faith in the snow
どんな上質なキャンバスも、描けなければただの白い布だ。
今朝から降り続く雪のせいで校庭のグラウンドは、地塗りされたばかりのキャンバスみたいに、すべてが白く覆われていた。校外の道路もまた同じようにどこまでも塗りたくられていたため、きっとこの世界中が真っ白になってしまったのだろうと錯覚するほどだった。
「電車止まんないかなあ」
「止まったら学校に泊まろっか」
「あはははは、蜜柑とは絶対ヤダ」
友達の柚葉と蜜柑は、イーゼルを準備室から持ってくると、いまだ降り止まぬ空を仰ぎながら、喜々と語り合っていた。
こっちは日々の楽しみを奪われて意気消沈だというのに、まったく友人甲斐のない連中だ。
私は描き途中の絵をイーゼルに立てかけると、短くため息を漏らす。
「檸檬は大丈夫なの?」
フラれた仕返しに、その冷え性の両手で柚葉の背中をまさぐり倒した蜜柑が、尋ねてきた。
「地下鉄だから」
短く答えると、二人は「あー」と口を揃えた。表情まで同じで面白い。
最寄り駅が大きいため、この学校の沿線はいくつかあったが、地下鉄は一本だった。割高な地下鉄ではあったものの、こういう些細な有事の時は心強い。
私営地下鉄というだけあって他線との連携も弱く連鎖的な遅延に巻き込まれにくい。その上ほぼ潜りっぱなしの路線ゆえ、雪の影響をほとんど受けなかった。
のらりくらりと蛇行的に描かれた路線であることと、同じ路線を選んだ友達があまりいないことを除けば選んで正解だったのかなと思う。それに前者のおかげ私の実家のような片田舎にも駅ができたわけだし、後者は単に、私の友達が少ないからかもしれない。
一年生だった去年も大雪に見舞われたが、何本か止まってしまった路線があったのに対し、二十分ほどの遅延で済んでいた。あまりにも大雪だったため学校は完全下校を言い渡し、会社も早上がりする企業が相次いだため、いくつかの駅で混乱が起き、その余波が遅延になったという形だった。遅延は雪のせいじゃなくて、なるほど『全部人のせいだ』ということかとくだらないことを考えながら電車を待ったのを覚えている。
パレットに油絵の具を用意していると、グラウンド数人の男子生徒がやってきた。
ずぼずぼと雪を掻き分けると、大の字に寝そべったり、その人を雪に埋めようとしたり遊んでいた。そして一人がどこからか飛んできた雪玉で頭を射抜かれると、ついに雪合戦に発展した。
「……ばっかでーい」
あきれるように蜜柑が呟いたが、私は心のどこかでスカッとした気持ちになっていた。
そうだ。そこはまっさらなキャンバスなんかじゃない。地塗りの下には土があり、そこではサッカー部が練習にいそしんでいるはずなのだ。そして、その中心には私の憧れの人、角中くんがいるはずなのだ。
悪ふざけしている男子たちが、どんどん雪を舞い散らしていく。
そうだ、そのままどうか、雪を失くしてくれ。
私は思わずそう願ったが、それは妨げられてしまう。
黒いコートを着た教師が二人、ざふざふと生徒たちに向かっていき、彼ら喝を入れた。
生徒たちは遊ぶのを止めると、とぼとぼとけだるそうに帰路へ着いた。最後の反感か、彼らはわざわざまっさらなグラウンドを通っていた。
私はがっくりとしてため息を一つ飲み込むと、絵筆を握りしめキャンバスに向かい合った。
いつから恋に落ちていたのかは覚えていない。
美術室の角、右には水道があり、左には画集の収まった本棚がある。そこが私の定位置だ。
眼前には校庭が広がり、一見、こんな優良物件他にはないと思われるだろうが、窓が近いため冬は寒く夏は暑いのというのと、準備室から一番遠いという二つの理由で全く人気がない。今でこそ中の良い蜜柑と柚葉と三人で描いているが、静かに絵を描きたかった一年の私は、その場所で中学校から大好きな油絵をひたすらペタペタと描いていた。
油絵は画法の中でも特に時間と根気が必要だ。いくら好きとはいえ、毎日約二時間、自分の絵とにらめっこなんてできない。
なにかでつまずいた時はふと、視界を外に向け、青く広がる空をぼぅっと眺める。そうしているうちに空に自分の絵が浮かんでいき、つまずいていたはずの場所が描かれる。この方法を見つけた中学生の頃は、外を眺める理由なんてそれしかなかった。
だが、彼のせいで変わってしまった。
高校になって、少しずつ絵を描く職業を真面目に検討し始めた私は、真剣にコンクールに挑戦するようになっていた。それ以降楽しさ絵を描くことの楽しさなんてどこかへ去ってしまい、私はもがき足掻くように描くようになった。塗って乾かしてまた塗って、楽しいより苦しいの方が多い時もかなりあった。周りはコンクールなんて目指さず和気藹々と描いているのになんで私だけこんなにつらい思いを自ら進んで行っているんだろう、と、自問自答する時は今でもある。
そんな時、四角く残酷な世界で救いを求めるかのように、視線をグラウンドに向けるのだ。
部活をしている時の角中くんはいつも全力だった。誰よりも声を上げ、どんな練習でもこれ以上ないほどの力を出して取り組んでいた。その分部活の後半ではいつもくたくたでみんなにからかわれていたが、それでも懲りずに全力だった。一年の四月、ただのクラスメイトだった彼のその様子を見た時は「騒がしいのがいるなあ」程度だったが、日を追うごとに目で追うことが多くなり、今ではグラウンドに目を移すと角中くんにオートフォーカスする。彼の守る位置は右側のディフェンダ―らしいが、私にとってはグラウンドのどこにいてもミッドフィールダーだった。まるで雪が音もなく降り積もるように気づいたら角中くんに夢中になっていたのだ。
ぺた……。
不意に、手が止まった。
普段、描いているときは無意識だ。いや、何も考えていないというわけではない。繊細な部分、難儀な部分、注意を払わなければいけないところはたくさんあるし、もちろんそれらに気を配って描いている。そうでありながら選ぶ絵筆、生み出す色、筆圧、その他様々な要素は、描いている時は不思議と意識せずとも決めているため、ほとんど感じるままに描いている。
ただ、まだまだ高校生のお絵かきの域を出てない私は(域を出たら一瀉千里 に描けるかどうかは知らないが)このように、時々手が止まってしまう。
だからグラウンドの方を……。
真っ白だ。雪は降り止むこともなく、しんしんと世界を白く埋め尽くそうとしていた。あんなに荒れたグラウンドも、ほとんど更地に戻っていた。
私は閉ざした口の中で小さく唸るが、まあ、雨の日だったり、サッカー部がグラウンドを使わない日なんかもあるから、そこまで気にすることではないのだ。うん。
そう考え直して、再び私は絵筆を握り、絵具をつけ、キャンバスに向かう。
「……」
絵筆を持ち替える。
「……」
違う個所を着手しようとする。
「……。だああああああああああああああ」
思わず声を上げ投げだした絵筆が中に舞う。くるりくるりと回転しながらなんとか水道へと落ちた。
「おいおいおい、檸檬どうした」
少し後ろでデッサン人形を模写してた柚葉が、驚いたような声で私を呼んだ。いや、驚かない方が変なのだけど。
「これは禁断症状だね!」
筆を拾ってきてくれた蜜柑が、笑いを堪えながら柚葉に教えた。
「ああ、角中分足りなくなったのか」
納得した柚葉はにやついた。
まあ、図星のため否定はしない。同じ部活の二人は、私が角中くんを慕っていることを知っている。前になんで知っているのか問いただしたところ、露骨すぎるからねえ、と言われた。そんなにあからさまなのだろうか。それでも他の誰かに喧伝したりしない二人は、やはり良い友達なのだろう。幸いだ。いや、そこまであからさまなら、わざわざ言うまでもなくクラスメイトにも知られていたりして。ひえ。
考えまい考えまいと、絵具を筆でかき混ぜるが、そもそもその絵を描くことが原因で今の事態に陥ったことを思い出した。
「調子悪いの?」
柚葉は声色を少し優しさに染めて私の絵を覗き見る。
水中に迷い込んだ少女をイメージした絵だ。キャンバス全体を深い青が包むように塗られ、中心より少し高い位置に金色の陽だまりが、水面の遥か遠くから淡く揺らいでいる。その下を、キャンバスの底辺から上半身を生やすように人影がある。彼女を迎えるように頭上では様々な魚たちが優雅に泳いでいる。
「まあ」
帆を全開にして風向くままに赴くが如くに絵を描くために、一度流れを見失うと途端に筆が乗らなくなる。沈没船でも描きたそうと思うほどの大難航だ。
「モチーフがモチーフだから角中がいないと厳しっか」
「そうなんだよね」
目線はキャンバスに向けたまま、蜜柑に頷く。
「モチーフ?そう言えばこれってなんの絵なの?」
あれ、柚葉は知らないんだっけ。
「言っていい檸檬?」
「……いいんじゃない」
蜜柑の目がいつになくキラキラしている。まあ、いつかは知られるだろうし、もうどうでもいい気がしてきた。せっかくの雪だし、この後なにが起きても全部雪のせいにしてやろう。雪が降ったせいで角中くんがグラウンドにいないから、この話題になったのは事実だし。
「聞いて驚くなかれ、これの題材は角中くんの汗なのだよ」
「……?」
蜜柑のはつらつとした言葉とは対照的に、柚葉は困惑でフリーズした。
彼女がフリーズしている間に汗について説明しておこう。
「……………はい?」
やっと声を出した柚葉の語気は、やはりクエスションマークを感じさせるものだった。きっと感嘆符が見える装置でもあれば、柚葉の周りにはぽこぽことクエスションマークがいくつも浮かんでいるんだろう。これも、雪のせいだ。
「そのままの意味だよ」
とはいえ、コンクール用の絵の中にナトリウムやら鉄分やらの元素式を書き込むわけにもいかないだろう。しょうがないからそれっぽく魚類してやった。迎合的に描かないでコンクールに入選できると思っているほど自分の才能に自信があるわけではない。いや、それなら題材もっと一般的なものにしろよと思うかもしれないが、それはできなかった。好きな人を描く、思春期の小さな矜持だ。
「キモイね!」
柚葉は私の背中に平手を打つ。
まあ、自覚はあるため否定はしない。
「そんなに好きなら告っちゃえばいいのにね」
蜜柑はにひにひ言う。他人事だと思って。
「そういう関係を求めているわけじゃないから」
私にとって角中くんは憧れの存在なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
ともかく、今日はこれ以上描けない気がした。このモチベーションで描いていたらほんとに沈没船を描き足してしまいそうだ。
「……」
私は準備室に戻そうとキャンバスを持つが、逡巡すると、結局再び描き始めることにした。
意識に抗えと本能がささやいている気がした。
決して報われないなら、恋い焦がれても徒労だろう。かつて絶望をまき散らしたパンドラの箱には、最後に希望が残っていたと言われている。なんでも、希望を抱くことこそが、絶望のトリガーとなるらしい。なら望まなければ苦しまないのだろう。と私は思ったのだ。
きっかけは、今年の初夏のこと。
私たちの学校ではその時期に体育祭が行われる。私と、柚葉と、蜜柑の三人は、その応援旗制作に任命された。二人は「檸檬が一番、絵が上手いから」と私をリーダーに推挙した。断ろうとしたが、もしかしたら受験に役立つかもしれないし、七月締め切りのコンクールにもまだ時間があったため、引き受けてみることにした。
描きあがった絵は、三人で作ったおかげか、望外良い出来だった。
少年が左方向へ駆け抜けている絵で、その少し頭上を颯に巻かれ竜のように舞う葉桜が、彼を追うようについていく。竜の腹の下には『勇猛果敢 二年二組』と草書体で書かれていた。
その完成度に、普段会話しないようなクラスメイトもすごく褒めてくれ、体育祭が終わってもそして今もなおその応援旗は教室の後ろに張られている。
クラスの紋章を作ったようでちょっと誇らしかったが、やはりそんなは一過性なもので、私は応援旗ともども教室の日常風景となっていき、多少の喪失感を覚えながらも、まあこんなもんだろうという気分で、張り付いた板のような雲がそびえ立つ入道雲が変わったころには、いつも通り呆然と新しい絵の楮を思い描く日々に戻っていった。
そして蝉がやかましくなってきたある日、あまりの怪音波にやられたのか私はうっかり教室に筆箱を忘れてしまったことを美術室で気づいた。空調の整った美術室から出たくはなかったが、仕方ないと一度戻ることにした。
廊下は蝉の声、吹奏楽部のチューニングの音、運動部の掛け声と、人影がないくせに雑然としていて、どこか倒錯的な空間といえないこともなかった。なにか事件が起きそうな気配さえした。もちろんそんなのは日常的な現象だろうし、そんなことでいちいち事件が起きていたら、この学校の治安はどうかしているだろう。ただ、やはり退屈していたのだろう。おいしいものを一度食べるとその味が舌に染みつくように、体育祭の前後で、普段とは打って変わってちやほやされた私は、その感覚を忘れないで求めているんだろう。騒然としたなにかを。だからそう感じたのだ。
もしかしたら、そんな気持ちが、彼を引き寄せたのかもしれない。引き寄せてしまったのかもしれない。
階段を上り、教室が見えてくると私はわずかに小走りになる。どこからか吹く風に背中を緩く押され、さらにわずかに加速した。
そして教室へと入ろうとすると、
角中くんがいた。
なにかに跳ね返ったように私は退く。
彼もなにか忘れ物をしたのだろうか。サッカー部のユニフォームを着た角中くんは、私の存在に気づくことはなく、ただ静かに、それでいて熱心に一点を見つめている。
視線の先の正体、それは私たちの旗だった。そのことに気が付くと、途端に体が熱くなった。
心拍数も上がってきそうになるが、角中くんの無防備な表情を見ていると穏やかな気持ちになって、不思議と落ち着いた。
集中しているのか、この雑踏の中にも関わらず、全く微動だにしない。そんなに気に入ってくれているだろうか。きっと今私、気持ち悪い顔になっている。
そして角中くんは大きく伸びをすると深く目を瞑り、こちらへ――。
「あっ」
「ひえっ」
その所作を目に焼き付けようと必死になっていたせいで、彼がこちらへ来ることに対しての心の準備がまでできていなかった。思わず短い悲鳴を上げてしまう。
――違うよ、角中くん、今の悲鳴は君に対するものじゃなくて、じゃあ誰に対してって話なんだけど、いや、確かにここには私とあなたしかいないけど、そもそも何かに対するものじゃなくて、反射的なもので、でもそれは角中くんが怖くてとかじゃなくて、驚いたのは事実だけど、でも驚いたっていっても決して角中くんが驚かしたとかそういうことを言いたいんじゃなくて、私が勝手に驚いただけなんだ、
訂正しようと頭の中で言葉を紡ぐが、紡いだ言葉はまるで煙のように掴めず、私は無様に口を意味なく開閉していた。
――ごめんね、角中くん、決してあなたが悪いわけじゃないんだよ、私が普段から人と話す機会が少ないから、こういう重要な場面でしどろもどろになって、上手く喋られなくなって、どうしようもなくなって、今だって伝えないといけないことはたくさんある、伝えたいこともたくさんある、それでも、それを声にすることができない、なんでだろ、どうしてこんなにうまく話せないんだろう、
角中くんはそんな私に目を丸くすると、笑った。
――微笑か、冷笑か、嘲笑か、苦笑か、憫笑か。その笑顔の意味はなんなんだろう。
もうなにもかもがわかんなくなってわかんなくなって、そして私は、
「――!」
思わずその場から逃げ出した。
私は廊下を思いっきり走る。上履きが床を叩く音と、心臓の鼓動が、放課後の喧騒をかき消した。さっき覚えた体のほてりが、目元に集中していく。堰が壊れたダムのように、気づけば私は言葉にならない声を上げていた。変な奴と思われたに違いない。気持ち悪がられたに違いない。考えてみれば、彼とちゃんと話したことなんて一度もないじゃないか。意識し始めてから、彼の姿を見ると、ふとその場を離れていた。挙動不審にならないか不安で、怖くなって逃げてきた。今日だってこんな無様な姿をさらして、結局逃げ出した。きっと私は、彼を好きになるに能いしないんだ。だから言葉が出なかったんだ。
もういい。報われない恋なら、もうこんな思いしたくない。
ベタベタと、私は恋心に上塗りしてく。
憧れという言葉を。
下校時刻を告げるチャイムが美術室に鳴り響くと、ただでさえ緩い美術室の空気がさらに弛緩した。
普段なら外はもう暗くなっているころだろうが、白銀の世界はまるで景色まで浮足立っているかのように明るく感じた。こんなに真っ白にしても気が済まないのか、雪はさらに勢い増している。
私は絵具が乾ききる間に他の片づけを済まそうと水道へ向かう。続行した結果の感想を端的に言うなら、後悔している。
溺れそうになっている人がじたばたするせいでもっと溺れていくように、描きたいものからどんどん遠ざかっていった。色彩は狂ったし、光源がどこかもわからない。こういう時は描かない方がいいのはわかっていたが、同時に描かなくてはならないものだということもわかっていた。それは、きっと心のどこかで後ろめたい箇所があって、それが気に入らなくて気になって、無意識のうちに意識してしまうせいでそっちに寄ってしまうんだろう。とはいえ油彩は修正がきく。明日頑張ってもとに戻そう。
後悔はしたのに、前向きな気分になれるのはなぜだろうか。
しゃくしゃくと音を立てながら、私と柚葉と蜜柑の三人は、三色の傘を並べ整った道を歩く。
職員がやったのだろうか。校門へ向かう道はしっかり雪かきされており、さらにもう下校した生徒たちに踏み固められたため歩きやすかった。
「先生、さよなら」
「おう、気を付けて帰れよ」
校門の前でレインコート姿でスコップを持った教員に会釈をし、私たちは学校を後にする。
校外に出ると、一気に歩きづらくなる。いつもなら駅まで五分たらずの道のりだが、今日はいったいどのくらいかかるだろうか。ため息が出た。
「あわ、わわわ」
そのうえ風まで強くなってきた。体格に反比例して大きな蜜柑のコウモリ傘が風を孕み、彼女をもてあそぶ。
「大丈夫?」
「うん、まあなんとか」
訊いた言葉におどける蜜柑だったが、
「うわあ!」
再び強風に煽られると、ざふんと音を立てて積もった雪に倒れてしまった。蜜柑は冷たさのあまり飛び跳ねると「だー!」と大きな声を上げ、ばちんと傘を閉じた。
「もう諦めた!」
「風邪はひくぞ?」
柚葉がじゃれるような笑顔で忠告したが、
「飛ばされるよりましだ!」
傘を握った手で天を突いた。
「ならば私も抗おう!」
柚葉は思わず吹き出すと、便乗するように傘を閉じて天を突く。
……となればだ。
二人はなにかを期待する表情で私に熱い視線を送る。――その「なにか」がわからなければどれだけ良かったことか。
「パリジェンヌは傘を差さないんだよ!」
それは気候の問題だよ……。
その言葉を封印するように私は傘を閉ざす。しんしんと頭に雪が積もっていくのを感じた。もう諦めた。
私は高らかに傘を突き上げた。おおと二人が短く歓声を上げた。
周りの生徒の視線が痛い。
そのまま傘をしないで再び帰路へ着く。
蜜柑は手のひらを突き出して降る雪を乗せながら、不思議そうな顔をした。
「そいえばさ、なんで雪って積もんの?」
たぶん、手の平で溶ける雪を見て思ったんだろう。たしかにアスファルトの上に降った雪も同様にすぐ溶けてしまう。なのに気が付けば世界を白く染めている。不思議だ。
「それはね、蜜柑」
柚葉は一度空を見上げ、続ける。
「地面が雪と同じ温度になるからだよ。最初は地面の温度が高いからすぐ溶けちゃうけど、溶けた雪が、次第に地面を冷ましていくんだ。雪は積もるまで降り続けるんだ。たとえ最初はその場に残ることがなくても、何度でも、何度でもね」
私の手元にも雪がひらりと舞い落ちる。なんか、油絵みたいなやつだなあと少しだけ共感した。グラウンドを真っ白にした張本人でありながら感傷的にさせるとは、柚葉はもしかしたら弁護士に向いているのかもしれない。
足並みは遅くなったものの、話しているうちに駅前についていた。地下鉄の入り口は駅前にもあるため、蜜柑と柚葉とはそこで別れた。別れる直前、柚葉は私の頭に積もった雪を払ってくれた。弟がいるというのは本当らしい。
やはり一部の電車が止まったようで、地下鉄にも遅れが出ていた。
プラットフォームは人のあまりの人口密度に、地上とは真逆に蒸し暑ささえ覚えるほどだった。
いつもいる二号車になんとかたどり着きたいが、人にもまれ中々前に進めない。それどころか、上り線と下り線に挟まれた形のプラットフォームのため、どの列が上りでどの列が下りなのかさえ定かではない。そんな中でもまれていると、
はっとした。
「お、よう」
「……なんで?」
目の前に角中くんがいるではないか。
――なんで角中くんがいるんだろう、今日はサッカー部休みじゃなかったの、体育館とかで練習していたのだろうか。全然気づかなかった。いや、美術室にいて気づいたら私はエスパーだ。でも虫苦手だからエスパーなのかもしれない。それにしてもマフラー姿もかっこいいなあ、次生まれ変わるならマフラーになろう、そうするとお母さんは蛾じゃないか。こうかばつぐんだ、
私の脳はいつぞやのように高速で回転する。混乱の方が正しいのかもしれない。
「ええと、駒園さんってこの路線なの?」
しかし角中くんの言葉で急停止する。
「いえ、ふ」
間違えて英語で答えようとしたうえに噛んで日本語の否定形になってしまった。ここまで言語が難しいと思ったことはほかにない。
角中くんはきょとんとした表情で私を見据えている。体がばらばらになりそうだ。そうだった逃げないと。
私は百八十度体を回転させようとするが、人が多すぎてそれはかなわない。また目元が暑くなる。今度はきっとこのプラットフォーム中の熱がやってきている。それくらい強烈なものだった。
そこに角中くんが追い打ちをかける。
「……もしかして、駒園さんって俺のことは嫌い?」
ぶんぶんと私は首を横に振る。瞳から雫が二三粒落ちた。
「ならよかった」
それはどういう意味だろうか。尋ねる前に角中くんはからっと笑う。
「なんか、駒園さんって表情がころころ変わって面白いよね」
どうだろうか。
「また変わった」
「そ、そんなこと、ないよ」
訂正する思いは、声になっていた。
「驚いて、泣きそうになって、目を大きくて、困惑して、ふてくされて、面白いよ」
あの時もそれで笑ったんだろうか、嘲笑とかでは一切なく、ただ単純に面白いからわたったのだろうか。
ああ、憧れだけにしようとしてた心にまた新たな意識が上塗りされていく。
「角中くんだって、そういうところあると思うな」
「ええ、そうかな」
「そうだよ、だってグラウンドの時はさ」
不意に、柚葉の言葉を思い出した。
――雪は積もるまで降り続けるんだ。たとえ最初はその場に残ることがなくても、何度でも、何度でもね
もしかしたら報われない恋かもしれない。描けない色かもしれない。それでも、信じてみようと思った。私も今変ったじゃないか。
この状況は雪がくれた奇跡だ。だったら、盲信してもいいんじゃないか。