきした口調のわりに、一語一語自分の言葉を探しているような拙い調子で述べて、終わりにぺこりと深く一礼すると、すぐさま駆け足で退場していった。

鈴木香深の退場と同時に、いよいよ深くなる夕闇を受けてステージがライトアップされる。スポットライトが交錯し、青と白の電飾が点滅しだした。


「そろそろ車来るんじゃないかな」


と何気なく見た詩琉の横顔は電飾の光に照らされ、艶やかな色気を醸し出していた。きめの細かい柔肌はさらに白く、黒い瞳の輝きはより深く。秋琉は同じ女ながら不意の美しさに一瞬たじろいだ。考えてみれば二人で夜分に出歩くのは昨年の夏祭り以来で、この半年というもの太陽の下ではにかむ健康的なかわいらしさしか触れていない。詩琉は知らないうちに夜の街が似合う大人の女へと成長しつつあったのだ。


「うん。あっちの道まで行っちゃお。はー、今日は楽しかったけど疲れたね」


その微笑みはいつも見慣れている無垢な微笑みだったから、一瞬にして夕闇へと溶けていった妖艶な眼差しは記憶のなかに残像としてだけ残る。秋琉は変わることへの期待と変わらないことへの安心がないまぜとなって、無性に詩琉を抱きしめたくなったが、公衆の面前であることを理由になんとか自重して、溢れ出る感情の治めどころに今さっき鈴木香深が歌っていたメロディを鼻歌でなぞって歩き出す。

隣でからかうように呆れるように詩琉はふふふと笑い、一緒になってハミングを始めてくれた。と思ったら、すれ違う人の好奇な目を恥ずかしがったようで、すぐさま慌ててやめてしまった。


「はわわっ」


鈴木香深がててててと舞台を降りてまだ15秒と経過していないというのに、早くも次の出演者のパフォーマンスが始まったようでスピーカーが再び音の波動を生み出す。臆病なプレーリードッグがぴょこっと巣穴から顔だけ覗かせるように、刻むビートと唸るギターの隙間からはわわっという頓狂な声がかすかに聞こえた気がするので思わず振り返ると、舞台袖の長テーブルに置かれたA3くらいの小さな紙が7,8枚ほど気まぐれな夜風に遊ばれて宙を舞いっていた。その下では、あっちと思ったらこっち、こっちと思ったらあっち、もてあそばれる様に、鈴木香深が必死に両手を振りながら駆け回っている。


そのうちの1枚がひらひらと秋琉の足元に着地した。

屈んで拾い上げると、「☆★☆ 鈴木香深 出演情報 ☆★☆」と手書きの文字がモノクロ印刷されていた。詩琉も横からのぞき込む。


「はー、ありがとうございます」


息を切りながらの感謝に顔を上げると、拾い終えたフライヤーを胸に抱えて電飾の逆光を背に、えへへっと嬉しそうに笑う鈴木香深と目が合った。

ステージを降りた彼女は、より一層幼く頼りなげに見え、改めてどこにでもいる普通の女の子だった。三月とはいえ夜の空気はまだ素肌に寒い。動いて汗をかいたであろう彼女は、半袖で寒くないのだろうか。


秋琉は拾ったフライヤーを返そうと持つ手を前に差し出した刹那、配っているものを差し戻すのもなんだか悪い気がして、ありがたく戴くことにした。


「4月の15日にライブがあるんです。もし良かったら来てください!」


「ありがとう。考えとくね」


大人の返事を返してから隣の詩琉に目を配ると、なんだか真剣にフライヤーと睨めっこしている。秋琉と、それからおそらく鈴木香深も何となく身構えた。


「えっと...うさぎさん...好きなの?」


鈴木香深のフライヤーには、全体の四分の一を占めようかという存在感でうさぎらしき生物が左下から顔を出している。「いっぱい来てほしいなっ♡♡♡」という吹き出し付き。


「それ?うさぎじゃないよ、くまだよ。うーん、くまに見えないかなー?」


鈴木香深は表情が豊かなようで、実に見事なしかめっ面を作って駆け寄ってくる。自信作なんだけどと納得できない様子で秋琉の持つフライヤーに頭をかぶせると、それだと自分で影を作って見えなかったから半円を描いて詩琉の隣に並んだ。

ステージの電飾がうさぎっぽいくまを照らす。


「耳は丸くてもっと横についてるよ」

「口は×じゃなくてヘだよ」

「もっと目を大きくして下に描くとかわいくなるよ」


くまとあっては詩琉も黙ってられない。

恥ずかしがり屋の詩琉が自分からこんなに話すのは実に珍しいこと。というか、秋琉が見たのは初めてだ。


「うーん、実物見ないとイメージ掴めないなー」


「えっと、ぬいぐるみならあるよ」


そう言っておずおずと、でもちょっと自慢気に取り出したのは今日買ったばかりのこぐま。

「かわいいー」という鈴木香深の率直な感想に詩琉も思わずニンマリだ。


「ねぇ、このこちょっと借りていい?今3分、ううん1分で描いてみるから」


「きゅ、きゅのがモデルデビュー!?」


すでに名前が付いていた。

「か、かわいく描いてくれるなら、いいよ」と差し出されたきゅのとフライヤーを受取った鈴木香深は、急いで長テーブルに戻ると正面に置いたきゅのと向き合い、立ったまま懸命にペンを走らせている。


なんとなく眺めていると、秋琉は迎えの車を視界の端にとらえた。詩琉も気付いたようで、窓の中にいるであろう運転手に微笑みを投げかけている。

黒いセダンはステージの後ろをぐるりと回って、秋琉たちの後ろ3メートルくらいに停車した。

いつの間にか夜が深まり、空には星が輝いている。

昼は遅かったはずのに、もうお腹が減ってきた。


「くまー」とよくわからないけど満足気な声がステージの音に負けじと響き、鈴木香深が勢いよく駆けてきた。紙を手にダッシュしてくる光景はまるで裁判の判決を伝えるニュースのようだ。くまのぬいぐるみ持ちだけど。そして、二人の前に立ち止まるともう一度「くまー」とフライヤーの裏をドヤっと掲げた。


それを受け取り、一呼吸おいて、秋琉と詩琉は同時につぶやいた。


「ねずみ?」


がっくりと肩を落とす鈴木香深に「で、でも、すっごくかわいいよっ」と慌ててフォローする詩琉。

たしかに。かわいいはかわいい。


「うん。うん。歌とダンスだけじゃなくってイラストの練習も頑張るよ。次はもっと上手く描くからね。せめてくまと認識してもらえるくらいに。ということで、今日はありがとう。あーんど、しつこいけど気が向いたらライブ来てね」


秋琉たちはきゅのを受取って、ありがとうばいばいを返すと、後ろに止まっている車の後部座席に乗り込む。その際に振り返ると、とぼとぼと長テーブルに力なく戻っていく鈴木香深の寂しそうな背中があった。


短い距離だから買い物袋はトランクに積まず足元に置く。

さすがに一日歩き回って疲れた。とはいえ和服の辛いところ、背中には帯の結び目があり座席に持たれるのは気が引ける。

隣に座る詩琉は真っ直ぐ背を伸ばして、膝に乗せたきゅの目をじっと見つめている。車が走り出しても一本芯が通っているように背筋が微動だにしないのは、バレエや日舞など幼少から続ける習い事の賜物だろう。

家に着くまでもう少し。年少の先輩を見習っ、秋琉もすっと姿勢を正すと、鈴木香深のフライヤーに目を向ける。ねずみっぽいくまには「また会おうね!!!」という吹き出し。その右側のぐちゃぐちゃっとした落書きみたいな書き込みは、たぶん彼女のサインなのだろう。


裏返すと、というか表にすると、告知の日時が描いてある。4月15日15:00。場所は電車で10分ほど揺られた先のK駅近く。また今日みたいに日舞のお稽古を早退させてもらえば、都合がつく。なんだったらお休みしてもいい。


「しえ、どうする?ライブ行ってみる?」


川沿いの街は平地が広がる。

丁寧な運転も相まって家までの道行き、車が揺れることなどあまりないのだが、ただ一つ例外があって線路の下をくぐるトンネルを通るとき。その上り下りの勾配に掛かる重力が変わる違和感は、何度通っても一向に慣れない。

二人を乗せた車は今まさに、そこに差し掛かる。


「うーん。きゅのは?またあの子と会いたいかな?」


緩やかな坂道を下る車が底を打ったのがその瞬間で、慣性力を受けた身体がシートに沈む。

詩琉の膝に座るきゅのもこくんと動く。

それはまるで、うんという頷きのようだった。

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