1.8(最終話)
戸を叩く音がし、公蘭は現実――中書令である自分――に戻った。
だいぶ長い間、過去に思いを巡らせていたようだ。室内はすっかり冷えきってしまった。
「開いている。入れ」
それだけ言い、窓を閉めて離れ、椅子へと戻った。座り、顔を上げたところで、隻眼の部下が入ってきた。まだ部下としてから日の浅い吏部侍郎――李侑生だ。
「どうした。このような夜分に何かあったか」
侍郎一人で中書令の室へとやって来る者はこの部下以外にはいない。こういうとき、この部下が枢密院出身であることを公蘭は実感する。枢密院では、長官の枢密使と副官の枢密副使は密に接している。が、中書省では、この二つの職位の間に、五部の尚書、それに中書令付の副官である参政がいる。現在は参政にあたる者はいないが、普段、中書令は参政や尚書としか会話をしない。侍郎はあくまで尚書の副官であり、所属する部における業務にのみ注力する人材だ。必要があればこの室に侍郎を呼ぶこともあるが、それも大抵は尚書を同伴させたうえでのことだ。
侑生は聡い男なので、最初から中書省の慣習についても理解しているようだった。だがそのようなことは気にもとめないと言わんばかりの言動を平然とする。軽やかに、自由に。だがそのどれもが目くじらを立てるほどのことでもなく、非難する者もいるが、逆に一部の者には改革者のように敬われるほどだった。今この室に一人でやってきた行動もその一例だ。最初から中書省に配属された官吏には決してできない。
公蘭は吏部を改革するために枢密院からこの官吏を異動させた。それは公蘭の予想もしないやり方もからめつつ、思った以上に早い展開で実行されている。
侑生は公蘭の前に来るやその一つだけの瞳でじっと見つめてきた。
「……何だ」
沈黙に耐えかねた公蘭が先に口を開いたのは、この男をただの部下とはみなせないからだ。
侑生は玄徳が手塩にかけて育てた最愛の部下である。
そして侑生の片目が失われたのは、蔡蘭の娘を護るためであったという。
それでどうしてこの部下を冷淡に扱うことなどできようか。
今もこうして室に入ってきたその瞬間、なぜか侑生の姿が若かりし頃の玄徳に見えた。
侑生の方が背は高く、武芸に通じる体は一回り大きく、その目のことがなければ誰をも惹きつける美しい容貌をしているのに。
対する玄徳は中背でひょろりとした体つきで、剣を握ったこともなく、優し気ではあるがどこにでもありそうな顔をしているというのに。
なのに二人は似ていた。
まろやかな雰囲気の中にある力強さ。
常に浮かべている笑顔に含まれる誠実さ。
知性と身分を感じさせる優雅な所作。
侑生がこの室に来るたびに、公蘭の胸は郷愁でむやみに騒いでしまう。
「玄徳様から柳中書令とのことを聞きました」
侑生の語りは突然だった。だが先ほどまで夢見心地で過去を追憶していた公蘭にとっては不思議なことには思わなかった。まるで今も夢の続きを見ているかのように、侑生の言葉に素直にうなずいていた。
「そうか。何と言っていたか」
「大切な同期で、友人で、好敵手なのだと」
それに公蘭は軽く目を見開いた。その口元が興奮によって大きく開いた。
「そうか! 玄徳はそう言っていたか」
怒り以外の感情を表に出す公蘭は見たことがなく、侑生がやや驚いた顔をした。だが公蘭はそれにはかまわず、満足げに何度もうなずいた。
「そうか、そうか」
その上司の様子をしばらく黙って観察していた侑生が、ややあって口を開いた。
「私は柳中書令に言うべきことがあって来ました」
「なんだ?」
すると侑生はぐっと喉を鳴らした。普段冷静な部下にしては珍しく、眉間をひそめ、苦しげな顔つきに変貌している。そして、いかにもといった感じで、意を決して語りだした。
「……私は九年前の楊家の事変に関係しております」
無表情になった公蘭に、侑生はさらに言葉を継いでいった。
「九年前、私は武官でした。近衛軍第一隊に所属し……」
「ああ、そのことか」
公蘭が紫一色の広い袖を顔の前で否定するように振るった。
「知っている。私は気にしてはいない」
侑生が科挙の試験を受け、最終試験である殿試において皇帝相手に問答を実施した際、審査官の一人として公蘭もその場にいた。そこには玄徳もいた。殿試にて侑生が選択した題目は軍政に関することで、その語りの中に、公蘭はまだ少年ともいえる侑生の悲壮な決意を感じ取った。そしてこの受験者に対してのみ、やけに同調するような素振りを見せていた玄徳の様子にも気づいていた。
合格発表後の新人官吏のための祝宴で、二人が何やら語っている場面も目撃している。侑生が去った後、公蘭は玄徳に事情を問い正した。それに玄徳は正直に答えただけのことだ。
「お前の処遇について玄徳は悩んでいたぞ。枢密院で預かるべきか、はたまた中書省に寄こして武や楊家とは無縁の世界に置いてやるべきかと」
「ええっ」
侑生が示した真正の驚きは、明らかに「中書省に行かされるところだったのか」「危なかった」と語っている。
「……お前、意外と失礼な奴だな」
じとりと睨むと、侑生がすまなそうに頭を下げた。それがまた公蘭が言外に指摘したことを認めるのと同じで、公蘭はさらに侑生を睨みつけた。だがしばらくすると、ふっと笑っていた。
「それにしても、玄徳のために文官に転身するとはお前はすごい奴だな。元々勉学は得意だったのか?」
「いいえ、実は苦手でした。ただまあ、武芸に関してだけは、本を読んで色々と検証するのは昔から好きでしたが。火事場のなんとやら、でしょうか」
爽やかに言ってのけたが、科挙とは、その生涯を懸けても克服できない者が多数いる国内最難関の試験である。公蘭は経験者であるからその点はよく理解している。それを、たかが一年勉強して、しかも一位及第で合格してしまうとは――。
感心する公蘭を侑生が物珍しそうに見ている。
普通の人であれば大した表情の変化ではないのだろうが、公蘭は常日頃からむすっとし、冷徹な采配をとる上司だった。対する者を射殺さんとするようなきつい視線を放つ人で、こんなふうに、百面相のようにころころと表情を変える公蘭を侑生は見たことがないのだ。
侑生は今夜、謝罪をするために公蘭の執務室に訪れた。玄徳から話を聞いたその足で。蔡蘭の母である公蘭に詫び、さらには罪の償い方を模索する必要があった。だが玄徳の言ったとおりだった。
『公蘭はそんな人ではないよ』
この新しい己の上司のことを理解し、侑生はつい言っていた。
「なぜ柳中書令は楊家と関わろうとしないのですか」
蔡蘭が楊家に住み始めてから、公蘭は一度も楊家へと訪れていない。結婚してからも、一度も。だから珪己は公蘭という祖母の存在を知らない。
「中書令と枢密使の間に繋がりがあってはよくないだろう?」
「いいえ、それは違いますよね。それ以前から柳中書令は楊家と関わることを避けているではないですか」
「……あの娘は私の物ではないからだよ」
「ですが蔡蘭様のお子ではないですか」
いくらでも追及してきそうな侑生に、公蘭は初めて他人に本音を漏らした。
「私はね、こう見えて不器用なんだ。何人も大切に扱えるほど器用ではないのだよ」
実子を捨てたことを己が罪と認めてしまったあの瞬間から、公蘭は、蔡蘭だけに一途な愛を注いでいいものか分からなくなってしまった。
蔡蘭への愛は、自分で「愛する」と決めて始めたものだった。
だが実子は違う。「愛さない」と決めて捨てたのだ。
だが本当は……実子こそ「愛すべき」者だったのではないか?
ちょうどその夜、公蘭は玄徳と再会した。そして玄徳はその足で蔡蘭に会いに行き、蔡蘭は玄徳から離れないとだだをこね……。すべては定められていたことのように物事は進んでいった。
蔡蘭は楊家に移り住んでも、まだ外出することを極度に怖がっていたという。玄徳からはたびたび「蔡蘭に会いに来てくれないか」と打診されていた。だが公蘭は仕事が忙しいことを理由に断わり続けた。二人が夫婦になると聞いても、子が産まれたと聞いても、その都度ささやかな贈り物を贈っただけだ。
やがて二代皇帝が崩御し、三代皇帝の御世となり――。
二年後にはあの忌まわしき楊武襲撃事変が起こった。
その頃の公蘭は実子にできる唯一のこと、つまり中書令となることを最優先にして生きていた。蔡蘭にはいつでも会えると思っていた。夫となった玄徳がいれば大丈夫、そう信じるようにしていた。いつか……いつか自分の心が落ち着いたら会いに行こう、と。
だがその「いつか」は幻だった。
この世に生まれ落ちてから、人はいくつもの失敗を繰り返す。失敗をするから、次こそは成功しようと努力する。頭を使い、勇気を奮い、工夫をし、行動を起こす。
人を良い方向へ導く確かな薬は、やはり後悔なのだ。公蘭もこの年齢になるまで限りない失敗をしてきた。後悔することも限りない。その一つは実子のことであり、同じ位苦い後悔は蔡蘭のことだ。
仕事では幾多の案件を同時に処理することができるし、革新的な手腕を幾たびも発揮してきた。だが、子供二人に関しては……後悔することばかりだ。
「なぜ仕事のように私生活でも器用に生きれないのかねえ」
心で思っていただけなのに、それはするりと口から漏れていた。
まずい、と咄嗟に唇を噛んだところで部下の方を見ると、彼はその一つの瞳を見るからに柔らかく細めていた。
「……なんだ」
「いえ。なんでもありません」
そうは言いつつもふふっと笑った侑生は、任務に関する会話をしているときとは異なる雰囲気を見せている。そうしていると、普段は鋭利な刃物のように研ぎ澄まされた侑生の風貌にも二十代らしい無邪気さが垣間見えた。
「私も同じですよ」
「は?」
「私も同じです。自分に関することに不器用になってしまうのは、もうどうしようもないんでしょうね」
「……そうか。同じか」
「ええ」
公蘭は今も覚えている。
生まれたばかりの蔡蘭を見つけた日。
全身が血に濡れた赤子をとっさに抱き上げると、赤子は蛙のようにふくれた瞼をぱちりと開けた。あらわれた大きく黒い虹彩は、磨き抜かれた碁石のように透き通っていた。こんなに汚い場所で、こんなにもきれいなものを見つけることができるのだと、公蘭はそのことに痺れるような衝撃を受けたのだった。
産湯を浸からせ、きつく握りしめられた赤子の手のひらをそっとほぐして開いてやると、その手が公蘭の指をぎゅっと握ってきた。赤子によくある条件反射、だが公蘭はその時には何の知識もなかったから、ひどく驚いてしまった。
赤子に自分の名前の一部を与え、蔡蘭と名付けたのは一時の気の迷いなんかではない。
乳児の頃は睡眠時間を削って、勉強時間まで削って育てた。なのにちっとも嫌ではなかった。
ふくふくとした頬、むっちりとした手足。
あーあーと声をあげ、四六時中抱っこをねだられた。
初めて発した言葉らしい言葉は「かあさま」だった。
本当に可愛い赤子だった。
やがて乳離れし赤子らしい体型を失ってしまっても、蔡蘭に覚える感情は愛しさしかなかった。何をしても可愛い。どんなことでもしてやりたくなる。一緒にいるだけで嬉しくて楽しい。
可愛い、可愛い蔡蘭――。
だが可愛いだけではだめなのだ。大事にしているつもりで大事にできず、結局は武官に殺されるなどという悲惨な死に方を与えてしまった。
いつどこで自分が間違えてしまったのかは分からない。どこをどうやり直せば蔡蘭の死を回避できたのかも分からない。皇帝に直訴し身を捧げた自分が浅はかだったのか。玄徳に嫁がせたのが失敗だったのか。……いや、玄徳に会わなければよかったのか。妓楼から連れ出さなければよかったのか。
すると急にこの部下に尋ねたくなった。
「なぜお前はそうやって幸せそうな顔ができる?」
「不思議ですか?」
少し面白がるような顔に、公蘭は若干いら立ちを感じた。
「ああ、不思議だな。元々は運悪くあの事変に巻き込まれただけのことだろう。だがそれでお前はすっかり玄徳に服従してしまっている。そして本来であれば出会うこともなかったあの娘に深く関わってしまった。そしてとうとう、そのざまではないか」
視線だけで、公蘭は侑生の顔の傷について触れた。
だが侑生は笑みを崩すことなく、ただ一つしかない瞳を軽く見開いてみせただけだった。
「柳中書令の疑問は分かります。確かに私は長い間罪の重さに苦しんできました。今も苦しいことには変わりはありません」
「だったら」
「ですが、この罪によって玄徳様や珪己殿に出会えたのも事実です。この罪に導かれ今の私があります。玄徳様と共に過ごした日々、玄徳様から与えられる信頼と愛、そして珪己殿への愛……。どれも私にとってはかけがえのない宝ですから」
「宝……」
言葉とともに、公蘭の頭に幾人かの顔が浮かんだ。
「ええ。大切だと思えるものを胸に抱いて生きていけるというのは、とても幸せなことではないでしょうか」
そこで言葉を区切り、「ああそうそう」と侑生が付け加えた。
「これは私の部下だった者の言葉なのですがね。人を愛すること、人と繋がることは楽なことじゃないんですよ。それを聞いて私はなるほどと思いました。大切であればあるほど、そこには痛みや険しさといったものが生じてしまうものなのかもしれない、最近はそんなふうに思っています」
「は! なんだって? では人は喜びだけを得ることはできないというのか」
言葉にするだけでも、それはなんともおぞましい世界観だ。
公蘭はつい鼻にまで皺を寄せた。
「もしも喜びと悲しみが共にあることで成立するものだとしたら、私はそんな物はいらんな。平穏が一番だ」
すると侑生がその目を細めて疑わし気に公蘭を見た。
「本当ですか?」
「ああ」
「ああ、柳中書令。それはよくありません」
大きなため息とともに侑生が大きく頭を振った。
「自分に嘘をついていては幸せになることなどできませんよ」
「お前のような分かりやすくも分かりにくい男に言われたくはないな」
「それは褒め言葉でしょうか?」
「どうとでもとれ」
そう言うや、公蘭は片手を振って見せた。
「もう去れ、李侍郎」
「ええ。帰ります」
追い払われたというのに嫌そうな顔をすることなく、逆に侑生はゆったりとほほ笑んだ。
「それでは。おやすみなさい」
おやすみ――。
『母様、おやすみなさい』
『おやすみ、蔡蘭』
木霊のように過去の会話が響く中、侑生は笑みを残して室から出ていった。
後に残ったのは公蘭と、そして甘く響く遠い娘の声だけだった。
『母様、おやすみなさい』
『母様、一緒に遊ぼう?』
『母様、琵琶を弾くから聴いててね』
『母様、母様――』
*
「……公蘭はまだ分かっていないのかなあ」
玄徳は一人だけとなった室でつぶやいていた。
あの日なぜ蔡蘭が玄徳と共に行きたいと言ったのか。
それは玄徳から離れがたかったわけでも、公蘭から離れたかったわけでもない。
蔡蘭は気づいていたのだ。
母が何かに苦しんでいることに。
そしてその苦しみに自分が関係していることに。
公蘭は娘の苦しみを取り除くことができないことにずっと悩んでいたし、実子と娘を比べてより一層悩みを深くさせていた。
だから蔡蘭は母の元を離れる決意をしたのだ。
『お願い、玄徳様。私をここから連れ出して。母様を楽にさせてあげて……!』
そう言って泣きながら縋り付いてきた蔡蘭を、玄徳はその場で引き受ける覚悟を決めた。
蔡蘭はまた、玄徳と夫婦になりたいと望んだ。
それは玄徳を愛していたからだ。
ではなぜ玄徳を愛したのか。
それは自分と母を救ったからだ。
それこそが愛する理由だった。
玄徳は蔡蘭の心中を理解していた。
通常の男女の恋とは異なる蔡蘭の愛の本質を玄徳は十分に理解していた。
なのになぜ玄徳は蔡蘭と結婚することに決めたのか。
それが蔡蘭のためにもなり、公蘭のためにもなると信じたからだ。
玄徳は蔡蘭を愛していたし、公蘭のことも愛していた。
玄徳と蔡蘭、二人が大切に想うものは同じだった。
だから二人が夫婦になるのは至極当然のことだったのである。
*
武殿を出ると、重たげな雪が吹く中、侑生が一人たたずんでいた。
玄徳の気配に顔を上げこちらを振り向いた侑生は、寒さにやや青白くなった顔で、見るからに幸せそうにほほ笑んだ。
だから玄徳も同じように笑ってみせ、そしてゆっくりと近づいていった。
「――さあ、帰ろうか」
了