11話
マロンちゃんは、近所に住む女の子だ。
ダックスフンドという犬種で、その短い脚がひょこひょこと動く姿がとても可愛いんだ。垂れた長い耳も、地面につくくらいの長い尻尾も、その全部が可憐でステキだ。きっと、彼女より可愛い子はこの世にいないだろう。あー、マロンちゃんの近所に住むことができて、ぼくはなんて幸せものなんだ。ゲンタ君なんかは、外国生まれの女に興味はない、なんていっていたけど。ぼくは彼の目が節穴なのを知っているので、別に気にならない。
「ちょっと、タロ。そんなに引っ張んないでよ」
ママさんが慌てたような声をあげた。
だけど、そんな声は耳に入らない。ぼくは全力を振り絞って、コンクリートの地面の匂いを嗅いでまわる。マロンちゃんの散歩コースは熟知している。この道をいって、左に曲がる。そこからあぜ道に入って、道なりに進む。
問題はここからだ。そのまま真っ直ぐ帰宅してしまうか、それとも鉄塔のある隣町のほうへいくのか。二者択一。ぼくは全身全霊をかけて、彼女の匂いをかぎ分ける。たとえ雨がふろうと、雪がふろうと。コンクリートで埋め固められようとも、彼女の匂いだけは嗅ぎ当てる自信があった。
……すんすん。
こっちじゃないな。
目を閉じて、神経を集中させる。ぼくの嗅覚を最大にまで敏感にさせて、彼女の足取りを探していく。
草の匂い。土の匂い。
この甘いのは桜の香り。ツンとくるのはハーブの香り。焼き鳥屋さんの美味しそうな匂いがしたと思えば、顔をしかめたくなるようなゲンタ君の匂いもあった。
そのなかに、春の風のような清々しい香りをみつけた。
間違いない、マロンちゃんだ。
……わんわんっ!
「わっ! タロ、急に走り出さないで!」
ママさんが転びそうになるのも気にせず、ぼくは走りだしていた。あぜ道に入って、真っ直ぐをいく。少し緑が茂っている田んぼの道。住宅と住宅の隙間にできた、このわずかに自然が残る場所で、彼女がいた。
茶色の毛に包まれたダックスフンド。
愛らしい短い足に、上品に揺れる尻尾。
あぁ、マロンちゃん。今日もあなたは最高に可愛いです!
……わんわんわんっ!
ぼくは叫んだ。
彼女に気づいてもらうために、一生懸命に叫んだ。
その想いが通じたのか、遠くを歩く彼女がこちらを向いた。マロンちゃんのつぶらな瞳がぼくを見ている。あぁ、こんなに幸せなことはない。
「あら~、夏川さんじゃない。こんばんは」
「おや。榮倉さんも散歩なの?」
ママさんと、マロンちゃんの飼い主さんは知り合いだ。こうやって散歩中に会うことも少なくない。
それもそのはず。ぼくがマロンちゃんと会うために、散歩の時間と道を変えているからだ。
ありがとう、ママさん。おかげで今日もマロンちゃんと会うことができたよ。
「こ、こ、こんばんは、マロンちゃん!」
緊張のせいで、声がうまく出なかった。
こんなときは自分の性格が嫌になる。だけど、落ち込んではいられない。だって目の前に、世界一の美女がいるのだから。
「あら、タロ君。こんばんは」
鈴の音かと思った。きっと、友人が絶賛する歌姫のマドンナも、ここまでの美声じゃないだろう。
マロンちゃんは、ぼくより二つ年上の女の子だ。
優しくて、お淑やかで、ぼくのお姉さんみたいな存在だった。少し臆病なところがあるけど、そこがまた可愛いんだ。どれくらい臆病かというと、他の男が来たらすぐに逃げてしまうくらい。
え? なんで、ぼくは大丈夫なのかって?
それは、ぼくだけが彼女に許された犬だからだよ。他の男にはない紳士的な態度が、彼女の固く閉ざした心を解き放っているのだ。そうに違いない。
「ま、マロンちゃん! きょ、きょうもいい天気ですね!」
「そうね。もうすぐ陽が暮れてしまうけど」
「そ、そうだね」
「ふふっ。変なタロ君」
そういって、彼女はおかしそうに笑った。
ほらね。マロンちゃんは、ぼくにだけは心を許しているんだ。ぼくも彼女が大好きだ。もしかしたら、マロンちゃんとは運命の赤い糸で結ばれているかもしれない。いや、絶対にそうだ!
「どうしたの、タロ君? なんだか嬉しそうだけど」
「べ、別になんでもないよ!」
ぼくは笑顔になるのを必死にこらえながら、尻尾をぶんぶんと振り回す。やっぱり恋愛とは、生きるために一番大切なことなんだなぁ、と改めて思った。
さて、彼女との子供は何匹くらいがいいのかな?
――◇――◇――◇――◇――◇――
散歩から帰ったぼくは、ご飯をいっぱい食べて小屋に入った。
小屋の入り口から顔だけを出して、ぼーと玄関のほうを見ている。これから三太兄ちゃん、健二兄ちゃん、一兄ちゃんの順番に帰ってきて、ぼくが眠った後にパパさんが帰ってくる。
こうやって、ぼくの一日が終わっていく。
大好きな兄ちゃん達に囲まれて、パパさんやママさんもいて、話が長くなる友人もいて、恋をしている女の子もいる。平凡で変わり映えがないけど、充実した日々を過ごしている。
ゲンタ君のように、退屈そうと思うかもしれない。でも、ぼくは幸せだった。ここはぼくが居てもいい場所で、大切な人たちに大切にしてもらえる。これほど幸福なことはないだろう。
だからぼくはいえる。ぼくの毎日は幸せだ、と。
でも、そんな幸せな日々に。季節が変わっていくように、少しずつ変化があらわれていた。それはいつもと同じ、春うららな朝から始まった。




