1.7
それから五年。
公蘭は侍郎として朝議の場に出席するようになる。
紫袍を纏い、約束通り公蘭は二代皇帝の御世に上級官吏となってみせた。もちろん、女で紫袍を着たのも公蘭が初めてである。
皇帝・趙大龍と二人きりで話す機会はすぐにやってきた。いや、おそらく皇帝本人が作為的にそのような場を用意したのだろう。侍郎の公蘭でなければ説明できないようなことは何もないのに、皇帝自ら公蘭を指名し、皇帝の執務する室で二人は会うこととなった。
見せかけの用事を終えると、さっそく皇帝は核心に触れてきた。
「それで、そなたの愛する者は救えたか?」
「ええ、おそらく。結婚し、今は娘を得て平穏に過ごしているようです」
「そうか」
皇帝は公蘭の愛する者が誰かは知らない。二人褥を共にしたときも、今もだ。だが今日もそれ以上のことを詮索しようとはしなかった。
公蘭はあの日の再会の後、すぐに玄徳に頭を下げた。蔡蘭に会ってほしい、蔡蘭を救ってほしい、と。玄徳は了承し、公蘭の住む官舎へとやってきた。玄徳の訪れに、蔡蘭は閉じこもっていた部屋から飛び出すや幼児のように玄徳に抱きついた。そしてわあわあと声をあげて泣く娘に、公蘭は思ったのだった。やっぱり私たち親子は似ている……と。
どれだけ玄徳に会いたかったのか。それは語られずとも分かった。
離れたくないと泣きじゃくる蔡蘭を、玄徳は嫌がることなく自宅へと連れて帰った。その時初めて知った。玄徳は官舎を出て購入した家に一人で住んでいたのた。聞けば、公蘭と蔡蘭にすれ違うこともないようにと引っ越したらしい。
「私の顔を見たら君が嫌がるかもしれないからね」
そう茶化すように言った玄徳に、公蘭は何度も詫びたのであった。
そして玄徳と蔡蘭は夫婦となった。
二人の間にどういういきさつがあったのかは分からない。だが蔡蘭が無理やり玄徳に結婚するよう迫ったと考えるのが公蘭にとっては自然で、結婚のゆるしを得たいと玄徳がやってきたとき、「本当にいいのか」と公蘭は思わず問うていた。
「お前にとって蔡蘭は妹みたいなものじゃないのか。自分の好きな女と結婚しろ。蔡蘭のことは気にするな。これ以上わがままを言おうものなら、私が無理やり家に連れて帰る」
それに玄徳が呆れた顔をした。
「何を言っているんだい、公蘭」
「私はお前のことを心配しているんだ」
「公蘭、私は蔡蘭のことが好きだよ。結婚って家族になるっていうことだろう? それってまさに私と蔡蘭のためにある仕組みじゃないか」
「だが」
結婚とは確かに家族となるという約定だ。だが男と女が家族になるということは、その先に、新しい家族を作るということも含まれる。それはつまり――。
「お前は、その」
問いかけて公蘭は口をつぐんだ。
「ん?」
「いやいい。……幸せにな」
「ありがとう。公蘭も……」
「私がなんだ?」
「公蘭も幸せになるんだよ」
その時のことを思い出していた公蘭は、自分が今皇帝と対峙していることをつかの間忘れていた。
はっとしたところで、皇帝のつり上がり気味の瞳に見つめられていることに気づいた。何もかもを見透かすような瞳の様子は玄徳に似ている。
「……申し訳ありません」
すると皇帝はその瞳をやや細めた。
「ところで。今日、余がそなたをここへ呼んだのは、そなたの子のことについて話すためだ」
蔡蘭の名を思いだしたところで、皇帝がさらに言及してきた。
「余とそなたとの子のことだ」
「……ご存じでしたか」
実は。
公蘭は皇帝とのたった一夜の関係で子を宿していた。
しかし出産間際まで誰にも言わず、何一つ生活を変えることなく働きづめた。
働かなくては食うにも困るし、流れてもいいとすら思っていた。
だが腹の中の子は丈夫だった。医官に一度も診せることもなかったというのに、一人で勝手にすくすくと育っていった。
いかんせん大きくなった腹を隠しきれなくなった頃、しばらく地方で仕事をしてくると娘に言い、体調が悪いので療養の旅に出ると職場では言い、公蘭は誰も知らない土地でひっそりと子供を産み落とした。
それは生家で何度も見てきた孤独な出産の光景と同じだった。同じ道は通らないと決めていたのに、この国初の女官吏となったのに、公蘭は同じ道をたどっていたのだ。
生まれた子供は男児で、それは最悪の結果だった。
皇帝その人に嫡男は一人しかおらず、生まれた瞬間からこの男児は皇位継承権二位を有していた。なけなしの金とともに子を知らぬ誰かに譲る算段でいたが、男児となるとそれもできなくなった。
公蘭は首の座らない赤子を生家に連れて帰り、生まれて初めて両親に土下座をした。事情を話し、嫌がる両親に無理やり赤子を押し付けた。そうして公蘭は素知らぬふりで元いた世界へと戻ってきたのである。
公蘭は皇帝との初夜の場での約定を果たすため、官吏としての道を生きるため、蔡蘭との生活を護るため、実の子を捨てた。翻ってみれば、蔡蘭を救うために実子を捨てたことと同じだ。
だが実子と蔡蘭、二人を同時に幸福にする手段を公蘭は持っていなかった。
どちらか一方を捨てるしかなかったのだ。
だから実子を捨てた。
蔡蘭は……捨てれば、誰も拾ってくれる者がいなかった。人としての尊厳はもとより、命の保障もなかった。
だが実子は生家で普通に暮らすことはできた。
玄徳と再会した宴での夜。公蘭が普段よりも思慮不足となっていたのは、この実子のことが原因だった。早熟な実子は不幸なことに、女を売り買いすることで自分の生活が成り立っていることを理解してしまったのだ。話に衝撃を受け、まだ幼い実子が何日も飲まず食わずで部屋に閉じこもっていると両親が泣きついてきたのがその日の早朝。そして公蘭は両親に連行されるように実子を預けて以来で生家を訪ねたのだった。
音のしない実子の部屋の戸を公蘭は一人そっと開けた。見れば、暗い部屋の奥、実子が寝台で寝ているのが見えた。呼吸によって胸が規則的に上下しており、生きていることは明らかだった。
だが公蘭は安堵するのではなく戦慄した。
実子はそこに生きていた。
生きて確かにそこにいたのだ――。
その瞬間、公蘭は自分の犯した罪、生きた子を捨てた罪にようやく気づいたのである。
だが何もすることなく戸を閉め、それからは一度も生家に寄ったことはない。今も実子に対しては何もできずにいる。直視すれば己が人生を駆けつづけることができなくなるからだ。
「……余の御世が終わったら」
また意識を持っていかれていたことに気づき、公蘭は唇を噛んだ。
「余の御世が終わり息子の時代が落ち着いた頃に、その子供は皇家に迎え入れることになるだろう」
はっと息を飲んだ公蘭に、鷹揚に皇帝が笑った。
「もう与える名は決めてある。龍崇だ。龍は皇家の証、そして崇はそなたが母であることの証だ」
「崇が、私の証……?」
「そうだ。あの夜、そなたは崇の一文字で余に抱かれたではないか」
懐かし気に皇帝が目を細めるのとは対照的に、公蘭は突然のことに茫然としていた。
「龍崇を皇家に入れた時、そなたは中書令として国を纏めろ」
「……そ、それは!」
母ではなく、官吏として実子に仕えろという皇帝には、抱いた女への慈悲の色は一つもなかった。だが皇帝は公蘭の素質を高く評価していた。すでに侍郎という、女としては破格の位にあるというのに、この皇帝は中書令にまで昇りつめろと公蘭に命じた。
言いかけた公蘭は、やがてもう一度ぎゅっと唇を噛んだ。そしてすべての言葉を飲み込み、深く頭を下げたのであった。