3話
ぼくには名前がない。
だけど、それはぼくに限ったことじゃなくて、兄弟みんなに名前がなかった。飼い主さんは、お母さんのことを『ハナ』と呼ぶけど、ぼくたちのことはまとめて『チビ』と呼んでいる。ぼくたちは兄弟を匂いと声で区別しているので、別に困ったことはない。ただ名前がないだけなんだ。
だけど、その日。
自分に名前がなくて初めて困ることになった。
「君の名前は、何ていうの?」
ぼくは持ち上げられながら、その男の子に質問されていた。飼い主さんとは違い、慣れていない手つきだった。
……わんっ。
ぼくは、早く下ろしてくれ、といった。だけど、男の子には伝わらなかったようで、ぼくのことを両腕で抱きしめた。ちょっと苦しかったけど、その手は飼い主さんと同じくらい優しかった。
「あー、そいつには名前がねぇんだ」
飼い主さんがいった。
「ハナ以外は、みんなチビって呼んでるんだぁ」
「へー、そうなんだ」
男の子はぼくの両脇に手をいれて、顔の前にまで持ち上げる。食べられるのかもしれない、とひやひやしたけど、そんなことはなく、男の子はぼくの目をじっと見つめていた。
「ねぇねぇ、一兄ちゃん、健二兄ちゃん。こっちに来てよ」
突然、男の子が大きな声を出した。耳の近くで叫ばれたせいで頭がぐらぐらしてくる。そして気がついたころには、目の前の人間が三人に増えていた。さっきの男の子より、いくらか年上に見えた。
三人の男の子が、持ち上げられたぼくのことを見ている。
「見てよ。この子犬だけ、毛が真っ黒なんだよ。変わっているね」
びくっ、と体が震えた。
お母さんや兄弟と違う、この真っ黒な毛並み。そのことに触れられて、胸の内から恐怖がこみ上げてくる。ここにいてはいけない、といわれるんじゃないか、と思うと急に怖くなった。
だけど――
「すっげー。ちょー、かっこいい!」
「うん、そうだね」
「黒い毛ということは、甲斐犬のものかな。ということは、父親も真っ黒なはずだよ」
三人の男の子は、ぼくのことを責めることはなかった。むしろ、この黒い毛並みを褒めてくれたのだ。そんなこと生まれて初めてだった。
「名前は何ていうの?」
一番大きな男がきいてきた。
だけど、ぼくには答えられる名前がない。どう答えたらいいのか困っていると、今後は小さな男の子がいった。
「名前はないんだって。おじいちゃんがいってた」
男の子はそういって、ようやくぼくを地面に下ろした。ぼくは逃げるべきなのか悩んでいると、二番目に大きな男の子に頭を撫でられた。
不思議と心が落ち着くような気持ちだった。
「君の毛はふさふさだね。まだ子供だから、こんなに柔らかいのかな?」
頬のあたりの撫でられたと思ったら、ふいに鼻の先を突かれる。ぼくはむず痒くなって、前足で鼻の先をかいた。
やられてばかりでは、あまりいい気はしない。
ぼくは尻尾を大きく振りながら、大きな声で抗議した。
……わんっ!
だけど、この人たちには通じなかったのか、にこやかに笑いながらぼくのことを見下ろしてくる。
……わんっ、わんっ!
頭の撫でようとする手に、必死に飛びかかる。そして、その指におもいっきり噛みついてやった。でも、まだ歯が生えそろっていないので、歯茎でころころさせるくらいが精一杯だ。
「あはは。この子、甘噛みしてるよ」
「健二の指が気に入ったようだな」
「いいなー。兄ちゃん、次はおれにやらせて」
三人の男の子が順番に手を出してくる。
ぼくは、負けてなるものか、と思いながら、頑張って嚙みついた。その度に、その人たちは楽しそうに笑うもんだから、ぼくも段々と楽しくなってきた。
一緒に走って、転んで、また走って。
いつの間にか、ぼくの中にあった暗い気持ちがなくなっていた。