悪夢の宝玉/アンジェリカの村へ
二つの山を越えるのに結局五日かかった。
五日間も一日中一緒にいればそれなりに誤解も解けて愛着も湧いてくるというもの。事実、三日目の夜あたりからアンジェリカの態度は目に見えてやわらかくなっていた。台車の上に乗って暢気にドナドナなんかを歌っていたりもした。昼飯にするために捕まえた野ウサギを放してやったのがよかったのかもしれない。実のところそれは懐柔作戦の一部だったのだが、今ではウィルの話にたまには笑顔で返してくれるようになっていた。
すっかり打ち解けて笑顔を見せるようになったアンジェリカは時折ドキッとするほどかわいらしい。ただし、その後すぐにハッとした顔でわざとらしく目を逸らしてツン、と横を向くのだ。
ガサガサと音を立てながら、ほとんど獣道のような道を分け入るように進んでいく。かすかに残る台車の轍だけが、この道が一応人の作った道であることを示していた。
左右から伸びてくる背丈の高い草と台車の重量が相まってなかなか前に進めない。一つ目の山はそれほどでもなかったが、二つ目の山に入ってからはずっとこんな感じだった。
この辺は街道からも大きく外れ、人の気配どころかこの先に村がありそうな気配すら全くない。そもそも、この先に村があると知っている人間がその村の住人以外にどれほどいるものか。それほどの田舎、いや、大自然だった。ああ、またシカだ。あっちの奥に見える黒い塊はもしかしたら森のくまさんかもしれない。
「おい、本当にこっちであってるんだろうな」
「あってるよ」
アンジェリカはそう言うが、ウィルにはどうにも信じられない。何しろ草を刈りながらでなければ台車もまともに引けないのだ。
「本当だろうなぁ」
疑り深い男である。いや、この状況であれば仕方がないか。かろうじて木漏れ日が差すものの、昼間だというのに辺りは薄暗い。
「何回も通ってるから間違いないよ。村から町に出るにはこの道しかないし」
確かにそうなのだろうが…
「もうちょっと行ったらちょっと開けた場所に出るよ。そこからなら村が少しは見えるから、心配しないで」
「…へいへい」
正直なところアンジェリカの言う通りに進むしかないのも事実なのだ。ウィルは覚悟を決めて台車を引くしかない。
それからまた半日ぐらい行き、太陽の光が赤く変わりかけてきた頃、徐々に草木の密度が減ってきた。そして不意に、ぱっと開けた場所に出る。
どうやら崖のようだが、周囲がかなり見渡せる場所だ。夕日が目にしみる。
アンジェリカはタタッと駆けて崖の縁に立って眼下に広がる森を眺めているようだった。だが、後を追うウィルからはその肩が微かに震えているように見えた。
「アンジェリカ?」
よっ、と勢いをつけて一気にアンジェリカの横に立つ。見ると、森の一部に小さな池があり、その周囲から煙が立ち昇っていた。あそこがアンジェリカの言う村だろうか。しかし…あの煙はどうみても飯炊きの煙には見えないのだが…
「おい、アンジェリカ、あれって…もしかして、お前、村燃えてないか」
見やるとアンジェリカは蒼白な顔で目を見開いて呆然とその様子を見ていた。
「おい!」
肩に触れると、びくっとして恐る恐る首だけをこちらに向けた。
「…そう……かも」
はは、と力なく笑ったかと思うと、アンジェリカはいきなり走り始めた。
「あ、お、おい!」
仕方なくアンジェリカの後を追って走り出す。が、しかし!!
「は、速ぇぇぇえええ!!」
後を追って全力で走ってもその差は広がるばかりである。なにしろ
「ああっ、もう、重いんだよこの台車!!!アホ!!」
毒づきながらも律儀に台車を引いているあたり、ウィルという男も実際いいやつなのだが。
「ぬああああああああああ!!!」
気合一発、額に血管を浮かべて本気で台車を引いた。台車が少し浮いている。すごいパワーだ。
いや、下り坂というのがよかった。いや、これを坂といっていいものか。もはや崖だ。必死で足を動かすがどうにも地面に足がつかない。やがて前を走るアンジェリカに激突する!!
「ごぇ」
嗚咽が漏れる。仕方ない。台車の引き手が思いっきりアンジェリカのわき腹に突き刺さったのだから。
「す、すまん」
謝ってみてもどうしようもない。台車は全くスピードを落とさない。
ついにウィルは台車を引くのをあきらめて荷物の上に飛び乗った。
すぐさま先端に引っかかって涙目でよだれを垂らしているアンジェリカを引き上げる。
「こ、こぇぇぇ!!!」
なにしろ揺れる。さっきから樹はほとんどなくなっていたが、かわりに地面がむき出しになっていて大きな石がごろごろしている。この辺はもう村の生活圏内なのかな、などと考えていると。
「崖っ!!」
アンジェリカが叫ぶ。
ああ、崖だ。今でも十分崖だが、彼女の指差す先で地面が終わっていた。
ぽーーーーん!!!!
飛んだ。地面がない。
下に見えるのは地面ではなくて、木だった。
「し、死ぬ!」
本気でそう思った。できるだけ衝撃を減らすことを考えよう。荷物の影に身を潜めよう。できるだけやわらかい荷物の影がいい。果物かムギを詰めた袋がこの辺にあったはずだ。そう、これだ。この隅で丸くなろう。
ウィルは剣を抱え込み、着陸態勢をとった。この力で障壁を張ればなんとか助かるぐらいはできるはずだ、そう思っていた。
「アンジェリカ、その辺で伏せ……?」
アンジェリカに目をやると、凛とした表情で前を、煙を上げている村を見つめている。そして、その背中がかすかに光を放っているように見えた。
「な…んだ……?」
疑問を口にしながらも、ウィルの頭にはその理由がしっかりと理解っていた。
間違いない、これはアンジェリカの首にぶら下がっている、あのホーリーローダーの力だ。アンジェリカの背から出た光がアンジェリカの体を包み込んでいた。うっすらと白い光に身を包み風を切るアンジェリカは美しく、ウィルは見とれてしまった。
少しだけぼーっとする頭を振って気を取り直す。いつの間にか眼前には壁。村の端の木造家屋の壁だ。首を窄めて荷物の影に身を隠す。精神を集中。剣の柄に埋め込まれた宝石が黒くまばゆい光を放った。アンジェリカは多分、大丈夫だろう。
ガガガガガガガガアーーーーーン!!!!
衝撃は一瞬だった。
轟音と共に壁に激突した台車が木っ端微塵に砕け飛ぶ。荷物と一緒に薄い木の壁をぶち破って部屋の中に転がり込み、そのまま反対側の壁に激突したところでどうにか止まった。覆いかぶさる木屑と果物を乱暴に跳ね除けて立ち上がると、すでにアンジェリカは外に出ようとしている。慌てて後を追った。
外は目を覆いたくなるような有様だった。大半の家屋が倒壊し、ところどころ火の手が上がっている。しかしついさっきこうなったという感じではなく、二、三日前に何者かに襲われたようでもあった。燃えている家屋も燻ぶっているものが大半だ。
すべての家を悲壮な顔で調べて歩くアンジェリカの後ろについて歩きながらウィルも村を見渡す。人の気配はなかった。
やがて、半分ほどが燃え残った比較的大きな屋敷の前に立つ。村長の家だろうか。
中に入る。アンジェリカに従って奥へと進んでいくと、そこには…村長がいた。ただし、巨大な蛇にでも絞め殺されたように、体中のあちこちが変な風にひしゃげてしまっていた。当然、息はない。
「これは…ひどい」
苦しげに見開かれた村長の目蓋を閉じてやった。アンジェリカは村長に手をかざしていて、その手からは、あの時も見た白い光があふれ出している。だがそれはあの時とは比べ物にならないほどの光の量だった。それは村長をやさしく包み込むが、しかしそれだけだった。
村長が目を開けることはなかった。
「おい、もうやめろ…気持ちはわかるが…残念だがもう手遅れだ」
いかにホーリーローダーとはいえ死人を生き返らせるほどの力はないだろう。そのことはアンジェリカにも理解しているはずだ。
「おい!」
なおも無駄な「治療」を続けるアンジェリカを半ば強引に村長から引き離す。その顔には大粒の涙。その顔があまりにも…儚く見えた。思わずそっと抱き寄せる。壊れてしまわないように、できるだけやさしく。結果的にはそれがアンジェリカの張り詰めた緊張の糸を切ってしまった。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
日の落ちかけた村にアンジェリカの叫び声だけが鳴り響く。ウィルはその体を抱いたまま、アンジェリカが泣き止むのをただ待つことしかできなかった。
アンジェリカが落ち着いたのは日がすっかり暮れて辺りが真っ暗になってからだった。
「この村の人たちは昔一人でふらっとやってきた私を…家族みたいに扱ってくれたんだ」
そう語るアンジェリカの瞳は過去だけを見ている。涙はとっくに枯れている。
「今までだって何度か襲われることはあったんだ。野犬の群れだったり、猛獣だったり、人間だったり…」
膝に頭を埋める。
「でも…その度にみんなで何とかしてきたんだ。でも…どうしてこんな…よりによって私がいないときに…」
それっきり、アンジェリカは黙ってしまった。沈黙で押し潰されそうになる。
「こんなことを…今言うべきじゃないのかもしれないが」
沈黙を破ったのはウィルだった。言うべきか悩んでいたことがある。
「村長のあの殺され方…普通じゃなかった。あれはおそらく…」
首だけをウィルのほうに向けているアンジェリカがぽつりとその跡を継ぐ。
「ダークローダー、だね」
それをウィルは頷いて返した。考えるまでもなく、この村にはダークローダーに襲われる理由があるのだ。
誰もが欲しがる、ホーリーローダー。世界でたった三つしか確認されておらず、そのすべてが国の宝とされているホーリーローダー。それがいくつか、この村には在ったのだという。俄かには信じられない話だが、現にその一つがここにある。信じない理由はない。
しかしこんな小さな村だ。いくら地図にも載っていない山奥の村とはいえ今まで無事でいられたのはそれだけで奇跡に近い。ひたすら見つからないように息を潜めて隠れるようにしていたに違いない。
それがたまたま見つかって、奪われた。言葉にすれば、ただそれだけのことなのだ。
そうであれば、ここにはあまり長居できない。噂を聞きつけた他のならず者たちがいつやってくるかもわからないのだから。明日の朝には発ったほうがいいだろう。
だが、それとは別の決意がウィルの胸にはあった。
これからどうすべきか。
決まっている。
盗られた物は取り返せばいい。シンプルだ。
失われた命は帰ってこないが、もしかしたら村民のいくらかが生きたまま捕らえられているかもしれない。なにしろ、村長以外の死体が出てきていないのだから。
ただし、行くなら自分ひとりで、だ。いくら傷を癒すホーリーローダーを持っているとはいえ、アンジェリカを連れて行く気にはなれなかった。傷心の彼女を戦場に連れ出す気はない。
一晩。
朝までにすべてを終わらせる。彼女が眠っているうちにすべてを片付けて戻ってくる。そして、彼女と一緒にここを離れよう。それから先はその後で決める。
「はは…」
不意に、ウィルの口から笑い声が漏れた。何をしているんだ、俺は。こんな何の得にもならないことのために命を賭けるというのか。こんな、たった五日やそこら一緒にいただけの小娘のために。
でも、それでもいいと思ってしまった。
そして、それを妙に納得している。
アンジェリカを落ち着けるために、村長の家にあった彼女の部屋に移る。壁に穴があき室内は荒らされていたが片付けるとそれなりの部屋に見えるようにはなった。
どれぐらい経っただろう。すっかり日も落ち、壁の穴から夜の冷たさが入り込んでくる。アンジェリカは少し前からウィルにもたれかかったまま寝息を立てていた。
アンジェリカを起こさないようにそっとに立ち上がり、すこし煤けたシーツをベッドから剥ぎ取ってかけてやる。そのまま音を立てないように気をつけながら、脇に立てかけた剣を手に取った。家の外に出て、目を閉じて、意識を集中する。カタカタと鞘の中の剣が微かに震えているのを感じた。
「やはり、そうか…」
村長を殺したのはローダーだ。それも、痕跡からみるとかなりの力の持ち主のようだ。
ならば、まだ遠くに行っていなければそのローダーの「拍動」を感知できる。ローダーとローダーが互いの魔力に惹かれ合う様に共振するのだから。
そう、ウィルもまたローダーだった。だからこそ、そいつの居場所を探ることができたのだ。
「そんじゃま、一仕事してきますか」
呟きながら小さく深呼吸。拍動を感じたほうへ一歩を踏み出す。ウィルの姿はすぐに暗闇の森に紛れて見えなくなった。
そしてこの時ウィルはまだ、自分の後を付ける人影に気づいていなかった。
とりあえず旅に出るぐらいのところまでは順番に投げていきますね…